第1.2話 龍王の私生児アグナル、隻腕の人狼を拾った経緯を語ること

 人狼の女性を見つけたのは、龍が現れた日の3日後のことだった。


 3日前、まだ明け方に北方からものすごい速さで飛んできた龍は帝都の上空を通過したが、御伽噺のように火を吐き出したり、城の頂上に陣取ったりはしなかった。ただ何度か旋回して、また南へと去っていった。何かを咥えていたという話もあり、それが帰る頃にはなくなっていたことから「何かを帝都に運んできたのでは」という説もあった、らしい。

 龍は龍だ。何をしていたのかは知らない。そもそも、まだ——というか本当に現存していることさえ知らなかったのは吃驚だ。それは、だから、まぁ、いい。すごく気になるけれど、龍については、とりあえず、置いておく。置いておけるのは、見てはいないからだ。いや、去っていくその後ろ姿を辛うじて見た。小さくなっていく翼の生えた背中は確かに鳥とは違っていたけれど、具体的にどのような姿なのか認識できる距離ではなかった。


 とにかく、その3日後だ。人狼の女性を見つけたのは、早朝だった。

 昼間には帝都を守る第二隊の騎士団の人々が手が空いているとき、稽古をつけてもらっているアグナルだったが、それ以外にも自主的に稽古をすることはあった。走ったり、木を相手に木剣を振るったりとする行為が果たして実戦の役に立つのかはわからないが、アグナルには夢がある。そのためには、効果が定かではなくてもその道を進んでいきたいものだ。

 が、その朝、早朝から外に出ていたのは「もう一度龍が現れるのではないか」という期待があったからだ。一度早朝に出たのであれば、もう一度朝に来てもおかしくはない。もしかすると、龍というのは、猫だとかと同じく、薄明薄暮性の生き物なのかも。そう思いながら3日が経過してしまったのだが。


 ついでに走り込みをすることにして、家を出た。アグナルの家は帝都の市街地からは少し離れた湖畔の傍にある。繁華街ではないだけで、城へは近く、湖畔沿いに走っていると城門が見えてくる。早朝ではあったが、騎士団員がふたり、門前で眠そうに番をしていた。昨晩から見張り番を言い渡されている団員なのだろう。ほとんど綺麗な円形の帝都は全体が高い塀で囲まれているため、その中心にある城は二重に壁で囲まれていることになる。わざわざ歩哨が立つこともないのだろうが、威容の保持ということもあるのかもしれない。

「アグナル、もう訓練かい?」

 と顎髭の生えた門番のひとりが尋ねてきた。騎士団——特に帝都を守る第二隊とはほとんどが顔見知りだ。

 アグナルは首を振り、「龍の続報は、まだないですか?」と尋ねた。

「ないね」と首を振られる。「3日前に見たってやつはいるが……ほんとに見たのかね」

「酔っ払いと一緒に酒でも飲んでたんじゃねぇかな」ともうひとりの、のっぽの団員が言った。「おれは龍なんて生まれてこのかた、一度も見たことがないぜ」

「わたしは見ましたよ」

 とアグナルが言うと、「ほぉ?」と顎髭の門番が興味深そうに顔を近づけてきた。「龍王の私生児殿下も酒を飲むようになったか」

「そうじゃなくて……ちゃんと見ました。去っていく姿を見ただけだったけど」

「どっちに行った?」

「東のほうへ、山を越えて行って……ジリーには伝えましたよ」

 とアグナルは彼ら帝都騎士団の第二隊を束ねる男の名を出した。

「ふむん……アグナルも見たか」顎髭の団員は硬そうな髭を撫でる。「ふむん、じゃあほんとにいるのか……でかかったか?」

「たぶん」

「たぶん?」

「だって、遠くでどっかに行っちゃうところだったんだもん」

「なんか帝都に落としていった、なんていう話もあったが……見たか?」

 とのっぽの団員が訊いてきたが、アグナルは首を振った。あくまで見たのは、去り際の姿だけだ。

「ドラゴンが、何を落とすっていうんだよ」と顎髭がのっぽに言う。「普通、龍っていや、なんか奪っていくもんだろう。女だったり、黄金だったり」

「知らんよ、そういうやつなんだろ。他のドラゴンと違うことをするのが趣味なやつなんだ。女を置いていき、黄金を振る舞う」

「火を吸って人を吐き出すのか?」

「そういうことだ。羽ばたくと地面に沈んでいくんだろう」

 のっぽと顎髭のやりとりはキリがなさそうだったので、アグナルは適当なところで切り上げて門前から離れた。


 できるだけ見晴らしの良い場所を選んで走り回ってみたが、晴れ渡った空には雲と鳥以外の姿はなかった。諦めて、駆けていた足を緩める。汗をかいたことを自覚しつつ、ゆっくりと歩く。このまま湖畔の近くの針葉樹の森の中に作った訓練場で木を相手に剣術訓練にしようか、それとも走って家まで戻り、一度アウロラの作った朝食を摂ろうか。アウロラのご飯のことを考え始めたらお腹が減ってきた——そんなときだった。ふとアグナルは何か高い声を聞いた。

「みゃあ」

 と聞こえた。猫だ。猫。どこにいるのだろう。見たい、可能なら触りたい、あと顎の下を撫でたい。

 きょろきょろと周囲を探すと、背の高い草のそばに黒い猫の姿があった。森の中に住んでいるにしては、毛並みの良い猫だ。金色の目が光っていて、可愛い。

 アグナルが近づくと猫は森のほうへと逃げていってしまう。逃げられてから、これは駄目なやり方だった、と気付く。猫は興味を向けていると、逃げられてしまうのだ。もっと興味なさげに、口笛でも拭きながら接近するべきだった。


 猫が見えなくなった方向を見ながら、探してみようかと逡巡する。森はあまり入らないように言われている場所だ。どんな獣がいるのかわからず、帝都の騎士団は守ってくれない。乳母のアウロラにはきつく言い咎められている。

 だが一歩、一歩だけ森の中に足を踏み入れたとき、黒猫が消えていった方向に黒い毛並みが見えた。猫よりは大きい、大人の人間の大きさの——人狼の女性が。

 はじめ、アグナルはうつ伏せに倒れている彼女が本当に獣なのかと思った。黒い髪は長く、ほとんど身体を隠していたし、肌は薄汚れていたからだ。アグナルが近づいてもほとんど身動ぎしなかったが、声をかけるとぴくりと動いた。

「大丈夫ですか?」

 という問いかけに対し、女性の唸るような声は「城はどっちだ」だった。

「あっちですけど………」

 とアグナルは正直に元来た方角を指差す。うつ伏せに倒れ伏したまま、顔だけ傾けて睨む人狼の女性の金色の瞳が、じっとアグナルのことを見つめていた。

「王はいるか」

「いえ、ラーセン王はいまは遠征に出ていて………」

「何も、報は聞いていないか」

「何も………」

 そこまで受け答えて、始めてアグナルは気付いた。人狼の女性の右腕は、肘から先がなかった。しかも切断面が炭のような黒焦げだ。出血を止めるために焼くという方法があるそうだが、そんな行為を臭わせる悍ましい状態だった。

 そもそも右腕に限らず、全身が酷い状態だった。長い髪はほつれ、痛んでいて、元は艶やかだったであろうにボロ雑巾も同然だった。ボロ雑巾といえば着ている服もそうで、元の状態がどうだったのかも判然とせず、いちおう局部だけは髪も併せて隠しているという状態だ。残っている腕の爪はひび割れているだけではなく、剥がれているものさえあった。肌は汚れていて、元がどういう色だったのかさえわからない。ただ黄金の瞳だけは美しかった。


(この人………)

 怪我をした人狼。王を、城を探している。

 そのふたつの情報から、アグナルは彼女の出自がなんとなく推測できた。

「あの、お腹減っていませんか?」

 と問いかけると、女性はきょとんとした表情をしたが、ゆっくりと頷いた。そうだろう。腹が減っているのは、なんとなくわかる。衰弱している。もはや腹が鳴るなどという段階をとうにすぎている。飢餓状態だ。

「わたしの家がこのすぐ近くなんですが、そこでご馳走します」

「そう、か……」

 女性は呟いたが、首を縦にも横にも振らなかった。目を瞑っていた。息はしている、が、意識が途切れたのかもしれない。

 同意を得ずには失礼かもしれないが、アグナルは背中を人狼の女性の下に入れ、担いだ。アグナルよりずっと大きい女性の身体だったが、なんとか上半身は地面から浮かせることができた。

(鍛えておいて、しておいて良かった)

 痩せこけていた女性の身体だったが、見た目よりずっと重かった。そして柔らかかった。おまけに体格が違うため、運びにくい。家に戻るまでの間、アグナルは力尽きそうになった。

 女性は家に運び込んでも意識がないままだったので、ひとまず自分のベッドに寝かせたのだ——と、人狼の女性がアウロラに見つかるまでの話を説明し終えた。


「アグナル、あのね」

 と大きく首を振ってから、アウロラは腰を曲げ、アグナルの両肩の上に掌を乗せる。

「今回のアレ、前のおっさんより問題あります」

「おじさんより……」

「やばい女でしょ。だって、だって、見ればわかるでしょ? 人狼で、ズタボロで、片腕がなくて、しかも城がどこにあるのか知らないと来ている。じゃあ、どういう立場なのか明白でしょ? わかりますか?」

「たぶん、剣闘士のひと………」

「そのとおりです」

 わかってるじゃないですか、とアウロラは大きく溜め息を吐いた。


 剣闘士が全員人狼というわけではない。帝都の剣闘場にはさまざまな生き物がいる。もちろん人間の剣闘士も。だが、人狼といえば兵士か剣闘士と相場が決まっている。自分から〈半島〉を訪れたわけではなく、東から連れてこられた人狼には、ほかに行くべき場所がないのだ。

 鍛治と料理と酒と軍事力、そして剣闘士。〈帝都〉が他の国より特に優れている点を挙げるとすれば、その五つとなるだろう。剣闘は〈帝都〉最大の娯楽である。各地から連れてこられた剣闘奴隷は剣闘士同士、あるいは獣などと闘い、観客たちはその闘いに一喜一憂する。銛使い、投げ網闘士、大剣使い。人間のみならず、巨人や小人、角付きに人狼。さまざまな種族を集めた剣闘は娯楽になり、鍛治の実践となり、戦闘訓練になり、そして最後には料理と酒になる。貴族の中には、剣闘士を雇ったり、賭け事をしたりするだけではなく、己を一時的に剣闘士の身に置き、剣闘を行う者もいる。

 あの人狼は、城の場所を知らなかった。兵士であれば、そんなことはないだろう。兵士ではない人狼なら、高い確率で剣闘奴隷だ。遥か遠く、東国から連れてこられて飼われていたのだろう。隻腕なのは、剣闘で失って捨てられたかか、でなければ、考えたくもない話だが、手錠か何かの拘束から逃れるために自分で断ったのかもしれない。


 どのような理由で腕を失ったにせよ、無理矢理連れてこられた剣闘奴隷であれば、帝都の王を恨んでいてもおかしくはない。なぜなら、〈龍王〉が玉座に着いてからというもの、先に挙げた五つの要素はより強く奨励され始めたからだ。

 つまり、より優れた武器を作り、より美味いものを食い、より美味い酒を飲み、より強大な軍隊を有し、より苛烈に戦う、だ。

 多くの剣闘奴隷がさまざまな場所から連れてこられたことは知っている。剣闘は遊戯であり、娯楽であり、集会であり、歓談の場であり、兵の訓練場であり、新兵器の実践場でもあった。その結果として、帝都は豊かになった。アグナルはその政策を批判することも、擁護することもできないでいる。

 とにかく、そういった状況だから、怪我をした人狼が城や王について探っている、となれば、王に恨みを抱いている元剣闘奴隷という可能性は非常に高い。

「アグナル、自分がどういう立場の人間なのかは説明してないよね?」

 と眉間に皺を寄せてアウロラが尋ねてくる。

「それは、してない」

「じゃあ、そのままでいておいて。ええと、貴族の子女だとだけ言っておけば……いえ、貧乏貴族ですね、まぁ、家を見てもらえばわかってもらえると思いますけど。あんまり金持ちだと思われても恨まれるだろうし、ええ、そうしましょう。わたしも……わたしも貴族っていうのはどうかな。アグナルのおねえちゃん」

「それは……おねえちゃんは、ひとりだけなので」

「そうだね……はい、そうだね」それは、わかってるけど、と呟いてアウロラは唇を尖らせた。

「でも、アウロラのことが嫌いというわけでは、ないです」

「それは……それも、ええ、わかってるよ」

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