第1.5話 龍王の私生児アグナル、人狼騎士と剣術訓練を行うこと
剣は首のあたりに当たった。痛いだろう。これは、痛い、間違いない。いや、痛い、程度の話ではなく、死ぬかもしれない。剣が木剣ではなく、相手が藁と木で作った人形でんかえれば、死んでいる。
「いまの打ち込みは良かったですね……一度、休憩にしましょうか」
と傍らでアグナルの様子を見守っていた男が言った。アグナルは頷いて汗を拭き、藁人形の近くの石階段のところに腰かけた。
兵の訓練場は正方形の城の中庭にあり、十字で区切られた四つの区画から成っている。北西区画は兵訓練場であり、剣や槍の訓練のための人型藁人形のほか、弓の練習のためのレーンや相撲のための砂場があったりする。しかし〈龍王〉が兵の大半を率いて出兵している現在、訓練場に活気はなかった。
「お、なんかおやつですか?」
と剣術を指導してくれていた男が、アグナルの膝に載せたバスケットを覗き込んでくる。
「召し上がりますか? 」とアグナルはバスケットを開いて差し出す。「アウロラのです」
「おお、アウロラさんのだったらお墨付きだな。じゃあ、ひとついただきます……トルテですね。この中身は、木苺か」
一緒に齧り付く。丁寧に網目模様が描かれた生地からはシナモンとアーモンドが香り、挟まれた木苺のジャムは甘酸っぱい。
「美味いですね」
「そう?」
「甘いのはお嫌いでしたっけ?」
「いや、そういうわけではなくて……ジリーの感想を、アウロラに伝えておこうと思って」
「ああ、美味いですよ……いや、味覚にはそこまで自信がないので、あんまり自分の感想を求められても困りますが。アウロラさんの作るのはなんでも美味い」彼の耳は真横に倒れている。美味い、という感想は嘘ではなさそうだ。「なんかこれ、新作なんですか?」
「そういうわけでは——」
ないけど、というアグナルの言葉はもごもごと口の中で消えた。
「龍は、どうなりました?」
と改めて問いかけたのは、アグナルの剣術の稽古をつけてくれているジリーが、二十代の若干ながら帝都騎士団の第2隊の隊長だ。第1隊が王の直属で護衛を行うのに対し、第2隊以下は騎士団長に統率されており、隊ごとに役割が割り振られている。第2隊の役割は、帝都の治安維持である。
「いやぁ、駄目ですねぇ」と彼は肩を竦めた。「もう4日です。どこへ行ったか、とんと検討がつかない。だいたい、いまのいままで伝説の存在だったわけですから、龍が何を食べて、どこで暮らしているか、なんていうのも明らかじゃない。いちおう、アグナルやほかの者の証言で山を越えて東へ飛び去ったことはわかっているのですが……たぶん海も越えましたね」
「なんでこの前は来たんでしょう?」
「さて、吉兆か凶兆か……」ジリーは顎に手をやる。「咥えていた何かを城に落としていった、という話もあるにはあるんですが……路地裏で寝ていたような酔っ払いの証言だったせいで当てにならないと来る」
「凶兆………」
ただちに思い浮かぶのは、出兵中の父親のことだ。いま頃はもう皇都にほど近い場所にいるはずなので、たとえ何か悪いことが起きたとしても、その報せが届くには早馬でも1週間がかかる距離である。
「ま、ラーセン王に限っては問題はないでしょう」とジリーが励ますように言った。
「父上は……王は前線に立っておられる」
「そうですね。でも、ラーセン王は……まぁ、特別です。あそこまで強いお人は、自分でも見たことがありませんね?」
「ジリーよりも、強い?」
と問いかけてみると、彼は唸った。
ジリーも、元は剣闘奴隷である。クマと同じく、東方の人狼の。本名はジルイだとか、そんななのだと聞いたことがあって、その字も教わったことがあるが、難しすぎて覚えられなかった。
彼はその優しそうな細面に似合わず、負けなしと言われた男で、身体には傷一つないと聞いたことがある。
「いやいや、実はそうでもなくてね」と以前に彼の無傷神話について尋ねたとき、彼がおどけて見せたことを覚えている。「猫を拾って来たんですが、やられちまった傷があってね。料理をしようとして指を切ったりだとか、そういう傷もありますよ」
などと謙遜していたが、振り返ってみれば、これは謙遜ではあるまい。あくまで、戦でついた傷はない、と言っているのだから。
ジリーが隊長を務める第2隊は帝都の治安維持が目的である。これが他の街なら違うのかもしれないが、帝都での治安維持ほど忙しいことはない。王家の反逆者、簒奪者、革命者といった半王家の勢力や単純な暴力、窃盗、強盗、強姦といった犯罪に身を費やす者の存在は、そこまで大きな問題ではない。どこの国でも、どこの土地でも存在する問題だ。
帝都特有の問題は、剣闘奴隷の脱走にある。元が戦闘に長けている者ばかりである。自分から望んで剣闘士になった者ならともかく、外国から連れてこられた剣闘奴隷となれば帝都への恨みは大きい。結果、剣闘奴隷の脱走が凄まじい事件に繋がったりもする。そうしたことは実際、あった。アグナルはそれを、体験として知っている。
が、ジリーという男が治安維持に当たるようになってから、そうした事件は著しく減った。それがこの痩せた男の外見に見合わぬ力であり、飄々とした表情に表れぬ技なのだ。
「さて、自分と王が戦ったら、という話ですが……ま、状況次第ですがね、たとえば剣闘だったら……そうですね」ううむ、とジリーは顎を曲げた親指と人差し指で挟んで思案げな表情になる。「まともな力ならあのひとには勝てないのですが、ふむ、勝てる状況を考えると、自分のほうが感覚は鋭いでしょうし、目隠しした状態の闘いなら……うーむ、やべぇな、なんか動きを察知されて叩き斬られる想像しかできない」
「軍隊だと?」
「兵を日聞いての軍事的な戦いなら、簡単ですね」ジリーにやりと笑う。「間違いなく負けるでしょうね。自分は王ほどに勇敢でもないし、命知らずでもない」
「剣闘士だったのに?」
「命知らずは剣闘士になれません。ひとつの小さな怪我が次の試合の大怪我に繋がる世界です。一度大怪我をしたらもう復帰はできません。稼げない剣闘士は治療もされずに捨てられるだけです」
「ジリーみたいに強い人でも?」
「剣闘士は入れ替わりの多い環境ですからね。どんなに強い剣闘士でも、三ヶ月も出場しないでいたら忘れ去られます」
自分は運が良かったのです、と彼は肩を竦めた。
「もしや、玉座を取られることでもお考えですか?」
「え?」
「いや、そんなことは」慌てて否定する。両手を振って。「なぜ、急に、そんな………」
「いえね、最近のアグナルは剣を習おうとしたり、お父上のことを気にされたり、と、そんな具合なもので」とジリーはにやりと笑った。「てっきり、ご自分に玉座の資格があるということで、簒奪者になるつもりかと期待したのですが」
「そんな、わたしには……その資格はありません」
と否定する、その気持ちは本音だ。父は王である。国王である。龍王である。しかしアグナルは私生児だ。それ以外の何者でもない。本来の玉座に着くべき者が誰もいないならともかく、いまはアグナルよりももっと龍の玉座に座るに相応しい人物がいる。
「あの、わたしは、姉さまが心配なんです」
「と、いうと?」
「姉さまがが、次の王になったとき、大丈夫なのだろうか、と………」
アグナルは想った。たったひとりの——たったひとりになってしまった、腹違いのきょうだいのことを。姉のことを。その美しい姿のことを。
「わたしは、だから、姉さまの騎士になりたいのです」
「なるほど」
ふむ、とジリーは頷いてしばらく遠くを見つめる視線になった。いつもの茶化した様子は消え、真剣な——どこか戦闘中のようにも見える、厳しい表情が一瞬だけ覗いた気がした。
「ま、それに関してですが——少なく見積もってもに20年は心配なさる必要はないかと思います」とジリーはしばらくしてから言った。「先ほど申しましたように、王は化け物みたいな強さですし、皇都の征伐を終えたら、あとは小規模ですからなぁ。森林部族どもは問題になりませんし、学都も技術的には高度かもしれませんが軍隊としてはたかが知れています。とすると、〈半島〉で問題になりそうなのは北方の〈氷の魔王〉くらいのものかと」
と言ってから、彼は小さく笑った。
「王が〈半島〉を統一してしまうのも、正直なところ、自分には不可能ではないと思えてしまうのですよ。個人としても、統率者としても、見ての通りの方ですし、勝てば負けなし。ここまで時間がかかったのも単に兵糧の問題ですからね。あの方は矢も掴むうえ、投げつけられた投げ斧の柄を掴んだりもしますから……そう、ご存知ですか? あの方は毒も効かないんですよ」
「どういうことですか?」
とアグナルは尋ねた。アグナルは父親である〈龍王〉ラーセンと会話した記憶がほとんどない。それでも、彼に興味はある。ないわけがない。
「昔——まだアグナルが産まれる少し前の話ですね、皇都の暗殺者が忍び込んで酒に毒を混ぜたことがあったのですが、その酒を王は飲み干してしまったそうです」とジリーは笑いながら言った。「あとで捕らえた間者から聞き出したところによれば致死毒だったそうですが……王は腹を壊し、嘔吐こそしたものの、ご存知のとおりで、ぴんぴんしておられる。化け物だと言いたくなる理由がおわかりでしょう?」
その話は知らなかった。そんな話を聞けば、他国から〈龍王〉と恐れられる理由もわかるというものだ。
「ま、さすがに運が良かっただけというのもあるのでしょう。身体には効いたわけですからね。それ以後は、酒に気をつけるようになったそうですよ」
「へぇ………」
私生児として——王家の外の人間として祭りなどで見る〈龍王〉は酒を大量に飲んでいて、気をつけているようには見えないのだが、あるいは毒を仕込まれないような酒だけを飲んでいるのかもしれない——意外と繊細なのだろうか。
(ぼくは、父上のことは何も知らないのだよなぁ………)
とアグナルは改めて、人前では父と呼ぶことができない父のことを想った。
身体は十分に休んだ。そろそろ訓練を再開しなければ。そう思ったときに、アグナルが訓練をする理由である女性の声が響いた。
「アグナル」
静かな足音、杖の音、それらに続いた彼女の声は静かで落ち着いていて、しかしよく通って、アグナルにはいつも耳元で囁かれているかのように感じる。人の少ない訓練場でゆっくりと歩み寄ってきた長い金髪の女性は、アグナルの腹違いの姉であるミアだった。
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