第32話

 翌朝、この日もお母さんに優しく声をかけられて、ケリーは目を覚ました。


 お母さん曰く、今日も犯人探しで兵隊が町中を歩き回り、市場はお母さんに今日もお休みをくれたのだそうだ。


でも、ケリーは仕事があった。


 大佐から言われたお休みは昨日だけで、二日も休んでいいとは言われていない。

 お母さんは休んだほうがいいと言って、ケリーを止めようとした。でも、ケリーは昨日、十分に遊んだから大丈夫だと言って、薄く染みが残ったシャツを着て、家を出た。


 巡回中の兵隊からの挨拶を、ケリーは「おはよう」と短く返した。

 足も気づかないうちに早くなっていて、いつの間にか拳を握っていた。

 坂道を登り、丘の上から町を見下ろした。


 空は、昨日までの雨雲が、まるで子どもになったみたいに小さくなって、青い空に浮かんでいた。


 目の前に見える風景には、町全体がよく見えた。

 上から見れば、どこからが裏通りなのか分からなかった。ただ、この国独特の赤みがかったオレンジ色の屋根が並び、大きなものも小さなものも、教会や灯台も、すべてがこの町のひとつだった。ここで生まれ育った人にとって、どれが欠けても故郷の町ではなくなる、大切なものだ。


 だからこそ、ハルさんたちが置かれている状況が不思議なものに感じた。

 無くしてしまうには、ながい時間が必要だろう。それをやっていくのは、これからを生きるケリーたちだ。


 ケリーは目を閉じて、朝日の温かさを全身に受けた。


 町中の人を動かす力なんて、自分にあるはずがない。

 そんなことができるのは、この町で一人しかいない。


 大佐だ。


 大佐なら、この町が変わるきっかけをつくることができる。


 ケリーは目を開くと、また足早に歩き出した。大佐の屋敷は、一日休んでもなにも変わっていなかった。なのに、なんだか重たい空気が漂っているような気がした。


 扉を開けると、中は静まりかえっていた。ローラさんやフリッツさん、メイドのお姉さんの誰とも会わないまま、ケリーは大佐の部屋に向かった。


「失礼します」


 中に入ると、大佐の部屋だけはいつもとは違った。


 机の上に新聞はなく、代わりにフリッツさんが大佐のとなりに立っていた。眼鏡を上げながら、ケリーに冷たい視線を向けていた。


「やぁ、おはよう。今日はなにも読まなくていい。少し話をしよう」


 大佐の低い声は、淡々としていた。ケリーが机の前に立つと、フリッツさんが懐から丸められた長い紙を取り出し、机の上に広げた。見覚えのある紙だった。


「これは、昨日教会の神父さまが持ってきたものだ。なんでも昨日の昼ごろ、急に大勢の人たちがやってきて、寄付を申し出たそうだ。それも、南の裏通りに住む貧しい人たちがね」


 大佐は手を顔の前で組んで、机に肘をついていた。

 声はいつもの大佐なのに、話す度に押さえつけられるような感覚がした。


「ほとんどが銅貨一枚か二枚ほどだったそうだが、中には銀貨や金貨を寄付する者もいたそうだ。いくらあの辺りでは裕福な方だといっても、あまりに不自然だ。その者だけではない、どうして昨日、一斉に寄付にやってきたのか。私はね、この者たち全員が共犯で、きみのお金を盗んだのではないかと思った。神父さまは、そんなこと微塵も思わなかったようだがね。必死に、この人たちを認めてやってくれと言われたよ。だが、私は犯人を許すわけにはいかない。のこのこ怪しまれるようなマネをするマヌケたちを、すぐにでも捕えてやろうと思った。ところがだ」


 大佐が言葉を切ると、フリッツさんが無言のまま紙を指差した。見ると、ケリーの名前が、ジャックとエミリーの名前に続いて書かれていた。


「ここに書かれているのは、きみの名前だな?」


 やっと口を開いたフリッツさんは、まるで感情がこもっていない声で言った。その間、ケリーのことは見ず、ただ紙に書かれた名前を見つめていた。


「はい、そうです」

 ケリーも、指の先に書かれた自分の名前を見ながら答えた。


「うむ、そうか。なら、となりに書かれているのは例の友達だね? 三人で、一体なぜあんな連中と寄付をしに教会へ行ったのかい? しかも、我々がきみのために犯人探しをしている最中にだ。友達と遊ぶのはかまわないが、これはどういうことか、私に説明してほしい」


 口だけを動かして、大佐の体はぴくりとも動かなかった。

 目の前にいるのが、大佐そっくりの人形なんじゃないのかと思ってしまうほどだった。


「なら、問題はないはずです。あの場にいたのは、みんな僕の友達ですから」


 フリッツさんが、眉間にしわを寄せた。


「ほう? みんな友達だと?」

「はい。そうです」

「きみは悪人と友達なのかね?」


 思いがけず言葉が出てしまったのか、フリッツさんが小さな声で言った。

 そのとき、初めて大佐が顔をしかめて、フリッツさんへ小さく首を動かした。

 

「どうして、裏通りの人ってだけで、悪人だなんて言うんですか?」


 ケリーは、フリッツさんと向き合った。


「あの辺りに住んでいる人間は、盗みや殺しまで行う者たちばかりだ。それはきみたち、この町に住む人々が昔から知っていることではないのかね?」


 フリッツさんの口元が、嫌な感じに持ちあがった。


「そうですね。でも、そんな風に言っているのは、裏通りにほとんど関わったことがない人たちです。そんな人たちばかりじゃないことを、知らないんです」

「ふむ。だが、その言い方だと、少なからず裏通りには悪人がいることを認めていることにならないかね? 私にはそう聞こえたが」


 フリッツさんに引き下がるつもりがないことを、ケリーは悟った。


 でも、言い負けるつもりはなかった。今まで、本や新聞をたくさん読んで、同い年の中ではかなり賢くなったと思っている。だから、簡単に負けるとは思えないし、言い負かす自信だってあった。


 なにより、ハルさんたちのためにも、ここでがんばらないと意味がない。拳を握って、ケリーはフリッツさんと向き合った。


「はい、そうです。たしかに悪いことをする人もいます。でも、みんなじゃない。悪い人もいれば、いい人もいる、それはどこでも同じなんじゃないですか? 裏通りだけが特別じゃあないと思います」


 目を逸らすように、フリッツさんは眼鏡を上げた。


「私の言葉が足らなかったようだね。つまりは、悪人の割合が極めて多いということだ。そのことは、きみはどう考える?」

「たしかに、そうかもしれません。僕だって、裏通りのことを全部知ってるわけじゃないし」

「そうだろう。なら」

「じゃあ、フリッツさんや、大佐はすべてご存じなんですか?」


 フリッツさんは、驚いたように言葉を詰まらせた。


 大佐の眉毛がちょっとだけ持ちあがったが、すぐに元の位置に戻った。


「大佐たちは、裏通りの人たちがどうして悪いことをするのか、理由を知っているんですか?」


 フリッツさんが答える前に、大佐が重たそうに口を開いた。


「もちろん、知っている。一番の理由は貧困だ。合っているかい?」

「はい。僕もそう思います」

「そんなものは、言いわけにすぎぬ。貧しかったら人の物を盗んでもいいのか?」

「フリッツ、少し落ち着け。話がずれている」


 大佐が右手を上げて制止した。


「ケリーくん。今の議論で、きみが言いたいことを聞こうじゃないか。それに対して私が答える。それで、この話はお終いにしよう。そしたら、きみも私の質問に答えてくれたまえ。昨日の出来事についてを」

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