龍に至る道

山田恭

龍王と暗殺者

 かつてこの〈半島〉は龍が治めていたのだという。


 目の前の筋骨隆々、上の毛も下の毛も金髪毛むくじゃらの大男が〈龍王〉と呼ばれていることは知っていた。だが、それはあくまで渾名だった。通称だ。龍王ラーセン。〈半島〉の統一に最も近いとされている男。三都市が一角、帝都の王。進軍途中の、野営地の王のための天幕の中。ほかに誰もいない静かな空間。

 彼の、暗殺者の女の脚より太い腕は、女の服を簡単に引き裂いた。

「おいおい、このおっぱいで暗殺者というのは無理だろう」

 舐るような口調でラーセンは言った。腹の上に乗られ、両の手を毛だらけの腕一本で掴まれていては動くことは叶わない。が、このような体勢ではなかったとしても、反撃は叶わないだろう。この体勢に移行するまでの間に、暗殺者の女は何度も攻撃をしかけ、にもかかわらず〈龍王〉は武器一つ持たずに股間の蛇のようなものがぶらぶらと揺れている状態のまま受け切ったのだから。


「しかも人狼か」

 と言いながら、ラーセンは暗殺者の女の耳の付け根を撫でた。人間とは明らかに違う、黒い髪の間から縦に突き出る立て耳。獣の耳。そしてふさふさとした尾。〈半島〉ではそのような特徴を持つ存在は、人狼と呼ばれる。

「人狼で、乳と尻のでかい、うむ、黒髪の——とびきりの美女の、暗殺者か。ふむん、悪くない。悪くないな」

 にやにやとしながらラーセンの毛の生えた指が身体中を這い回るのを感じながら、しかし暗殺者の女は動けなかった。身体が拘束されているというだけではなく、口には人狼特有の鋭い牙でも噛み砕けないように布が突っ込まれていたため、仕込んでいた自害用の毒を飲むことさえ叶わなかった。


「人狼の暗殺者よ、おまえ、皇都の者だろう? おれを暗殺しにきたのだろう? 命令されたのだろう? 支配されているのだろう? では、どうだ。提案がある。取引だ。ふむ、人狼も案外毛が薄いのだな……ああ、いや、それはいい。とにかく、取引だ。悪い話じゃない。話を聞け」

(取引………?)

 起死回生の策を練っていた人狼の女は、その言葉を反芻する。

「承諾するなら口を利けるようにする。だが自害しようとするなら、おまえ、ぶん殴るぞ。おれを殺そうとするのは構わんがな——どうせ無理だろうし。おまえはおれより弱いからな。いや、ま、腕は立つというのは先の攻撃でわかったが、おれは誰よりも強い。おまえが弱すぎるというわけではない。いや、それはいい。とにかく、取引だ。死のうとするなよ。死ぬならおれの提案を聞いてから死ね」


 取るぞ、という言葉とともに、太い指が人狼の暗殺者の口から布を丸めたものを取り除いた——女自身が着ていた服の残骸だった。

「よしよし、おとなしくしているな」と龍王ラーセンはにやりと笑った。「で、おまえ、名前は? おれはラーセンだ」

「……クマだ」

「クマダ?」

「クマ、が名前だ」

「ふむ、そうか。変わった名だな。どこの出身だ? 東方か? 皇都ではないだろう? あそこでは半人狼はいても、人狼として産まれるものはそうはおるまい」

「乳を揉んでいる手を退けろ」

 と暗殺者の女——クマは、口から布を取り除いたあとでしぜんな動きで胸に辿り着いた毛むくじゃらの腕を睨み、質問を無視して言った。

 ラーセンはまったく悪びれる様子は見せなかったが、とりあえず手は退けた。


「さて、取引だ。おまえが聖都の命令に従っているのは、何かそれだけの理由があるのだろう? おれがその理由を解消してやろう。どうせこれから進軍し、皇都は帝都の支配下に置くのだ。そこで多少の手間ができるだけだ」

 彼の言葉は真実を射抜いていた。クマが聖都の暗殺者として働くのは、それだけの理由があるからだ。

「代わりに、おれの頼みも聞いてくれ。おれの息子がいる。私生児なんだが、その子を守ってほしい」

「息子?」

「こっちのことではないぞ」

 とラーセンは蛇のように太い下半身のものを揺すった。蛇が何度もクマの頬を叩いたが、無視する。

「なぜだ?」

「ま、それは追い追い話す……乗ってくれるか? おれからすれば、真っ向からの戦いは得意だが、暗殺となるとよくわからんでな、おまえのような暗殺者が守ってくれるならば、助かるのだがな」


 クマはしばしの間、ラーセンの顔を見つめた。

 歳は四十過ぎだったか。年齢にしては、いや、若者と比べても筋骨隆々とした見事な肉体の男だった。彫刻像のような身体は天幕の中の灯りに照らされて、これから彼を殺そうとしているクマでさえ見惚れてしまうほどだった。頭髪と同様に、胸から股間まで繋がった毛は金色の毛で、もじゃもじゃと繁ってはいたが、その中のものを隠すには不十分だった。これまで何度も肌にぶつかってきた、金色の毛を押しのけて生える男のものは、彼女がこれまで見たいかなるものより巨大に見えた。

 この状況下で、クマが逆転できる可能性は皆無に等しい。野営地に侵入し、死角を突いたはずの一撃ですら、容易に避けられたのだ。暗殺者として相応の腕を自負していたはずのクマですら、これだ。正直なところ、人という枠組みの中で彼に勝てる者がいるとは思えない。

 だから、クマは頷いた。いまは、頷くしか選択肢がない。だから、選んだ道というよりは選ばされた道だ。

 だがもしかすると、という期待もあった。

 これまで、皇都の聖職者たちにいいように扱われてきた人生。それが少しだけ変わるかもと感じた。もしかすると、悪くなったかもしれない。が、良くなるかもしれない。どうせ、使われるだけの人生だ。それなら、多少でもマシなほうに賭けたい。


「そうか、よろしく頼む……さて、詳しい話はあとにして、今日はひとまず酒でも飲むか。いやぁ、久しぶりに女を侍らせて酒が飲める。ありがたい。行軍というのは、いかんな、女がいない。つまらない」

 ラーセンはクマの身体を引き上げ、白い歯を見せて笑ったが、クマは笑えなかった。これからどうなるのかが、まったくわからなかったから。とにかく、彼の言う「ラーセンの私生児を守る」ということについて追い追いでも話を聞いてみなければ。

 だが、その「追い追い」は永遠に訪れなかった。彼が翌日、その話をしている最中で死んだからだ。


 ラーセンが伝説の存在でしかなかったはずの龍に喰われたとき、クマは彼の名の意味を知った。〈覇王〉、〈緋色の剣先〉、〈槍の支配者〉、〈斧を投げるもの〉——そして〈龍王〉。龍王ラーセン。〈半島〉を統べる、古代の龍。三都市が進行する龍の魔法の力。龍の力。火龍ファヴニル。

 その巨大な咢が、クマの右腕に喰らいついた。

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