第21話
「ケリー! どうしたの!」
ケリーが家に着くと、先に帰っていたお母さんは慌てて駆け寄った。
心配そうなお母さんを見て、ケリーは自分が暗い顔をしているのだと思った。
家に着くまでの道中、今日のことをお母さんに伝えると思うと、つらくてたまらなかった。せっかくの給料を盗まれてしまったなんて、今まで心配しながらも応援してくれたお母さんに、申し訳がなかった。
「あ、あのね、おかあさん」
でも、言わないわけにはいかなかった。ケリーは、丁寧に体を拭いてくれるお母さんに、震えながら今日のことを話した。
「……でね、たぶん、大佐も犯人を探してくれると思うから。その、ごめんなさい。おかあさんにお金を渡せなくて」
「ケリー!」
叫ぶような声に、ケリーは体を跳ねらせて、お母さんの顔を見た。
説明している間、ずっとうつむいていたから、お母さんの泣きじゃくった顔を見たとき、驚いてなにも言えなくなった。
「本当に、無事でよかった。ま、まさか、泥棒に遭うなんて。それに、わたしでも、あ、あの辺りには近づいたことはないのに、よく無事で。本当に、本当によかった」
お母さんはしゃくりあげながら、まだ濡れたままのケリーを抱きしめると、耳元で息子への想いをささやいた。
「あなたがいなくなったら、お母さんはどうしていいのか分からないの。お金なんて、どうでもいいの。わたしは、あなたが大切なだけ。お父さんと、お母さんの、大事な宝物。あなたを愛しているだけなの、ケリー。あなたが笑顔でいてくれるなら、わたしは、それだけで十分なの」
お母さんの声が、全身を優しく包むようだった。言葉の一つ一つが、ケリーの傷ついた心に沁みわたって、苦しいほどに熱い気持ちがこみ上げてきた。
ハルさんのお店で、十分に泣いたと思っていたのに、ケリーはまた涙が止まらなくなった。お母さんの背中に手をまわして、顔を胸に押しつけた。
ケリーは、今日一番の大声で泣いた。
なにも考えられず、泣くことしかできなかった。
二人は、世界でたった一人の家族を、強く強く抱きしめた。
ケリーは、気が済むまで泣き続けた。
手を離すと、ケリーは鼻をすすりながら服を着替え、お母さんも涙をぬぐいながら晩御飯の支度をした。
「さぁ、いただきましょう」
美味しいにおいに包まれながら、こうしてお母さんと食事ができることが、ケリーは改めて幸せに思えた。今日は危ないことがあったから、なおさら強く感じた。
「ねぇ、おかあさん。あの裏通りだけど、確かに怖い人もいるし、泥棒もいるかもしれないけど、みんながそうじゃないんだ。いい人だっているんだよ」
ケリーの頭に、ハルさんの頼もしい姿が浮かんだ。
「えぇ、話してたハルさんでしょう? あんなところにも、ちゃんとした人がいるのね。また会ったら、きちんとお礼を言うのよ?」
「うん、わかった」
言われなくても、ハルさんにはいくら感謝しても足りないくらいだったから、何度だってお礼を言うつもりだった。
ふと、大佐のところに走って行ったトニーの姿が浮かんだ。トニーは、大佐にこのことを伝えられただろうか。考えていると、玄関の扉が強く叩かれた。
「ごめんください。軍の者です」
慌てて席を立って、お母さんが扉を開けた。
ケリーも追いかけるように、後ろへ続いた。扉の向こうには、道を塞いでしまうくらいの兵隊がいて、ちょうどケリーの家の前には、頑丈そうな馬車が停まっていた。
空はまだ厚い雲に覆われていたが、雨は止んでいた。月明かりが無い分、兵隊たちが持ったランプが妙に明るく見えた。
「お食事中失礼します。本日、勤務後の帰り道に朗読員殿が襲われ、給料を盗まれたと、こちらの者から報告を受けました。朗読員殿、間違いはないか?」
兵隊たちの中から、トニーが扉の前に進み出て、ケリーたちにキレのある敬礼をした。
ケリーは今話していた人が、トニーがよく話す隊長なのだろうと思った。
口ひげを生やした男は、青く鋭い瞳から年齢以上の威厳を感じさせていて、隊長にふさわしい人物に思えた。
「はい、間違いありません。突然のことだったし、雨もひどかったので顔は見ていません」
「うむ、なにか犯人の特徴は覚えてないかね?」
ケリーは、必死に盗まれたときのことを思い出した。
「えっと、身長はトニ……そこの兵隊さんよりも少し低かったです。灰色の帽子を被っていて、少し見えた髪は茶色だったと思います。すいません、盗られた瞬間に見たような気がするだけで、本当に茶色だったかも自信がないんですけと」
ケリーの目に強く浮かぶのは、滝のような雨の中を走り去っていく泥棒の姿だった。いくら思い出しても、なにか犯人を特定できるようなことは、思い出せなかった。
「そのくらいか。いや、気にすることはない。きみが犯人を追ってくれたおかげで、南の裏通りの住人らしいということは分かっているんだ。大丈夫だよ」
隊長は気遣ってくれたが、情報が足りないことはケリーにも分かっていた。犯人を捕まえるのは難しいと、ケリーが一番感じていた。
「ケリーくん」
馬車の中から聞こえた声に、ケリーは目を見開いて固まってしまった。
いつも聞いている声よりずっと低くて、聞いただけで睨まれるような迫力があった。
隊長や、トニーを含めたすべての兵隊が緊張した面持ちになった。
馬車の扉が開き、フリッツさんに支えられて出てきたのは、間違いなく大佐だった。
「こんばんは。ケリーくんのお母さんですね?」
大佐にお辞儀をされて、お母さんは小さく「ひっ」と息を飲んだ。
「は、はい。ケリーの母でございます」
大佐よりも深く頭を下げながら、お母さんは震えた声で言った。
町の統治者である大佐が自分の前にいること自体、ただの庶民であるお母さんにはあり得ないことだった。
でも、心の中で大佐を嫌っているお母さんは、目の前の大佐を素直に尊敬して接することができずにいた。ケリーには、お母さんが感じているそれらの想いが、はっきりと分かった。
「ずいぶんと立派な息子さんですね。礼儀正しく、勉強熱心で賢い。なにより、家族を心から大切にする姿には、私は感動を覚えたほどです」
「はい。そこまでおっしゃっていただき、光栄です」
ケリーは、激しく動き出した心臓の音を聞きながら、大佐を見つめていた。
まさか、大佐がこんなところに来るなんて、夢にも思わなかった。わざわざ馬車に乗ってきた大佐の用が自分にあることは、疑いようがなかった。なにを言われるのか、ケリーは不安でしかたがなかった。
「さて、ケリーくん」
大佐の布の目が、ケリーを捉えた。ケリーの体は固まったまま、大佐から目を離せなかった。
「こんなことになってしまって、心配でしかたないだろう。だが、安心しなさい。犯人は必ず捕まえてみせる。報告を受けて、すでに隊を編成し捜索を始めている。ここにいる者たちも、これからこの辺りを回る予定だ」
大佐が自分のことを責めなかったので、ケリーは少しほっとした。てっきり、激しく怒られてクビになると思っていたからだ。
「フリッツ」
大佐に名前を呼ばれると、フリッツさんは懐から白に近い灰色の巾着を取り出して、ケリーに渡した。
手に取ると、金属が当たる音と、ずっしりとした重みがあった。中を見ると、盗られたお金と同じ枚数の金貨や銀貨が入っていた。
「えっ、あの、これは?」
驚いて、ケリーは思うように言葉が出てなかった。お母さんも、見たこともない大金に、目を丸くしていた。
「盗まれたのと同じ額入っている。せっかく捕まえても、犯人がお金を使ってしまっているかもしれないからね。改めて、一ヶ月分の給料だよ」
「いや、でも! 僕が盗まれたのに、さらにもらうなんてできません!」
大佐は、ケリーの言葉にうなずきながら微笑んだ。
「給料は、きみが一ヶ月頑張ったことへ対する評価であり、きみの努力の成果だ。私には、きみの仕事に対して相応の見返りを与える義務がある。それは、お金の金額もそうだが、それ以上に重要なことがある。きみ自身の達成感や満足感だよ。きみに働いてよかったと感じてもらうことが、一番の報酬だと思っている。このお金は、そのための手段だ。だから、気にせずに受け取りたまえ」
「いや、でも」
「なに、私のけじめのようなものさ。私はきみにお金を払った。なのに、どこぞの人間が使ってしまっては、悔しいからね」
ケリーは胸が痛かった。
自分の不注意で盗まれたのに、こんなことをしてもらっては罪悪感でいっぱいになる。ケリーがなにも言えずにいると、大佐は受け取ったものとして考えたのか、話を続けた。
「ケリーくん。私はね、正直に言うと今ものすごく怒っている。もちろん、きみに対してじゃない。盗んだ人間に対してだ」
大佐は、決して大声を出しているわけじゃないのに、周りの空気が震えているようだった。大佐の言葉からは、確かに抑えられた怒りが感じられた。
「努力した者を、不当に傷つけるような輩を、私は決して許さない。ましてや、私の下で働く者を襲うということは、私自身を襲うということ同じことだ。一人が襲われれば、私の下で働く全ての者が襲われたのと同じだ。ケリーくん、きみは我々にとって大切な仲間なのだ。私にとってはね、それは家族と同じなのだよ。きみのために、我々はできる限りのことをする。約束しよう」
大佐が言葉を切ると、トニーたちはもちろんフリッツさんまで、その場にいた全員が敬礼をした。
お母さんは、目の前の光景に圧倒されていた。でもケリーは、誰よりもきれいな敬礼をした大佐から、目が離せなかった。
「では、ケリーくん。明日は休んでいいから、このことは我々に任せなさい。では、夜分に失礼しました」
「は、はい。あの、こちらこそありがとうございました」
大佐の丁寧なお辞儀に、ケリーとお母さんは深く頭を下げた。杖を突きながら馬車へ戻る大佐に、トニーと隊長が敬礼をした。
「全員、編隊を組み速やかに行動を開始しろ!」
隊長の掛け声で、家の前にいた兵隊が数人づつに分かれて、町中へ散って行った。
「では、失礼します」
「じゃあな、ケリー。俺たちに任せて、今日は早く寝るんだぞ」
トニーは、離れる前にケリーにささやいてウインクした。
ケリーは笑って応えたが、その笑顔は固かった。
殺したいと思っていた大佐が、自分のためにここまでしてくれることに、戸惑っていた。
自分のことを家族とまで言った大佐のことを、もう前ほど憎いとは思えなくなっていた。
自分がこれから大佐とどう接すればいいのか、どんな気持ちでいればいいのかが、分からなかった。
大佐がしてくれることが、抱いてくれる気持ちが、じんと沁みてきて、ケリーの心にあった黒い決意を、ゆっくりと溶かそうとしていた。
走っていく兵隊たちのあとに、大佐が乗り込んだ馬車からフリッツさんが重たそうな鞄を持ってケリーのもとへ歩いてきた。
「あ、あれ? フリッツさん、どうしたんですか?」
ケリーが不思議に思って尋ねると、フリッツさんは眼鏡を上げながら言った。
「また本を貸すと、約束していただろう? 私が届けられることはあまりないので、持ってきたのだ。明日はお休みをいただいたのだから、これでも読みたまえ。きっと気も紛れる」
中に並んだ分厚い本たちは、ケリーが好きな物語でないことは明らかだった。お礼を言うと、フリッツさんはぴんと伸びた背筋で「では」とお辞儀をすると、馬車に乗って去っていった。
「ケリー。あなた、そんな難しそうな本を読めるの?」
ケリーはなんと言っていいか分からず、苦笑いを浮かべるしかなかった。
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