第1.6話 私生児の乳母アウロラ、龍王の私生児について隻腕の人狼と語り合うこと

(ほんとに、でかい犬だな)

 いや、むしろ猫だろうか、とアウロラは思う。クマと名乗る隻腕の人狼は、掃除に来たアウロラのことなど意にも介さず、ベッドの上で眠っている。自分勝手だ。昨日も結局、このベッドの上で寝たのだ。


「クマ」

 と声をかけても、返事がない。もう陽も高いのに。アグナルは城へ剣術の鍛錬に向かったのに。

「クマ!」

 アウロラが布団を剥ぎ取ると、クマはベッドの上で丸まっていた。薄く目を開いて金色の瞳を覗かせたので、起きてはいるらしい——またすぐに瞼を閉じてしまったが。

「クマ、起きなさい」

「なんで」

「なんでじゃないよ……」アウロラは頭を抱えたくなった。「もうすぐ昼」

「それで」

「それで、ではなくて、起きて。邪魔。あなたの汚した布団を洗わなければいけない」

 アグナルの母親が亡くなってから、名実ともに子どもであるアグナルをたったひとりで育ててきたアウロラだったが、思えばアグナルは扱いやすい子どもだったと思う。何か頼めば素直に言うことは聞くし、生活は規則正しいし、好き嫌いはしないし、お手伝いはしてくれるし、可愛らしい。目の前の女は、その逆だ。


 アウロラはベッドの上の女を蹴落として、シーツを剥ぎ取った。昨日は弱っていたからまだしも遠慮していたが、ひとまず怪我が重篤ではないことや、昨日よりずっと体調がマシになったことが確認できた以上、遠慮をする理由はない。そもそもが、居候である。

 洗濯物を洗って、庭に天日で干し、中に戻ってみると、窓の陽の当たる場所でまたクマが丸まっていた。長い髪が広がっていて、踏んづけそうだ。踏んづけてやろうか。

「邪魔」

「ここが暖かいんだ……飯は?」

「飯は、じゃないよ。もうすぐお昼だから、それを待ちなさい」

「朝の残りがあるだろ。なんか喰わせてくれ。まだ腹が減っているんだ」

 知り合って一日しか経っていない相手を足蹴にする自分もどうかと思うが、この女性の傍若無人さは相当だ。

 アウロラは諦めて、朝作ったフェンネルのクリームスープと固パンを出してやった。「椅子に座って食べなさい」と言わなければならなかった。


「あいつは?」

 とパンを口に運びながら、クマは尋ねてきた。相対してその顔を眺めていると、愛嬌はあるのだが、その気怠げな様子は見ていて腹が立つ。

「アグナルなら、城に………訓練に行った」

 アウロラが一瞬言い淀んだのは、この女性にアグナルの正体を知られたくないと思ったからだ。城に訓練に行くというその話は、彼女に告げてある「アグナルは貴族の私生児」というカバーストーリーで不自然ではないだろうか。貴族の私生児、というのは嘘ではないのだが。貴族というか、王なのだが。

(口裏合わせの台本でも作っておけばよかった)

 といまさらながら後悔する。いちおう「正体を明らかにすべきではない」という点ではアウロラとアグナルの意見は合致しているのだが、擦り合わせをしていない。


「あ、そう。訓練? あんなひょろっちいのに……兵隊にでもなろうってのか?」

 と特に気にかけたふうでもなく、純粋な疑問としてのようにクマは言葉を返してきたのでほっとする。

「なに、おかしい? 昼間っからごろごろ寝ているよりは、健全でしょう?」

「兵隊になって何になる? いいように使われて、死ぬだけだろう。それならもっと他の職業に就くべきだ」

 剣闘士よりはマシだろう、と反論しかけて、さすがにそこまで言うことはないだろうと思い直す。いかに相手が失礼千万の阿呆でも、無理矢理〈帝都〉に連れてこられて剣闘奴隷にされたのであれば、アウロラは同情せずにはいられない。


「で、城だ? あいつ、大丈夫なのかな。おれのことを誰かに喋ったりはしないのか」

「そういう子じゃない。アグナルはわかっている……喋っちゃうとすれば、ミアさま相手の場合だけど………」

 と口にしてから、しまったとアウロラは思った。顔に出た。「しまった」と実際に口にしかけた。

 私生児のアグナルの名は知られておらずとも、王の娘であるミアの名はもちろん一般に知られているだろう。己の命運以外には興味を持たない剣闘奴隷であったとしても、だ。ミアという愛称を持つ女性はけっして珍しいものではないのだが。

「ミアって?」

 と問いかけるクマの所作は、演技をしているようには見えなかった。

(本当は、警戒しなければいけないのはこいつなんだけどね………)

 改めてクマという、狼だか猫だか熊だかわからない女性のことを眺める。


 彼女は昨夜、己の目的を「龍王の私生児を探しに来た」と言った。〈龍王〉ラーセンの私生児が他にいる可能性もないではないが、少なくともアウロラが知る限りはアグナルだけである。警戒もする。

「どうして?」というさらなる問いかけに対する、クマの返答は、視線を逸らして「うぅん……」と唸るというものだった。

 この反応からまずわかるのはクマという女性があまり嘘が得意ではないということだ。そもそもアグナルが誰かに迷惑を考えるなどというのは考えにくいので、憎まれるとすればその父親である〈龍王〉なのだが、クマが恨みを抱いていたとしても、「王の私生児に用がある」だなんてことを言うはずはないだろう。それらしい理由を練り上げて、うまく潜入しようとするはずなのだ。


 もうひとつ、気になるのは、クマの目的である。

(龍王の私生児ねぇ………)

 彼女がまったく嘘を吐いていないとするならば、なぜ〈龍王〉ではなく、その私生児に用があるのかが不明だ。王のことを子どもを通じて諌めようとでもするならば、王位継承権のある王族に——つまりミアに言うだろう。それなのに、なぜアグナルなのだ。

 アウロラとアグナルは彼女のことを、脱走した剣闘奴隷だと思っていたのだが、違うのかもしれない。では何なのかと訊かれたら、よくわからないのだが。

(直接聞くわけにも……うーん………)

 昨日の問答のときのように、正体を迫った結果として逆にクマからアグナルがどういう人間なのかを問われても困る。誤魔化せる気がしない。クマがなぜ龍王の私生児を探しているのかが判明しないうちは、あまり踏み込みたくはない。


「ミアさまは、アグナルの……腹違いのお姉さん」

 とアウロラは嘘を吐かずに真実を答えられる範囲で口にする。アウロラも嘘が得意ではないという自覚はあるので、下手に嘘を吐きたくはないのだ。

「つまりそれは、あちらは妾腹の子ではないということか」ふむ、とクマは首を傾げる。「そういう関係は、仲が良いものなのか? どちらも私生児だとかならまだしも納得がいくが、そのミアという女は貴族なのだろう? あの子の暮らしも……あんたのようなやつがいるのだから平民のそれとは思えんが、貴族の待遇よりは劣るだろうに、仲良くできるのか?」

「それは——」

 アウロラもその意見には納得できる。が、それは外側から見た意見だ。

「アグナルはね、ミアさまのことが好き好き好きで、だーい好きなの」

 と言ってやった。


「理由になってない」

 とクマは言うが、実際、そうなのだ。アグナルが剣術の練習をしたいと言い出したのも、ミアが玉座の第一継承者になってからだ。通常、〈帝都〉の玉座の継承順は女児は低く、他の男児がすべて継承権を失わない限りは、玉座に着くことはない。だが一年前に彼女が第一継承者となってからというもの、アグナルは次の王座の継承者を守ることを考え始めている。まだ二次性徴前の幼い少年が。

 アグナルが彼女に気を許すのも、わかる。父親は〈龍王〉であり、尊敬する人物ではあるかもしれないが、頼りになる身内ではない。優しかった母親は死んだ。アウロラは……アウロラはできる限り彼の力になってやりたいと願っているが、肉親ではない。

 ミアはアグナルにとって同じ父親を持つ存在であるうえ、アグナルには優しい——と思う。アグナルはラーセンを父と呼ぶことは許されていないが、ミアのことは姉と呼ぶことができる。


「と思うって?」

 という言葉尻を捉えたクマの問いかけには、アウロラは肩を竦めて返すことしかできなかった。あの美しく気高い次期女帝のことがアウロラは苦手だが、その理由はうまく言葉にできなかったからだ。だがもし言葉にしようとしたのならば、「自分以外の人間をすべて下だと思っている」ような目をしているからだろう。アウロラはあの目を知っていた。あんな目をする人間を。

「よくわからんね」

 とクマが言ったとき、玄関のほうで来客を告げる鈴が鳴った。この家に、来客などそうそうない以上、扉を開けたのはアグナルだった。


「おかえりなさい」

 とアウロラはアグナルを迎えた。走ってきたのか、金髪に汗が光っている。少し前までであれば、出かけていた彼を出迎えると「ただいま」とぎゅうと抱きついてきたのだが、最近はただいまの一言で済まされてしまう。なんとなく寂しくある。

「おかえり」

 と席から離れようとはしなかったが、クマも声をかけてきた。

「ただいま……もしかして、いま朝ごはん、食べてるの?」

「まだ体力が戻っていない。いくら寝ても足りないし、いくら食べても足りない」などとクマはのたまった。

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