第一章 アウロラ

第1.1話 私生児の乳母アウロラ、嵐の到来を感じ取ること

 はじめ、可愛い可愛い可愛い弟のように感じている少年が挙動不審だったとき、きっとまた巣から落ちて親鳥に見放された小鳥でも拾ってきたのだろうと思った。


「アグナル、何か探し物?」

 栗色の髪を後ろで纏めて、中身のない左目を隠す眼帯の肌触りもいつもどおり、家事をしやすいエプロンドレスを身につけて一日の始まりを準備する、そんな朝。屋敷の規模からすれば立派過ぎるほどの台所で朝食の支度をしていたアウロラは、居間でうろうろしている幼い少年に問いかけた。少年がびくりと震えると、父親と唯一の共通点であるふわりと柔らかそうな金髪が揺れた。

「アウロラ……起きてたの?」

「うん、そりゃあ、朝だから……何かあった?」

「な、なんでもない」

 と言うなり、少年は逃げるように立ち去ってしまった。


 起きてたの、はないだろう。アウロラは溜め息を吐いた。

(これは、間違いないな)

 あの挙動不審っぷりだ。単に朝ご飯を催促しにきた、というふうではない。やはり早朝に外に出ていったときになにかを拾ってきたのだ。餌を探しに来たのだろう。拾ったのは小鳥ではなく、猫かもしれない。

(あとでちゃんと言い聞かせないとなぁ………)

 猫一匹拾ったくらいなら許容できないでもないが、育てるとなると話が別だ。せめて事前に相談してほしい。

 そう思いながら、エプロンを翻して居間に向かう。

「な、なんだこれ………」

 と思わず呟いてしまった。

 玄関から居間を横断するように、黒い汚れが走っていた。掃除したばかりの床が、洗濯したばかりの絨毯が、泥だらけだ。くそう、せっかく洗ったのに。


 誰がやらかしたのかは明白だ。この家には、アウロラとアグナルしか住んでいない。であれば、アグナルが——正確には彼の拾ってきた生き物が汚したに違いないのだ。引きずってきたのだろう。幼いアグナルでも、猫なら持ち上げて運ぶだろう。こんなふうに跡が残るということは、大きい犬かもしれない。引きずっていかなければならないほどの。

「あ、ああ………」と少年がやってきて、悲壮な声をあげた。「ごめん……汚したのはわたしで……ちゃんと拭くから」

 この汚れは拭いたくらいでは落ちない、と言いたくなるのを堪える。なんだこの汚れは。まるで灰か煤のようだ。暖炉の中に突っ込んだ馬鹿犬でも連れてきたのか。


 アウロラは無言で汚れを辿る。汚れは居間を横断し、屋敷の部屋のひとつに入っていく。アグナルの私室だ。汚れは彼の簡素なベッドに一直線に向かっていた。

 ベッドを見たアウロラは絶句した。

 なんだこれは、でかいぞ、よほど、大きい犬だ。黒犬だ。くそ。布団の端から、黒い毛とぴんと立った立て耳がはみ出していた。

 大きく溜め息を吐いてから、アウロラはおどおどとしてついてきたアグナルを振り返って一瞥した。

「アグナル、落ちてたから可愛そうに思うのは思うのはわかるけど、勝手に生き物を拾ってこないで」

 そう言ってやると、アグナルは泣きそうな顔になった。ふわふわとした薄い色の金髪に碧色の大きな瞳。幼さに整った容姿も相まって、服装を変えれば少女といって十分に通じる見た目だ。とてもかわいい。あまり強く怒れない。くそ、かわいい。


「せめてわたしに相談してくれる?」

「ご、ごめんなさい……。でも、前に相談したら、駄目って言われたから………」

「そうだっけ」

「うん、前におじさんを拾ったときは――」

「訊かなくてもおっさんは拾ったら駄目ってわかるでしょ?」

 つい語気が荒くなってしまう。犬猫ならまだしも、おっさんを拾ってくるのだけは勘弁してほしい。

 当時のことを思い出し、また溜め息が出てしまいつつも、勇気づけられる。今回は、あのときよりは何倍もましだ。


「とりあえず、ベッドに寝かせるのもやめてください……これはだいぶ汚れたな。でかい犬だね。しかも、めちゃくちゃ臭い。くせぇ。くそ、これは風呂に入れなきゃ駄目だな——いや、失礼、いまの言い方はなしで。これは風呂に入れなくては………」

「お願いできる?」

 と当たり前のように問いかけられて、アウロラは三度目の溜め息を吐くことになった。

「アグナル、前に言ったよね? 生き物を飼うなら、せめて世話をするのが最低限の条件だって。犬猫の身体を洗うくらいのことは、やるのが、当然、で………」

 言葉が途中で途切れてしまったのは、アグナルがいかにもバツの悪そうな表情になったからだ。しまった、というような表情ではなく、そうか、気づいていなかったのか、もうちょっと段階を踏むべきだったかも、などと言いたげで、つまり、なんだ、アウロラは何か勘違いをしているのか。


 そもそもアグナルは生き物との触れ合いが好きで、だから積極的な触れ合いを厭う猫などには嫌われるタイプなのだが、風呂に入れたりすることを厭がるわけではない。では、なぜアウロラに風呂に入れてくれるように頼んでいるのか。

「犬……ではないんだね?」

 アウロラは己の顔が引き攣るのを抑えきれなかった。黒毛に立て耳、そして布団を盛り上げる大きさからでかい犬だと判断したのだが、言われてみれば大きい犬にしても大きすぎる気がする。

「まさか、狼?」

「狼……それは、近いかも」

「また、おっさん?」

「おじさんじゃないよ」

 アグナルがそっと布団を退ける。

 ベッドに上に寝っ転がっていたのは、ボロ切れのような布を纏った、長い黒髪に立て耳の、人狼の女だった。

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