第35話

 顔も体も、ぺしゃんこになるんじゃないかと思うくらいに挟まれて、息もできなくなり、声が出なかった。


 どのくらい耐えたのか、分からなかった。


 気がつくと目の前が滲んでいくように薄れてきて、周りの音が遠くなっていった。

 そのとき、ふっと体が軽くなった。勢いよく息を吸うと咳き込んでしまった。息を吸うことがこんなにもありがたく感じたのは、初めてだった。


「ケリー! 大丈夫か、おい!」

 

 トニーの心配そうな声が、やっと耳に入ってきた。

 顔を上げると、ケリーは驚いた。トニーには、引っ掻かれたような傷や、見るからに痛そうな痣が顔中にできていた。さらに、きれいだった軍服も、引っ張られてよれよれで、破れているところもあった。


「ト、トニーこそ、大丈夫?」

「あぁ。このくらい、隊長の鬼のしごきに比べれば、屁でもねぇ」

「聞こえたぞ、トニー」


 聞き覚えのある声がして、ケリーは慌てて周りを見回した。

 押し寄せていた人ごみは、壁のように並んだ兵士たちに代わっていた。


 前に家に来た口ひげの隊長が、振り返ってトニーを睨んでいた。

 トニーは、小さく「やべっ」と呟くと、引きつった笑顔を隊長に向けた。


「まぁ、いい。朗読員を一人で守ったお前の根性に免じて、今回は聞かなかったことにしといてやる」


 トニーは、ほっと息を吐いた。

 すると、鼓膜をびりびりとさせるほどの破裂音が、辺りを震わせた。見ると、隊長や他の兵隊が、持っていた銃を空に向かって撃ち放っていた。


「貴様らぁ! 大佐を愚弄し、さらには我らの同胞を危険に晒したこと、ただで済むと思うなぁ!」


 隊長の怒号は、後ろにいたケリーでさえ震えるほど凄まじかった。

 銃声よりも、隊長の怒鳴り声のほうがケリーには恐ろしく思えた。


「な? 怖いだろ?」


 トニーが茶化してきたけど、ぎこちなく笑うことしかできなかった。


「こ、こんな理不尽、納得できるか!」

「そうだ! 不当な武力行使だ! そ、それに、大佐は住民への発砲は許可していないはずだぞ!」


 後ろにいたケリーには見えなかったが、わずかに隊長の顔が歪んだ。

 思い出したように、集まった人たちは騒ぎ始めた。撃たれないと分かった途端に、怯えていたみんなの目に生気が戻っていった。


「ぬおぉぉぉ!」


 今度は、獣のような雄たけびを上げて、ひげもじゃの大男が人ごみをかき分けてきた。

 いや、突進して、吹っ飛ばしてきたと言ったほうが正しいかもしれない。この大男のことを、ケリーは知っていた。


 バルドだ。


「おらおら! どけー!」


 バルドは隊長の前に来ると、得意げに鼻息を吐いて笑った。

 体格のいい兵士たちよりも頭二つは飛び出したバルドは、掲示板の前でへたり込むケリーを見つけると、嬉しそうに笑顔を向けた。


「おぉ! この間のボウズ! 元気か?」


 ガッハッハッハと笑うバルドは、近くの人間の頭をそのまま飲み込んでしまうんじゃないかと思うほど、大きな口を広げた。


「……おい、ケリー。なんだ、あの化け物は」

「……裏通りの秘密兵器かな」


 みんながいきなり現れた秘密兵器に気を取られていると、いつの間にか兵隊と町の人との間に、裏通りの人たちがぞくぞくと集まっていた。

 バルドがやってきた方向に、ハルさんに教えてもらった細い路地があることに、ケリーは初めて気がついた。


「おっ、来たな。よっと!」


 バルドの顔が一消えたかと思うと、次に現れたときには頭が三つに増えていた。

 ジャックとエミリーを、両肩に担いだのだ。


「たかーい! すごいよ、ケリー!」

「ばか、楽しんでる場合かよ。大丈夫か、ケリー?」


 なんで二人がいるのか分からず、ぽかんと口を開けていると、兵士たちを押し分けてケリーを抱きしめる人がいた。

 なにが起こったのか分からなかったが、ケリーはすぐに理解した。泣きじゃくるお母さんに、抱きしめられているのだ。


「あぁ、ケリー。本当に、無事でよかった」

「おかあさん。なんで、ここに?」


 お母さんは、涙を拭うとゆっくり話し始めた。


「掲示板のことが、市場でも噂になってね、仕事をほったらかして、みんなで見にきたの。でも、すごい人だったから、他の人に見に行ってもらって、私は離れて待ってたの。そしたら、あなたが兵隊さんと一緒に人の中に入って行くのが見えて。どうにか追いかけようとしたけど、人に弾かれてね。おろおろしてたら、急に罵声が聞こえて、みんなが兵隊さんに怒鳴ってるのが見えて、あなたも危ないんじゃないかと思って」


 お母さんは、また涙を拭いた。


「なんとか助けに行こうとしてたら、ちょうどジャックくんたちが私に声をかけてきたの。ジャックくんたちも、あなたを探してたみたいで、あの中にいて危ないことになってるから、あなたたちはここにいなさいってお母さんは言ったのよ。そしたら、急に私の手を引っ張って走り出して。どこに行くのかと思ったら、この人たちがいて。事情を話したら、みんな血相を変えて、急いでここに来たのよ」


 見上げると、バルドがニカッと笑った。


 なんだかケリーも、つられて笑ってしまった。

 お母さんとトニーに手を貸してもらいながら、ケリーは立ちあがった。隊長の横から顔を出すと、バルドのとなりにハルさんが立っていた。


「ハルさん!」


 隊長が横にどいてくれ、ふらふらと進み出たケリーが呼ぶと、ハルさんは振り返って笑顔を見せた。

 でも、服はぐちゃぐちゃになり、トニーほどではないにしろ、顔には擦り傷と痣ができているケリーを見るなり、血の気が引いた顔で慌ててケリーに近づき、目の前で屈んで傷を確認し始めた。


「大丈夫かい? ひどい目に遭ったね。気分は悪くないかい?」

「うん、大丈夫だよ。ありがとう。ねぇ、どうしてみんなここに?」

「ショウの仲間が、今朝早くにこの掲示を見てね。嬉しくて、朝からみんなで騒いでたのさ。そしたら、ジャックたちも家を抜け出して来てね。あんたも仕事前に呼んでくるように頼んだんだ。で、戻って来たら血相変えた二人と、あんたのお母さんが来て、二人が大変だって聞いてね。みんなで助けに来たのさ」

「そうだったんだ。本当にありがとう。おかげで助かったよ」


 ケリーが笑うと、ハルさんはほっとして頭を優しく撫でた。撫で終わると、きりっとした顔つきになって立ちあがった。


「もう大丈夫だからね。安心しな」


 ハルさんは振り向くと、バルドや兵隊たちと睨み合っている表町の人たちに向かって、声を上げた。


「あんたたち、なんてことするんだい! 馬鹿みたいに騒いで、それでも大人かい?」

「うるさい! お前たち裏通りの人間だろ? 調子に乗るんじゃない!」


 一人が言うと、周りの人たちも一斉に声を荒げ始めた。

 すると、裏通りの人たちも反論を始めて、ちょっとしたことがきっかけで、大乱闘が起きそうだった。


「全員、撃ち方用意! 撃てぇ!」


 目の前の緊張を切り裂くかのように、隊長が号令をかけて、兵隊が一斉に空に向けて発砲した。

 広場中に響く銃声に、言い合いをしていた人たちはまた静かになった。


「この場で争いを始めるなら、我々は暴動と見なす。その場合、大佐の定めた規則に従い、我々は武器を使用し、その鎮圧に努めるだろう」


 すでに殴りかかろうとしていた人たちは、慌てて腕を下ろし、みんな苦々しい顔で隊長を睨んでいた。


「なぁ、あんたたち。今までこんな機会、一度もなかったんだ。こんだけ町の人間が集まってるんだし、表町と裏通りの大会議といこうじゃない」


 ハルさんは両手を広げて、今にも噛みつきそうな町の人たちに向けて言った。


「いいだろう!」


 どこからか上がった声に、周りの人たちも口々に賛成した。


「なら、この人数で言い合っても仕方ないからね。そっちから、何人か代表を出しな」

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