第1.8話 私生児の乳母アウロラ、昨晩の事件と隻腕の人狼について話し合うこと
クマは椅子の上で仰向けになって海老反りになった状態で、器用に眠っている。行儀が悪い、その態勢にどんなメリットがあるんだ、寝るならせめてベッドに行け、などといくらでも言いたいことはあったが、彼女の功績を考えると、叱れない。
足音を殺してそっと近寄る。クマは口を半ばまで開けていた。両手は大きく投げ出して、長い黒髪は床に流れている。
(きちんとしていれば可愛らしいのに………)
傍らに座り、せめて、と編んでやる。クマの髪の毛はふわふわとした猫毛で柔らかく、触っていると心地良い。
「これが……件の人狼ですか」
頭の上から急に声をかけられて、アウロラはクマの髪を掴んだまま立ち上がろうとしてしまった。たぶん「うびゃあ」と声が出た。もっと、くそ、きゃあとか、そういう声が出るように身構えておけば良かった。
「ぐ」と小さくクマが声をあげたが、瞼までは開かなかった。
「ああ、すいません……急に声をかけて。現場検証が終わりましたので」
と恐縮していたのは、背の高い痩身の男——騎士団の第2隊を率いるジリーだった。いまの恰好は戦場に出るときの鎧姿ではなく、警備としての制服でも、あるいは彼がかつて剣闘奴隷だったときの身軽な恰好でもなく、簡素な平服だ。ただ佩刀だけはしていた。
昨晩、アグナル邸に何者かが侵入した件で、朝から帝都騎士団の第2隊が検分に来ていた。クマは侵入者と戦い、逃げていった。状況は既に別の団員から聴取されていた。解放された彼女は「疲れた」と言ってここで寝てしまったのだ。
ジリーは朝、第2隊を呼んだときにはいなかったのだが、いつのまにか来ていたらしい。
「すみませんね、すぐに来れなくて」
ともう一度謝罪するジリーの立て耳は反省するように垂れていて、自分より頭ひとつ以上大きい男がなんだか可愛らしく見えた。
「何か、あったんですか?」
自分のところで大事があったのだからすぐに来い、などと言いたいわけではないがアグナルの立地は特殊だ。王座の第一継承権はないにしても、龍王の血筋である。しかも場所が場所だ。アグナル邸があるのは繁華街でも住宅街でもない。少し離れた閑静な場所で、だからこそ窃盗強盗に狙われたと考えられないでもないが、素直に考えるのなら相手は単純な盗人ではないだろう。
「実は、龍の行き先が判明しまして……」
「龍が……?」
5日前に現れたというドラゴン。早朝に現れたということで、目撃者は多くなかった。龍が何をしに来たのか、どこから現れたのか、そしてどこへ消えたのか、詳しいことはわかっていなかった。
「都外の牧童からなのですが、皇都の方面に向かった、という証言が得られました」
「皇都の……ということは、えっと、皇都が、なんというか、飼っているドラゴン、ということですか?」
「さすがにそれはないと思いますよ」とジリーは薄く笑った。「何某かの手段で龍を御せるのであれば、とっくにやっているでしょう。自分は、単にドラゴンは〈半島〉を巡っているというだけだと思いますがね……それでも皇都は無理矢理関連づけて調子付きそうな気もしますが」
人狼の男の最後のコメントは、龍の信仰に関するものだろう。龍に対しての考え方は都市によって違っていて、たとえば帝都では龍は都市を治める存在であるが、皇都では信仰対象である。神格化されているといってもいいので、あくまで玉座に着くだけの帝都よりも位としては上に扱われると考えていいかもしれない。信仰対象が顕現したのであれば、たしかにそれだけで皇都は天啓と見るだろう。調子付く、というのもわからないでもない。
「こうなると、王のことも少し心配ですね」
「皇都の反撃ですか」
という問いかけに、しかしジリーは首を振った。「いや……龍が出て調子づいたからといって、王の軍勢に対抗しうるとは思えません。自分が気になるのは、もっと単純に、龍が王を攻撃しうるかも、ということです」
「龍が……王を、ですか?」
「だって、王ですよ?」とジリーは真剣な表情で諸手を広げた。「あんな目立つ人が眼下に存在するんですよ? 龍でも……なんか気になるでしょ?」
アウロラは帝都騎士団のジリーほどには龍王ラーセンに近しい存在ではない。が、遠くで見ているだけでも、暑苦しい目立つ存在であるということは知っている。あれが眼下でうろちょろしていたら、たしかに巨大な龍でも少しくらい気になるかもしれない。
「おまけに王のことだから、龍が上空飛んでたら何をするか……」
弓で射かけるくらいのことはするだろう。それが龍に突き刺さったりするかもしれない。怒りを買って、反撃されるかもしれない。炎の吐息で焼かれたら、かくも勇猛な〈龍王〉でもどうしようもないだろう。死ぬだろう。
そうなったら、少しだけ愉快だ。
アウロラはその想いを、口には出さなかった。
「それはそうと……あの子を襲った侵入者のこと、何かわかりましたか?」
「あ、ええ、はい……いや、すいません」とジリーはアウロラと頭の位置が同じになるくらいまで深く頭を下げた。「正直、いまのところはまだ、何も……」
「そうですか………」
正体不明の侵入者。その人物を目撃したのはアグナルもだが、相対したのはクマだけだ。彼女曰く、「男」「でかい」「強い」だった。
「窓を切って入ってきたようですが、この館に侵入するとなると、ルートは限られます。検証の限りでは他の部屋には入っていないようなので、アウロラさんやアグナルに気づかれずに部屋を移動したことを考えると、館内の構造を知っていたようにも感じられますし……ある程度犯人は限定されると思うのですが………」
思うのですが、の先をジリーが言わない理由はわかる。
この館が帝都の繁華街からも住宅街からも離れている以上、侵入者は限定される。通りすがりの変質者など入りようがない。盗賊が入るのなら、もっと良い場所がある。ここには金目のものなどない。
であれば、狙われたのはアグナルだ。帝都を治める龍王ラーセンの私生児、アグナル。アウロラを敵視する人間は特に思いつかない——といって、べつに自分が誰からも好かれていると言いたいわけではないのだが、そもそもここ十年ほどは他人に殺されるほどの関係性を持ったことがない。
では誰がアグナルを襲うのか? 帝都を転覆させようとする簒奪者か、帝都に敵対する皇都の凶手か、でなければ、でなければ——王の死亡後の己の地位を確たるものにしようとする彼の姉か。最後の可能性は、アグナルの前では挙げられない。
(そうでなければ………)
未だ眠っている人狼の女性のことを見下ろす。
「ところで」とジリーが問いかけてくるのは、どうやらアウロラと同じ疑問だったらしい。「他の団員が直接尋ねても判然としなかったようなのですが、彼女は、どういう……?」
「あぁ……えっと………」逡巡。いや、隠すことはないか。正直に話すべきだろう。「あの、実は、アグナルが拾ってきて………」
「はぁ、またですか」とアグナルのことをよく知るジリーは驚きもしない。「前回のおっさんと比べると、若い女性ということで少々パンチに欠けますね。剣闘奴隷ですかねぇ」
「実を言うと、本人からは詳しい事情はまだ聞けていなくて」
「ふむん………」
ジリーは椅子の上で器用に仰向けに寝こけるままのクマの頭から爪先までをじっくり観察する。彼の視線に疚しいものはなく、ただ見ているだけというのはわかっているのだが、クマは薄着で、身体の線が浮いている。同性からしても、その肢体は蠱惑的だ。
「人狼ですな。自分はわりと帝都の剣闘奴隷は把握していると思っていましたが……この女性は見たことがありませんね」
「兵隊さんでも、ないですよね?」
「そうですね。それは間違いないです。可能性があるなら、他の都市の奴隷か……あとは剣闘奴隷として連れて来られる途中で逃げ出したのか………」ジリーは顎に手をやり、唸る。「本人が喋らないなら、こっちで調べておきましょうか。拾ってきたのはいつですか?」
「ええと、2日前です。その前から何日も何も食べていなかったみたいで……」
「2日前……にしては自宅にいるかのようなくつろぎっぷりですね」
と言われたのが、アウロラには自分のことのように恥ずかしかった。クマは奔放すぎる。
「場所は?」
「湖の近くの森にいたとか」
「ん?」
「へ?」
ジリーの言葉にアウロラは追従し、同じように首を傾げた。
「ええと……ひとつ、考えついたことがあって………」ジリーは言いづらそうに顎を撫でる。
「はい」
とアウロラは頷いてジリーの言葉を待ったが、彼の耳が動くだけで唇は結ばれたままだ。
「ジリーさん?」
「いや、それがですね」
と言いかけて、ジリーは口を閉じる。眉根を寄せる。耳が折れる。言うか言わまいか迷っている、というふうに見える。自分より背の高い、しかし幾分歳下の人狼の男性は、屈強な戦士でありながら時たま見えるこうした動作が可愛らしい。
「いや、やめておきます」
「そこまで言ったなら、話してくださいよ」
とアウロラは食い下がってみた。ちょっとだけ親しげに。ちょっとだけ勇気を出して。
「うーん、えっと、変な話だと思わないでくださいね?」と観念したジリーは口を開いた。「その、ですね、この女性がどこから来たか、なのですが……自分は最初、脱走した剣闘士かな、と思ったんですよ。アウロラさんも、そうじゃありませんか?」
アウロラは首肯する。
「うん、それで、ですね、ええと、ただですね、この女性、まったく逃げる気配がないでしょう? 警戒心がない。まだ寝てますよ。狸寝入りかもしれないけど。そこがだいぶ疑問で、もしかすると、剣闘士ではないのかもな、と………」
それはアウロラも少しだけ考えた。剣闘士ではないかも、と。
ではなんだというのだろう。
「それが、ここ最近で大きい出来事っていうと、5日前のアレがあったじゃないですか?」
「アレ………」
「龍ですよ。龍が来て、帝都の上を旋回していった日です。そのときに、何かを帝都に落としていった、という証言がありまして——」
だからこの女性は、ドラゴンから落ちてきたのではないかと思ったのです、とジリーは言った。
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