第37話
「冗談じゃねぇ! なに言い負けてんだよ、じいさん! このまま負けてたまるかってんだ!」
声の主は、カシラだった。
お父さんが生きていたときはもちろん、お母さんが市場で働いているから、ケリーも昔からよく知っている豪快で頼れる人だった。
でも、今ほど怒っている姿は、初めて見た。日に焼けた肌に血管が浮き出て、ぶるぶると震えていた。
「おう! なら、おれと勝負しようぜ! おれはよ、難しいことはわかんねぇけどよ、腕っ節には自信があるんだ」
振り向いたバルドが、いち早くハルさんを守るように進み出た。
バルドが言っていたのは、このことだった。
「おい! 暴力を見過ごすわけにはいかんぞ」
横から、隊長の鋭い声が二人を止めようとした。
でも、カシラは気が治まらないようで、隊長まで睨みつけた。
「ならよ! あれしようぜ、あれ! それで、おれとあんたの決着つけようぜ!」
なんだか、バルドは楽しんでいるみたいだった。
周りは緊張してピリピリしているのに、相変わらず笑顔を浮かべていた。
「あれってなんだよ!」
カシラは、自分より大きなバルドを見上げながら言った。
「あぁ、すまん。えっとな、腕相撲だ」
カシラはもちろん、ケリーやハルさんがきょとんとしていると、バルドは気にすることなく、胸を張って続けた。
「おれの親父とよ、小せぇころに死んだんだけどな、よくやってたんだよ。んでな『お前はバカだから、話し合いとか無理だ。だから、白黒つけたかったら、腕相撲しろ』って言われてよ。殴り合ったら、ケガとか、下手したら死んじまったりするだろ? 腕相撲ならそんな心配ねぇし、どうだ?」
バルドは、変わらず楽しそうだった。
それに、あまりにも自然にお父さんが亡くなっていることを言った。
ケリーは、じっとバルドを見た。
自分も、大人になったらお父さんの死を、あんな風に言えるのだろうかと思った。心の中で、バルドのことをちょっとだけ尊敬した。
「いいだろう。おい、隊長さん。腕相撲なら文句ないだろ?」
カシラに言われて、隊長はうなずいた。
そして、いつの間にかショウの仲間が人気のレストランからテーブルを借りてきて、二人の前に置いた。
「やってやれー、カシラ!」
「裏通りの奴なんかに負けるなー!」
なんだか、周りの人たちのほうが盛り上がってきていた。
表町の人から声援を受けたカシラは、着ていたシャツ脱ぎ捨てた。日ごろの漁で鍛えられた肉体が、日の光に照らされて、筋肉を美しく際立たせていた。
ケリーは、内心バルドのことが心配だった。
カシラは、ケリーのお父さんには勝てなかったけど、お父さんが死んでからは表町では一番の力持ちと言われていた。バルドの体がいくら大きくても、純粋な力勝負では、負けるかもしれないと思ったのだ。
カシラがやる気になったのを見て、バルドも服を脱いだ。
服と言っても、バルドが着ていたものはケリー・ジャック・エミリーの三人を包めるほど大きく、ボロ布をそのまま被っているのと変わらなかった。
現れたバルドの体は、一か所づつ見ても明らかに大きくて、ひげと同じく、もじゃもじゃした胸毛を掻きながら笑うバルドは、秘密兵器と呼ぶにふさわしい迫力があった。
カシラは、ちょっとだけ気圧されたけど、すぐに胸を張ってバルドを睨んだ。
「さぁさぁ、二人ともテーブルの前にきて。腕を出して、右腕でいいかい? ほら、カシラのだんな、力抜いて」
なぜか、進み出たショウが審判のように仕切っていた。
「バルド! ひねり潰してやれ!」
「そうだ! 負けんじゃねぇぞ!」
裏通りの人たちも、すっかり興奮していた。
今までと違った熱気が、二人を中心に渦巻いていた。
「カシラー! あんたなら余裕だぜー!」
「おう! 任せとけ!」
「バルド! お前バカなのに、ここで負けたらいいとこ無くなるぞ!」
「おい、今言ったのだれだ!」
「二人とも落ち着いて。いいかい? よーい」
うるさかった広場が、一瞬だけ朝の静けさを取り戻した。
「始め!」
ケリーの耳の奥がびりびりと音を立てた。広場中の人たちが、爆発したように二人を応援した。
「いけー!」
「負けるなー!」
ケリーも、ジャックたちと一緒にテーブルに近づいて声援を送った。
がっしりと組まれた腕は、テーブルの真ん中でぶるぶると震えていた。カシラは日に焼けた顔を赤黒くして、腕にはありったけの力が込められていた。
さっきまで笑っていたバルドも、必死に歯を食いしばって、太い腕が力を入れたことで、さらに一回り太く見えた。
「うぐぐぐっ」
「ぬうぅ」
どっちが勝つか、まったく分からなかった。
小さく左右に揺れることはあっても、大きく動くことはなかった。三十秒ほど経っただろうか。ケリーにはどちらも気を抜いたようには見えなかった。でも、勝負は一気に見せ場を迎えた。
「うおおお!」
カシラの大声とともに、バルドの腕がみるみるうちに倒されていった。
「バルドー!」
「負けちゃダメー!」
ケリーが叫ぶと同時に、エミリーも悲鳴のような声を上げた。
表町の人たちの、嬉しそうな声と、裏通りの人たちの慌てた声が広場をめぐった。
次の瞬間、それらは逆転した。
バルドが、ギリギリのところで耐えたのだ。
「あ、あぶねぇ」
バルドの額には、脂汗がにじみ出ていた。
本当に焦ったようだ。
「よく耐えたな。だが、まだまだ!」
カシラは、腕に全体重をかけて、決着をつけようとした。
対してバルドは、押される腕とは反対に体を傾けて、力いっぱい抵抗した。
「ぬおおお!」
「ぐおおお!」
声援は、爆発がずっと続いているみたいに盛り上がっていた。
二人も、お互いに負けないくらいの雄叫びを上げた。でも、カシラの全力の攻撃でも、勝負は決まらなかった。
カシラの雄叫びが止んで、息が上がっても、バルドの手はテーブルについていなかった。
「どりゃあああ!」
今度は、バルドの大声とともにカシラの腕が圧し返され、倒されていった。
でも、カシラは力を出し切ったようで、抵抗してもバルドの勢いは止められなかった。
始まったときのように、一瞬の沈黙があった。
鈍い音を立てて、テーブルについたカシラの手を見て、裏通りの人たちは全員喜びの声を上げた。
ケリーも、ジャックたちと抱き合ったし、ハルさんもショウとゲルと、肩を組んで喜んでいた。
見ると、トニーも他の兵隊に隠れて、ガッツポーズをしていた。
一方、表町の人は見るからに落胆していて、生気が感じられなかった。
「あんた、強かったな」
バルドが、さっきの笑顔に戻って、カシラに言った。
「お前はさらに強かったな。でも、意外にすっきりするもんだな。なんかもう、そこまで怒る気もねぇや。バルドだっけか? 俺の負けだよ」
カシラは、なんだか吹っ切れた笑みを浮かべて、バルドに手を差し出した。
バルドは大きな口で笑って、がっちりと握手をした。
二人の様子を見て、表町の人からは、戸惑ったざわめきが流れた。
ケリーは、嬉しくてたまらなかった。初めて、自分たち以外の表町の人が、裏通りの人と分かり合ったのを見たからだ。
ふと、ハルさんを見ると、ハルさんも嬉しそうに笑っていた。ケリーが見ていることに気がつくと、きれいな笑顔を向けてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます