第1.4話 龍王の私生児アグナル、隻腕の人狼との対話を試みること
「おい、なんだ、これは」
「南瓜のスープ。見ればわかるでしょ?」
「これじゃ腹は膨れん。肉が喰いたい」
「馬鹿言わないで。我慢しなさい」
「おれは肉が喰いたいんだ」
人狼の女性とアウロラ、ふたりの大人の女性の会話に耳をそばだてる。
(アウロラは初めて会った相手なのに仲良くできて、すごいなぁ………)
人狼の女性の向かいに座るアグナルは、素直に感心した。彼はというと、森で拾ったときの会話が最後で、それからは人狼の女性とは一度として言葉を交わせていない。
不満そうに木の椀に入った黄色いスープを啜る女性をじっと見ていると、黄金色の目が動いて視線を合わせてきた。
「なんだ?」
と人狼の女性が問いかけてくるが、咄嗟に言葉が出てこない。緊張するのは、単に知らない相手だから、というわけではなかった。長い黒髪の、慎しみ深いドレスを着た女性。その姿は、幼い頃の記憶を思い出させるのに十分だった。
「あの、えっと……これ、食べますか?」
考えた末、アグナルはずいと己の前の皿を押し出す。彼の前には人狼の女性と同じ南瓜のスープのほか、ビーツとスペルト小麦とりんごのサラダ、人参とズッキーニとセロリのタルト、向日葵油で揚げた鯉の皿が並べられていた。押し出したのは揚げた鯉の皿で、肉ではないが、好きそうだったためだ。
「アグナル、いいんですよ」
と横から制したのはアウロラだった。
「お腹が減っている人に急にいろいろ食べさせるのは良くないんですよ。下手すると、死んじゃいます。軽いものから慣らしていかないと」
と叱られてしまった。
人狼の女性の様子を伺うと、肩を大きく——肘から先がない右側は勢い余ったのかいくらか大きく——竦めた。彼女自身も自分の体調については理解しているらしく、「ま、そういうわけだ。いまはこれで、まぁ我慢するよ」と言った。
「我慢って何? あなたね、いくら人狼だからって肉とかばっかり食べてたんじゃ……ん? あれ、犬って南瓜とかって大丈夫だっけ?」
「おれは犬じゃない……大丈夫。いちおう。くそ、もっと美味いものをくれ」
「口に合わないなら食べなくてもいいんだよ。さっさと出て行ってくれ。それに南瓜は健康に良いんだよ。スープにすると、消化も良いし」
とアウロラが唇を尖らせる。彼女の料理はいつでも季節の彩りがあり、美味しく作ってくれる。
「あとね、あなた、あんまり乱暴な言葉を使わないでくれる?」
「乱暴な言葉って、どういうの?」
「肉が喰いてぇとか、飯を食わせろだとか、おれだとか、くそだとかアホだとか、そういう言葉」
「おまえのほうが言葉が乱暴だろう」
と人狼の女性が言い返すとおり、いまの文脈だけ辿ると、確かにアウロラのほうが何倍か口汚く聞こえる。いつもはもっと物静かな女性なのだが。
アウロラ自身も反論できなかったのか、ふんと息を吐いてから、食事に戻る。
いつもの、アウロラとアグナルだけのふたりの食事——そこに人狼の女性が隻腕で食べづらそうに加わったというのに、食卓はいつもより静かだった。
アグナルにとって、歳上の女性というのは基本的に接点がない相手だ。何を話してよいものかわからない。例外はふたりだけいて、ひとりはアウロラだが、どちらも幼いときから見知っている相手だ。会話に困ることはないし、そもそも言葉を交わさなくても居心地が良い相手である。人狼の女性は、そうではない。何も会話がないままでいると、なんとなくそわそわとしてくる。
アウロラも人狼の女性も、食事が始まる前の姦しさはどこへやら、静かに匙を動かしている。
(そうだ………)
「あの、あなたのお名前はなんですか?」
という問いかけに対し、瞳を大きくして匙を持ち上げた人狼の女性は、「人に名前を訊くときは、自分から名乗るものだろう」と返して来た。
「てめぇ、ぶっ殺すぞ」
とアウロラが言った。
「やっぱりあんたのほうが言葉が乱暴だと思う」
「あなたね、自分の立場わかってる? アグナルは、道端で落ちてたあなたを、何も聞かずに拾ってくれたんだよ? お風呂にご飯まで………」
「いま、訊かれてる」
「グダグダ言わないで——」
「あの、わたしはアグナルです」ふたりのやり取りを聞いているといつまでも終わりそうになかったので、アグナルは己の胸に手を当てて自己紹介をした。「えっと、もう何度か呼ばれているから、知っているかもしれないけど。あと、こちらはアウロラさんです」
「おれは、くまだ」
「くまだ?」
「クマ、が名前なの」
「クマ……変わった名前ですね。何か意味とかあるんですか?」
「
と「クマ」と名乗った人狼の女性は、隻腕の掌を猫のように小さく握ってアグナルに向け、
「狼なのに?」
「だったらあんたは『人間』って名前なのか」
という言葉にアウロラが反応しかけたが、今度は眉間に皺を寄せただけで済んだ。
「だいたい、人狼ってのはこっちでの呼び方だろう。おれの産まれたところでは、人虎と言っていた」
「じんこ?」
「虎だ、虎。人の虎。熊じゃなくてな。知ってるか? でかい猫だ」
と彼女は言う。熊よりは猫のほうが似合うかもしれない、と思いながら、アグナルは質問を続けた。
「どこから来たんですか?」
「どこから……出身は、東方だな」
という言葉には、わずかに言い澱みがあった。迷い。何を迷ったかはわからないが、「どこから」という言葉を出身地として捉えたことで、何を言いたくなかったかは想像できる。
〈半島〉は巨大な大陸のうちの一部分だ。その通称のとおり、半島のように大陸から突き出た形をしているが、南を上に向けるとその形状が飛び立とうとする龍のように見えることから、〈龍の半島〉とも呼ばれている。
〈半島〉に国という概念はない。代わりに都市がある。有力な豪族が作り出した三大都市——すなわちそれが、皇都であり、学都であり、アグナルたちのいる帝都だ。帝都はドラゴンの頭の位置に相当し、半島の中では南西部を占める。南東部が学徒であり、北東部に皇都がある。都市はこれだけでなく、さまざまな場所に人が住んでいて、その中にも集落があり、都市に近いものもある。代表的なのが皇都よりさらに北方、未到達地の山脈を背にしている〈氷の魔王〉の根城だ。
現在、帝都の王であるラーセンは軍を率いて皇都へと向かっている。これまで全戦全勝、破竹の勢いで進む化け物のごとき王がこのまま皇都を喰らい尽くすことは誰しも予想している。皇都を破れば残る大型勢力は学都のみで、基本が専守防衛、というより〈半島〉の覇権にほとんど興味を持っていないようなので、問題にはならない。そのあとは魔王の相手だけだ。
そのあとは——そのあとは、どうするのだろう。私生児であり、城下に住まいを持たず、王族ではないアグナルには、ラーセンの思想は知らない。到達不可能山脈へ向かうのか、それとも海を越えてさらなる領土拡大を目指すのか。
帝都の現在の情勢はともかくとして、東方というのは〈半島〉から海を越えた東に位置する領域の総称だ。巨大な大陸の一部であることはわかっていて、おそらくは〈半島〉の北の到達不能山脈を越えていけば地続きになっているのだろうということは予想されているが、そこまで探検した者はいない。現在のところは海路のみが有効なルートだ。 東方には〈半島〉では得られないものがあり、いずれの都市もそこから利益を得ている——人狼のような、〈半島〉土着ではない種族もそうした「利益」のひとつだ。
「年齢は? あ、わたしは11歳です」
「19だ」
「はぁ!?」
と声をあげたのはアウロラだった。口に運ぼうとしていたタルトが手から落ちてテーブルを叩いた。
「なんだ、文句あるのか」
「あなた、わたしよりずっと歳下じゃない」
「あんた、いくつ?」
「……25」
「あ、そう。小せえから、もっと餓鬼かと思った」
とクマが悪びれずに言った。
「じゃあ、じゃあ——」
「ちょっと待て」
クマは親指と人差し指の股に匙を挟んだまま、隻腕を突き出してアグナルの疑問を制した。匙の端から黄色い南瓜のスープが垂れて、テーブルを汚した。
「あんたたちから答えて、おれも疑問に答える。それはいい、が、おまえらの名前だの年齢だのに、おれは興味はない」
「あんたが名前を聞くなら名乗れって言ったんじゃない」
というアウロラの言葉は意にも介さず、クマは続けた。「だから、今度はおれの訊きたいことを訊く。どうだ?」
その提案はもっともだ。お互いに情報交換するとはいっても、尋ねる題材がアグナルが最初に訊いたものであっては、対等とはいえない。頷いて返す。
「そうか」と満足そうにクマが微笑むと、唇の端から鋭い犬歯が覗いた。「じゃあ……あんたたちはなんだ?」
「なんだ、というのは……」
「ここは帝都だろう。だったらそこに住んでいるのは、鍛冶屋か、料理屋か、酒場か、兵士か、でなければ剣闘奴隷だ——そうだろう? そうじゃないか? だが、あんたは——あんたたちは、いずれにも見えない。なんなんだ?」
「わたしは——」
「アグナルは貴族の私生児です」
アグナルの言葉を遮るようにして、アウロラが言った。
「父親からは見放され、母親は亡くなっています」
「そうか」クマは瞼を閉じた。一瞬だけ、祈ったように見えた。開く。「あんたは?」
「わたしはアグナルの母親に世話になった者で……いまは彼の親代わりのようなもの。これ、お風呂で言わなかったっけ……? で、あなたは? なぜ帝都に?」
「おれは………」クマはしばらく考え込む間を置いてから、言った。「おれは、〈龍王〉の私生児を探しに来た」
クマの言葉に弾かれるように、一瞬だけ、アグナルとアウロラの視線が交錯した。一瞬だけ。
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