第1.3話 私生児の乳母アウロラ、隻腕の人狼の身体を洗うこと
乳がでかい。
ぐったりしていた女を苦労して風呂場に運び込み、人狼の女からほとんど身体を隠していなかった衣服を剥ぎ取る前からわかっていたことを、アウロラは改めて思った。
(人狼がみんなこう、というわけではないのだろうなぁ………)
同性ではあるが、その身体を見ると、思わず唾を飲み込んでしまう。胸が大きく、腰のあたりの肉付きは良いのに、腹の周りは引き締まっている。単に飢餓で痩せただけ、というようには見えない。鍛えられているのだろう。野生の獣を思わせる。
(さすが現役の剣闘士は違うなぁ………)
そんなことを考えながら、沸かしたお湯を足先からゆっくりとかけていく。
「う………」
人狼の女が小さく唸り、ゆっくりと瞼を開いた。黄金の目。狼というよりは、猫のようだ。黒猫だな、とアウロラは思った。
「ここは………」
女が呟いた。肉付きが良い肉体、引き締まった戦士の身体、人狼の野生。どのような声が飛び出すものかと思いきや、掠れているだけで、ただの女の声だった。
「風呂場です」
「風呂………?」
〈半島〉は極寒の大地である。いまは夏だから薄着でも外を出歩けるほどではあるが、冬ともなれば風呂場がなくては生きてはいけない。剣闘奴隷の部屋にだって、公衆の
この屋敷の風呂は立派だ。蒸風呂だけではなく、浴槽もあってお湯にゆったりと身体を横たえることができる。火を焚く炉は煉瓦造りだし、換気も良くて手入れをすれば長持ちする。屋敷を作るときに注文をつけたのが風呂と台所だったのだ、とこの屋敷の元の持ち主——つまりいまは亡きアグナルの母親は自慢気に言っていたものだ。いまは換気口開けて換気しつつ、お湯だけで人狼の女を洗うつもりだった。
「あなた……ええと、危害は加えないでね」
「危害? なんだ?」
「いや、ええと、まぁ、いいや。身体を洗い終わったらご飯を出してあげるから、ちょっと大人しくしてて」
「ご飯………」
感慨深げに女は呟く。鍛え上げられた身体ではあったが、身体には明らかな窶れが見えた。どれだけ疲弊しているのだろう、どれだけ腹が減っているのだろう。辛さがアウロラには理解できた。
「もうかけちゃったけど、お湯、かけて大丈夫だよね? 身体、痛いってことない?」
「全身痛いから、どうでもいい」
「あ、そう。右腕も、大丈夫?」
「ああ………」
人狼の女はゆっくりと右腕を持ち上げた。肘の先がない右腕を。焦げ付いた右腕を。
「ああ、大丈夫だ」
一度お湯をかけてやるが、全身が垢塗れなせいか、水を弾いてしまう。垢擦りで擦ると、ボロボロと垢が削り落ちる。酷い汚れ具合だ。
(泡立たない………!)
髪を洗い始めたとき、アウロラは絶句した。いくら石鹸を泡立てようとしても、泡ができないのだ。汚すぎる。なんだこの髪は。どれだけ放置していたら、こんな髪になるのだ。
何度も洗い、流して、ようやく泡立つようになったが、そうすると髪が長いだけに洗うのが大変だった。ほとんど大型犬の洗濯だ。
洗ってやっている間、人狼はされるがままだったので、たわわに実った胸や尻もアウロラが洗ってやらなければいけなかった。これはアグナルにさせるわけにはいかない。仕方がない。悪態を吐きながら、アウロラは一仕事を終えた。
(とりあえず、身体は大丈夫みたいだな………)
洗っている間、身動ぎしたり、唸ったり、くすぐったがったり、「まだか」と急かしたりしては来たが、痛みに堪える様子はなかった。隻腕以外にも、身体のさまざまな場所に傷があったが、酷いものはないようだ。隻腕の切断面は、焦げたようになっていた。止血のために火で焼いたのかもしれない。
苦労して身体を洗い終えると、風呂場に入れる前とは雲泥の差となった。艶やかな長い黒髪の美女が姿を表した。少し目つきは悪いが、あと、腹が減った、早くしろ、早くしろとのたまうのは、まぁ、問題があるが、それは、ま、いい。勘弁してやる。
「そんなもんでいいよ。あとは適当に乾く」
と不満げな女の髪を、アウロラは拭いてやる。
「駄目。こんな濡れた状態で、屋敷の中を歩きまわらないでくれる? 掃除をするのはこっちなの——」
「あんた」
とアウロラの声を遮るように、人狼の女がぐるりと首を曲げて視線を合わせてきた。
「あの子の母親か?」
「そんな年齢に見える? わたしはあの子の……後見人です」
ほら、急にうごかないで、とアウロラは女の首を前を向けた状態に戻させ、頭を拭く。立て耳が気になる。耳は触ってよいのだろうか。
「隻眼のメイドは珍しい」
という人狼の言葉に弾かれるように、アウロラは己の左目に手を当てた。傷痕を隠すようにつけた大きな黒い眼帯の上から。
「あのね、あなた、助けてもらっているんだから、人のことを詮索するのはやめてくれる?」
気を取り直して言い返すと、人狼の女はそれ以上追求しては来なかった。
風呂場から出したは良いが、脱衣場で考え込んでしまう。この、この身体は、どのように隠せばよいのだろう。彼女はアウロラより背が高いだけではなく、いろいろな部分のサイズが違いすぎる。たぶん、アウロラの服は着られまい。もちろん幼いアグナルの服も無理だ。となると……。
「アグナル、奥さまの服を持ってきてもらえる?」
と脱衣所の外でそわそわとしていたアグナルに声をかけると、彼はすぐさま、現在使われていない部屋へと駆け込んでいった。
「服なんて、なんだっていい。早く飯を食わせてくれ」
「なんだってよくない。あなたね、アグナルがいるんだから、扇情的な恰好で屋敷の中をうろつかれると困るの」
「はいはい……」
人狼の女は大袈裟な動作で肩を竦める。見ず知らずの場所で目覚めて、得体の知れない相手と会話しているはずなのに、やけに余裕を感じさせる所作である。あるいは、それだけ彼女のこれまで置いていた状況は過酷だったのかもしれない。それと比較すれば、幼い少年と隻眼のメイドしかいない屋敷など、緊張することなどないのだろう。
「アウロラ、持ってきたよ」
「はい、受け取ります」
とアウロラは脱衣場の扉をすべて開かず、手が出るだけ開けた隙間から服を受け取った。服を着ることにあまり積極的ではない女を立たせて、着付けしてやる。
「ここは、帝都か?」
と急に人狼の女が訊いてきた。
「そうだけど……」当たり前だろ、などとは言わなかったが、アウロラは疑問に思った。彼女は帝都の剣闘奴隷ではないのか。ここが帝都だと明らかに知っているはずだろうに、そうではないのか。
「そう、か……」人狼は一度金色の瞳を瞼で隠してから、再度尋ねた。「龍が現れたのは、何日前だ?」
「3日前だけど……どうして?」
「3日。まだ3日か……街はどうなっている?」
「どうって、べつに……何も。ドラゴンが攻めて来たり、ってことはなかったよ。どっかに行っちゃった」
「どこに?」
「知らない。東のほうだよ。山越えてったって話だったかな……はい、できた。立って」
アウロラは人狼の女を椅子から立たせる。立て耳と尾以外はどこに出しても恥ずかしくない、美しい貴族の令嬢の完成だった。
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