第1.7話 隻腕の人狼クマ、襲撃者の存在を感じ取ること

 右腕の肘から先が無くなってからまだ4日しか経っていない。にも関わらず、奇妙に身体へのダメージは薄かった。

(龍の火のせいだったりして)

 落下、飢餓、右腕がなくなったことへの精神への影響。それらはクマの心身を蝕んではいるのだが、それらはなんとか抑えられる程度の状態だ。だがなによりもクマの心に影響を与えていたのは、火龍の存在そのものにほかならない。

 龍の伝説などというのは、そもそも信じる信じない以前だった。所詮、空を飛ぶ、でかい蜥蜴だ。おまけに火も吹く。そんなのがいてもいなくても、クマの生活には関係がない。そう思っていたし、そのように行動していた。〈龍王〉ラーセンの暗殺に赴くまでは。


 クマは今日もアグナルの部屋のベッドで横になっていた。部屋の主であるアグナルは、アウロラの部屋で寝るらしい。「あまり寝る場所を変えたくない」と言ってみたら、その主張が通ってしまった。ありがたいのだが、いかにクマが厚顔とはいえ、さすがに申し訳なさを感じないでもない。

 アグナルとアウロラ——見ず知らずの不審者であったクマを拾ってくれたふたりには、いちおう、感謝は、している。

 が、何を考えているのかよくわからないとも思っている。


 いや、何を考えているのかは、わかるか。幼いアグナルはアウロラのことを母か姉のように好いている。アウロラは赤子の頃から見守っていたというアグナルのことを立派に育て上げようとしている。つまり、お互いにお互いを思いやっていて——それはいい。何を考えているかはわかるのだ。

 わからないのは、何を隠しているか、だ。

 一般的な帝都の住宅は知らないが、この家は小振りながら上等な部類だろう。皇都の教会には豪奢なステンドグラスがあったものだが、この家の居間にはそれよりも小さいものの、遙かに緻密で美しいステンドグラスが掲げられている。如何に帝都が鍛治と奴隷の街だとはいっても、どこにでもこのような精巧な工芸品があるわけがない。風呂や台所もそうだし、たったふたりの暮らしなのに、食材や衣服に苦労しているようにも見えない。

 貴族の私生児という話は嘘ではあるまい。父親の話が話題に登ることはほとんどなく、見向きもされていないような話ではあったものの、少なくとも金銭面に苦労するような立場ではないのだろう。アウロラの存在や、日頃の食生活を見ても、それはわかる——アウロラのせいか、少し健康嗜好すぎるような気はするが。


 クマはその背景を追求する気はない。気はないが、疑問なのは、彼らがクマの正体を深く探ってこないことだ。昨日、クマの目的を問いかけてきて「龍王の私生児を探している」という部分的に正しい答えを聞いて、それで納得したかのようにそれ以上は追求してこなかった。

(何か、探られたくないことでもあるのだろうか)

 あのふたりが単に心優しい者たちだから、などと考えるほど、クマは愚かではない。こちらに突っ込んでこないのは、相手に突っ込まれたくないところがあるからだ。話したくないような事情が。

(ま、いいさ)

 基本的にクマには、アグナルたちの事情には興味がないのだ。隠したいなら隠せばいい。クマには関係ない。

 問題は、だから、自分のことだ。


 月明かりだけが照らす闇の中、ひとつきりの腕を枕にして寝返りを打つ。考えるべきは、己のことだ。己の、目的。クマの。目的。

 龍王の私生児を、探す。

(そうして、どうなる?)

 クマはまだ、己の目的すら覚束ない。龍王の私生児を探し——守る。それは、彼女の心の底からの願いではない。彼の息子を守るというのは、報酬への対価である。龍王ラーセンは、彼の暗殺に失敗したクマを殺しもせず、己の配下として雇い上げようとした。その背景には、クマが人狼であるということもあるのだろう。帝都では人狼といえば剣闘士か兵士であると聞いているが、それでもひとりの人格が認められているだけマシだ。皇都では、人間扱いされない。使い捨ての道具でしかない。雇われるなどありえない。ただ使われるだけだ。ラーセンもそれを知っていたのだろう。

 実際、クマは彼の提案に心動かされた。あるいは彼自身に、かもしれない。

 彼は皇都を攻めてクマを束縛しているものを確保し、クマは代わりに彼の息子を守る。そんな約束があった。あったが、彼は——。


 引っ掻くような音がした。


(誰かが起きた?)

 猫が壁で爪研ぎをしているわけではない。この家に猫はいないし、爪を研ぐにしてはストロークが長すぎる。何か硬いもので、硬いものを押し続けているような、剣先で鎧の表面を撫で付けているような、刃で硝子を切ろうとしているかのような、そんな音だった。

(明日の朝食の仕込み?)

 その音の甲高さが、一般的な人間にはほとんど聞こえない周波数であるということを、暗殺者としての経験で悟っていた。

(侵入者?)

 足音はほとんどしなかった。が、人狼であるクマの耳は、布団越しにも足音の発生源の向きと距離がわかった。

(ひとり)

 遅くはない。速くもない。

 迷っていない。迷いがない。

 離れていない。近づいてきている。

 扉を開いた。入ってきた。

 真っ直ぐに。近づいてきた。


 クマは判断を迷わなかった。侵入者はアグナルではないし、アウロラでもない。ふたりの足音ではないのなら、万が一無害な人間であったとしても、言い訳は立つ。侵入者に向けて布団を跳ね飛ばしながら、身体を回転させて落ちるようにベッドから降りる。

 先制攻撃されることを予期していなかったのか、侵入者は布団を被せられて身動きが取れなくなっていた。突っ立っているその人物の頭部に向け、布団越しに蹴りを叩き込んだ。

(——蹴りにくいッ!)

 片腕を失っていることでのバランスに慣れておらず、勢い余って回転しながら倒れる。くそ、どちらが攻撃しているかわからない。後方に転がりつつ飛び跳ねるように立ち上がる。

 月明かりだけでも、クマの目には状況を確認するには十分だった。敵は、ひとり。それは耳で捉えていたとおりだが、目には見えないものもあった。

 身の丈は、クマよりは大きい。布団込みで考えると、成人男性程度だろう。突如として攻撃を受けたはずなのに、声ひとつあげない。そして重い。


 重いというのは、重量そのものが、ではない。

 侵入者にとって、急に布団を被せられたのは予想外の反撃だったはずだ。視界を防がれた中で攻撃を受けたのも。それなのに、しっかりと、踏ん張って耐えた。ならば、攻撃は完全に予想外ではなかったか、瞬間的に対応したか、でなければ常日頃から襲撃を想定しているような人間なのか。

 失敗した、と舌打ちする。

 相手の容姿を確かめずに布団を被せてしまったこと、頭を狙ったこと、隻腕になれていないのに身体を振り回す動作で倒れてしまったこと、後方回転で距離を取ってしまったこと。

(狙うんだったら足だったかな………)

 いや、足を狙ったとしても、敵の重さを考えると倒すことはできなかったかもしれない。投げるべきだった。クマの凶手として取得した技のほとんどは暗器を用いたものではあるが、素手での戦いも想定している。ナイフで首を描き切るにしても、転かせて刃を突き立てるほうが楽な場合もある。


 最初に投げなかったのは、隻腕だったからだ。相手の体重を繊細に感じ取りながら投げるのは、いまはまだ無理だと判断した。武器はなく、だから、蹴った。選択肢は間違えていないような気がしたが、しかし、安全そうな選択肢に流されただけかもしれない——こんなこと考えていること自体、無駄な思考をしている。とにかく、まずは倒さなければ。倒せばひとまず落ち着ける。

 飛び込みかけたクマは、しかし直前で思いとどまった。自分の勘はまだ落ちていないと思った。

 剣が飛び出してきて、布団を切り裂いた。裂かれた布団が床に落ち、襲撃者が姿を現す。

 ターバンのようなもので覆面をしていて、顔は明らかではない。暗闇では、瞳の色すらわからないが、男だ、とクマは思った。男だろう。女ではない。肌のどこも露出しておらず、体格のわかりにくいゆったりとした服を着てはいるが、全体的な体格からそれはわかる。痩身ではあるものの、痩せ細っているというよりは、引き絞られた鉄のような硬質さを感じる。


 わかることは3つ。


 ひとつ、相手はこちらを殺す気があるということ。襲撃者に対して何を言わんや、と思わないでもないが、この男はほとんど動作せずに布団を切り裂いた。おそらくは最初から剣を抜いていたか、でなくとも抜けるようにしていたのは間違いない。蹴りを入れるのが一瞬遅かったら——あるいは距離を取っていなかったら、剣先はクマの足を貫いていたかもしれない。


 ふたつ、本人の腕のみならず、剣も相応のものであるということ。綿入りの布団は、固定してならともかく、被せられた状態のまま切断できるものではない。それを紙のように、容易に断ち切った。腕もそうだが、上等な武器を使っている。


 みっつめ。

(こいつ、おれより強い………!)

 べつに、見ただけで相手の強さがわかる、などというわけではない。クマは弱っている。隻腕で、三日の飲まず食わずから回復したばかりで、下着しか身につけていなくて、武器は何一つなくて、こんな状態で、勝てる相手ではない——その程度のことはわかる。


(失敗した、か)

 なおさら、先制の一撃で制せなかったのが悔やまれるが、しかしどうすれば正しかったというのだ。足を狙っても倒せなかっただろうし、投げに移行していたら刺されていただろう。唯一の手は、逃走だったかもしれない。

 なによりも不味いのは、相手には武器があるというのに、こちらには一撃必殺の戦い方がしようがないということだ。こちらに相手を殺傷しうる道具を持っていないのが明らかであれば、敵の動きも大胆になる。

 クマは牙を鳴らした。唯一の例外は、人狼の犬歯しかない。目の前の人間が歴戦の戦士であるのならば、人間よりは多少は鋭い、肉を噛み切るときには役立つ程度の牙を恐るとは思えないのだが。


 剣の侵入者がクマの牙を意にも介さず、剣を構え直したときだった。

(なんだ?)

 何かに気づいたかのように、一瞬だけ男が背後に視線を向けた、ような気がした。ほんの僅かな動作だったが、戦いに関係のない動作が挿入された。何かあったのか。

そう考えたとき、クマにも彼が何を感じ取ったのかを理解した。

「クマ?」

 と部屋の外から声が聞こえた。甲高い、子どもの声。軽い、子どもの足音。アグナル。

「馬鹿、来るな——!」

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