第40話

 おじいさんは、広場に広がっている状況がまだ受け入れられないようで、何も言えなかった。

 

 血走った眼でケリーを睨みながら、わなわなと震えていた。


 ケリーがその様子に気づいた瞬間、おじいさんが固く握った拳を振り上げて、ケリーに襲いかかった。


 でも、ケリーが悲鳴を上げる前に、トニーが風のような速さで、おじいさんを取り押さえた。


「ぬぐう!」


 腕を捻り上げられたおじいさんは、勢いよく地面に倒れこんだ。

 上にはトニーが乗り、身動きが取れなかった。


「ケリー! 大丈夫?」


 とっさに動いたのは、トニーだけではなかった。

 ケリーはお母さんに抱きしめられ、エミリーとジャックはハルさんが覆うように守っていた。


 周りの人たちは、急な出来事にどよめいていた。


「困りますな。そんなことをされては」


 隊長はおじいさんを見下ろすと、冷たい声で言った。


「うるさい! こいつらが悪いんだ! 常識で考えろ! いまどきの若いもんは、なにも分かってない! はなせぇ!」


 おじいさんは必死で体を揺らしたが、トニーはまったく動かなかった。


「そうですか? 先ほど拍手で賛同していた方の中には、あなたと同じかそれ以上のお歳の方もいるようですが」

「だまれ! わしは間違ってない! みんなおかしいんだ! わしは」

「もうよろしいでしょう」


 ケリーはハッとして、声のした方を向いた。


 きれいに整列した兵隊の中から、その声はした。


 やがて、一人の兵士が歩み出た。

 軍帽を深く被った兵士は、素早く近づいた隊長の手を取って、おじいさんの傍へ進んだ。

 低く、重厚感のあるその声を、ケリーはよく知っていた。

 兵士が帽子を脱ぐと、隊長以外の人が、全員驚きの声を上げた。


 屋敷にいるはずの大佐が、布の巻かれた目でおじいさんを見下ろしていた。


「た、たいさ?」


 おじいさんの、裏返った声が妙に際立って聞こえた。


「広場でなにやら、騒動が起きていると聞きましてね。早朝に掲示を命令していたことですし、視察を兼ねて兵たちに紛れていたのですよ。いや、久々に銃を撃ったが、腕は鈍っていないようだ。まったくブレることはなかったよ」


 大佐は笑いながら言った。


 なので、あまり怒っていないのかと安心していると、すぐに空気が変わった。

 改めておじいさんに顔を向けると、大佐から、あの恐ろしい迫力が放たれていた。

 

「さて、あなたとは一度ゆっくり話し合う必要があるみたいですね。どうぞ、これから私の屋敷に来てください」

「え、いや、わしは」

「お茶くらい出しますよ」

「だ、だから」

「なら言い方を変えましょうか。今回の掲示と話し合いに対する意見交換をしたい。よろしかったら、いらしてくれませんか?」

「わ、わしなんかが」

「では、こう言いましょうか。この町を統治する者として命令する。来い」


 おじいさんは小さく「ひっ」と息を呑むと、そのまま全身の力が抜けてしまったように「……はい」と消えそうな声で返事をした。


 真っ赤に熟したトマトみたいだった顔は、急に腐ってしまったかのように、うっすらと青紫色を浮かべていた。


 トニーがどいてもおじいさんは自分では立てず、今まで押さえつけていたトニーに支えられながら、歩き出した。


「みなさん! 今日、この場で起こったことは、私にも責任があります。掲示の内容については近日中に、必ず詳しい説明を行います。しかしながら、私は、こうして表町と裏通りの方々が話し合いをしてくれたことを嬉しく思います。きっと、この出来事は町の歴史上、最も素晴らしい出来事でしょう。みなさん、どうか今日起きたことを忘れないでください。そして、この町の未来を一緒によりよいものにしていきましょう!」


 大佐は堂々と叫んだ。


 次の瞬間、爆発したような拍手と歓声が、広場どころか町中を包む勢いで起こった。


「ケリーくん」


 大佐が、振り返って言った。

 こんな大歓声の中では、さすがにケリーのいる場所は分からないらしく、神父さまと喜び合うゲルたちに顔を向けていた。


「三日ほど、仕事はお休みにしよう。私も説明の準備がある。きみは、その間友達とめいっぱい遊びなさい」


 どこにいるか分からないケリーに聞こえるように、大佐は声を張った。


「はい!」


 ケリーは、周りに負けないくらい元気よく返事をした。

 すると、ようやくケリーの場所が分かったらしく、大佐はにっこりと笑顔を向けた。


 隊長は、残った兵隊に号令を取ると、大佐を支えながら人々が喜び舞う広場をなんとか抜けて行った。


 ケリーは遠ざかる大佐の背中を、ずっと見つめていた。


 まさか、本当に町を動かすことができるなんて、思いもしなかった。

 せいぜい、ケリーのお母さんとか、ジャックやエミリーの両親とか、身近な人が裏通りのことを考え直すきっかけになればいいくらいに思っていた。

 でも、大佐がすぐに行動してくれたから、こんなに早くこんなにたくさんの人が、ひとつになることができた。


 ケリーは、もう見えなくなった大佐に向かって、きれいなお辞儀をした。


「ケリー、なにしてんだよ? ほら、バルドの肩に乗ろうぜ!」

「うん!」 


 ジャックに引っ張られて、ケリーはすぐに満面の笑みで応えた。

 

 チリンッ チリリンッ チリンッ チリンッ


 バルドの肩で跳ねるケリーの耳に、首飾りの楽しい音が響いた。


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