第42話
苦しいほどに、心臓がバクバクと強く鼓動していた。
ケリーは、おもむろに銛を取り出すと、布を解いて刃先を見つめた。
少し考えてみれば分かることだった。
自分が大佐に頼んだことが、どういうことなのか。
ケリーは、殺したいほど憎んでいたお父さんの仇に、こう言っていたのだ。
「仲間を殺した人を許せ」と。
そうでなくても、敵だったこの町の人々の中には、戦争に参加した人は何人もいる。
大佐は、この町に来たときから、その人たちを許していたのだ。
でも、とりわけ多くの命を奪った裏通りの人だけは、割り切ることができなかった。だから、今までろくに支援をしてこなかった。
でも、ケリーの行動によって、今まで抱えてきた気持ちとは逆のことをしたのだ。
ケリーは、そんな大佐の気持ちや立場を、まったく考えてはいなかった。
それだけではない、隊長やトニーたち、たくさんの兵士たちにも、同じことを強要した。
きっと、反対したり納得してない人もいただろう。
もしかしたら、ケリーのように憎んでいる人もいたかもしれない。トニーがあの朝言っていた話し合いとは、このことなのだろう。
ケリーは、自分と似た境遇の人たちに、とても残酷で無責任なことを言ってしまっていたのだ。
急に吐き気がして、ケリーは急いで流しに向かった。
すっぱくて苦いものが、お腹と胸を苦しめながら出ていった。
なんともいえない不快感が、体に充満していた。水で口をすすぐと、ケリーはまたベッドに倒れ込んだ。
大佐を許すことができない自分と、許そうとする自分が心の中にいた。
ケリーは必死で、許そうとする自分を追い出そうとした。
今までの自分が消えてしまうような気がして、怖かった。でも、考えれば考えるほど、大佐を許してもいいんじゃないかと思えてしまう。
「おとうさん。僕、どうしたらいいの?」
消えそうな声で呟くと、仰向けに寝返りをうった。
チリン
首飾りが、優しい音を立てて揺れた。
澄んだ音が耳を通ったとき、ケリーはゆるやかに波立つ海に浮かんでいるような、安らかな心地がした。
悲しいわけじゃないのに、勝手に涙が溢れてきて、温かい粒がゆっくりと流れた。
許してもいい。
まだケリーには実感が湧かない雲みたいなふわふわした感情が、全身を包んで、満たしていった。
涙は相変わらず溢れてくるけど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
傾いてきた太陽の光が、ケリーの顔を優しく照らした。
やっと涙を拭くと、ケリーは日の光に透かして、銛を見つめた。黒く光る銛は、きれいなのに、今までみたいに心が躍ることはなかった。
それ以降、何度大佐を前にしても、あの真っ黒な殺意は顔を出さなくなった。
大佐を憎む気持ちも、まったく湧いてこなかった。
だからなのか、今では大佐とすっかり仲良くなっていた。
新聞の朗読も、見違えるようにスラスラと読めるようになったし、本も何冊も読んで、物語の面白さに夢中になっていた。
大佐は厳しいけれど、ケリーの成長をとても喜んでいた。
新聞を読むときは、先生みたいに教えてくれるし、本を読むときは友達みたいに盛り上がる。ケリーは、風邪をひいても行くくらい、朗読員の仕事が楽しみになっていた。
「おはよう、ケリーくん」
玄関の前で、フリッツさんが眼鏡を上げながら微笑んだ。
フリッツさんとも、だいぶ打ち解けたと、ケリーは思っていた。
なんとなく表情が柔らかくなった気がするし、あの分厚い難しい本も、なんとか読んでみせた。そのときは仏頂面だったけど、それ以来、フリッツさんの笑顔を見る機会が増えたように思えた。
「おはようございます!」
「うむ、今日も早めの到着はさすがだな。だが、大佐はその前からお待ちだ」
「わかってますよ。いってきます」
笑いながら、ケリーは扉を開けた。
「おや、おはよう。今日もご苦労だねぇ」
野菜が入った籠を下げたローラさんが、食堂の前で振り返って言った。
「おはよう、ローラさん。腰は大丈夫?」
先日腰を痛めたローラさんは、少し小さく見えた。
「なに、心配ないよ。まだまだ、現役さ。ありがとうね」
「あんまり無理はしないでね? 今日もお昼ごはん、楽しみにしてるから」
「そうかい、嬉しいねぇ。今日も、美味しいお土産を持たせてあげるからね」
ローラさんの顔がほころんで、歯の抜けた口で嬉しそうに笑った。
「うん! ありがとう。じゃあ、いってきます」
階段を駆け上がると、廊下は走らず、でも速足で進んだ。
大佐の部屋に着くと、軽快にノックをして元気よく扉を開けた。
「おはようございます!」
部屋には、見慣れた光景が広がっていた。
机の上に積まれた新聞の束、となりには今日読む予定の本。
椅子に座って、朝日を浴びながら微笑む大佐の姿。
「おはよう、ケリーくん。さぁ、今日の新聞だ。はやく読んでしまって、本の朗読をしようじゃないか。今日は、今流行りだという小説を用意したんだ」
大佐は、本の朗読が待ち遠しくてたまらないというように、声を弾ませていた。
「はい! じゃあ、さっそく読んじゃいますね」
新聞を広げると、部屋にはケリーの声が流れた。
どことなく、以前よりも低くなった声の朗読を、大佐は微笑みながら聞いていた。
「『……森には静けさが戻り、鳥たちが嬉しそうに鳴いていた』」
本当にはやく新聞を読み終えたケリーは、昼食まで本の朗読をしていた。
ちょうど、物語の序章が終わったところで、メイドのお姉さんが部屋に呼びに来た。ローラさんは、腰を痛めてから、階段がつらくて呼びに来られなくなっていた。
「大佐、ケリーくん。お食事の準備ができました」
「うむ、ちょうど区切りもいいな。さぁ、行こうか」
「はい」
ケリーは、素早く机の反対へ回ると、杖を大佐に渡した。
「うむ、ありがとう」
杖を受け取った大佐が立ち上がり、歩き出すと、メイドのお姉さんが扉を抑えケリーが大佐が転んでも支えられるように傍についた。
扉を通るとき、お姉さんがウインクをしてきた。
ケリーはもう慣れっこで、笑ってウインクを返すようになっていた。
今では、大佐に触れられるくらい近くにいても、殺そうという気はしなかった。
それにいつからか、あの銛も持ち歩かなくなっていた。
三ヶ月前からは想像もできなかった日々を、ケリーはとても幸せに感じていたし、心から楽しんでいた。
お昼を食べ終わると、ケリーは本の続きを読みたくてしかたがなかった。
でも、急に大佐に仕事が入ってしまって、この日の仕事は終わってしまった。
大佐も残念そうにしながら、フリッツさんに付き添われて部屋へと戻った。
ケリーも不機嫌になったけど、ローラさんが約束通り美味しいお土産を持たせてくれたので、機嫌はいくらか良くなった。
旬の野菜をたっぷりと使い、分厚いハムが挟まれたサンドウィッチは、見ているだけでわくわくした。お土産が入った籠を、なるべく振らないように気をつけながら、ケリーは丘を下った。
「あら、ケリー。おかえりなさい。今日は早かったのね」
家に帰ると、お母さんがお茶を入れている最中だった。
ケリーが働き始めて、二人の生活は少しづつ豊かになっていた。
お母さんは、少なすぎた休みを増やすことができたし、こうしてお茶を楽しむ余裕もできていた。
「ただいま。大佐に急に仕事が入っちゃって。でも、お土産はあるよ! サンドウィッチ、もらってきたんだ!」
ケリーが籠を開くと、お母さんの顔も自然とほころんだ。
「まぁ、いつもありがたいわね。ちゃんと、お礼を言ってね? お茶が入ったら、一緒に食べましょうか」
「うん!」
お茶の甘い香りが、家中に広がると、ほっと落ち着いた気持ちになった。
お母さんとの食事は、どれだけ町が変わっても、ケリーにとってかけがえのないものだった。
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