第19話
ケリーはトニーに案内されて、赤い扉の建物に入った。中は、大人たちがお酒を飲むお店だった。
丸いテーブルが四つあって、周りを囲むように椅子が置かれていた。右手にはカウンターがあって、棚にはお酒の瓶がずらりと並んでいたが、お客さんもいなければお店の人もおらず、ろうそくの光が薄暗い店内を静かに照らしていた。
「おーい、ハルさん!」
トニーは、店の奥に向かって言った。すると、カウンターの奥から女の人が長い黒髪を揺らしながら、不機嫌そうに出てきた。
ハルさんは、トニーよりも年上に見えた。ぱっちりとした目の、きれいな女性だった。
「うるさいねぇ! なんだい、忘れ物かい? やっと出て行ったと思ったのに……その子、どうしたんだい?」
ハルさんは、ケリーの姿を見ると何かあったと感じたらしく、ダルそうだった声色が変わった。
「ちょうど、この店の前で変な男に襲われていた。とりあえず、この通りビショビショだから、体を拭くものを貸してくれないか?」
「そうだね。でも、その前に風呂に入んな。泥が髪の毛やら、いろんなところについてるよ。ほら、こっちに来なさい」
トニーに背中を押されて、ケリーはハルさんについて行った。
カウンターの奥は、狭いけど厨房になっていて、さっぱりしたにおいがした。厨房を通ると、すぐ左手に急な階段があって、それを通り過ぎた向こうにお風呂があった。
「少し前に私も入ったから、まだお湯は温かいと思うよ。怖かったろ? ゆっくり汚れを落としな」
ハルさんは優しく笑った。黒くて長い髪が揺れて、いいにおいがした。
湯船は狭かったけど、お風呂のお湯はまだほんのり温かくて、雨で冷えた体には気持ちがよかった。泥を落としてさっぱりしたところで、ケリーはお風呂から出た。
脱衣所には乾いた布と着替えが畳んであって、着替えの上にはケリーの首飾りと布に包まれた銛が置かれていた。
銛を見たとき、ケリーは息を飲んだ。止まっていた頭が急に回転をし始めて、ボーっとしていた意識が急にはっきりとしてきた。
ハルさんに銛を見られた。
というよりも、初めて銛の存在を自分以外に知られてしまった。
膝ががくがくと震えた。
ハルさんに、どう思われたのかが気になってしかたなかった。
自分が誰かを、大佐を殺そうとしていたことに気づいただろうか。
そして、そのことをトニーに言ってしまっただろうか。
せっかく温まったのに、頭から全身に冷たい水が流れていくようだった。
「ぼうや、もう出たかい?」
ハルさんの声が聞こえて、ケリーは体を強張らせた。
「は、はい」
脱衣所の扉を開けて、ハルさんが中に入ってきたので、ケリーは慌てて体を隠した。
「あはは、すまないね。そうだ、男の子だもんね。恥ずかしいか」
ハルさんは自分の言葉に納得するように、目を隠して脱衣所を出た。
「服はそこにあるのを着な。あんたのは、洗っといたから。それにしても、あんた洒落た首飾りをしてるんだねぇ。あ、ポケットに入っていた汚い布に包まれたのも、置いてあるからね。なんなのかは知らないけど、捨てていいものならそこに置いときな」
笑いながら話すハルさんが銛に気づいていないことに、ケリーはほっとした。
「じゃあ、着替えたら店まで来な。トニーと待ってるから」
遠ざかる足音を聞きながら、ケリーはほっと息を吐いた。
見られはしたが、ハルさんには銛の存在と目的がバレたわけではなかった。
ケリーは、おもむろに銛を手に取ると、濡れた布を解いた。水気を帯びて艶やかに光る黒い刃が、静かに顔を出した。
ケリーは、切っ先を眺めながら、おじさんが持っていたナイフを思い出した。
ふと、ケリーは指先に軽く銛を刺してみた。小さな点のような傷ができたかと思うと、そこから血が滲み、痛みが広がった。
玉のようになっていく血を見つめながら、先ほどのおじさんとトニーの格闘を思った。
トニーがあんなに強いなんて、本当に驚いた。兵隊なのだから強いのは当たり前だが、腰の剣も使わずに素手で倒してしまうなんて、普段のふざけているイメージからは、想像もつかなかった。
もし、自分が大佐に襲いかかったら、あんな風にやられてしまうのだろうか。
大佐のことを知ってしまった今、自分が成功する姿が想像できなくなっていた。それ以前に、あれだけ殺したいと思っていた気持ちが、なんだか胸を締めつけて苦しくしていた。自分が、本当に大佐を殺したいのかすら、分からなくなっていた。
自分は何をするべきなのか。
大佐の家を出てずっと考えていたけれど、答えは出なかったし、今でも分からなかった。
ケリーは服を着ると、首飾りをして脱衣所を出た。服は、少し古いにおいがしたけど、大きさはぴったりだった。とにかく、今は泥棒を捕まえようと思った。雨雲みたいにどんよりとした気持ちを、ケリーは心の奥に抑え込んだ。
「お、さっぱりしたな」
お店に戻ると、トニーがカウンター席に座って待っていた。
トニーはいつもの軍服姿で、雨具は出入り口の近くにかけてあった。ハルさんはカウンターの中にいて、食器を磨いていた。トニーのカップからは湯気がたっていて、コーヒーの香ばしい香りが漂っていた。
「ほら、そこに座りな」
ハルさんに言われて、ケリーはトニーのとなりに座った。カウンターの椅子は高くて、足が浮いてしまった。
「さ、これ飲んで元気出しな! ひどい顔色してるよ?」
ハルさんが出してくれたのは、温めたミルクにはちみつを入れたものだった。
口に入れた瞬間、はちみつの優しい甘さがじんわりと広がった。飲み込むと、あったかいミルクが体を流れていくのが分かった。自然にほぅと息が出て、全身があったまっていくを感じた。
急に、涙が溢れてきた。
さっき心にしまったはずの気持ちが、一気に戻ってきた。そして、どうしようもなく悲しくて、怖くて、泣きたくなった。
「う……うわぁぁぁ!」
トニーたちの前だから、すぐに泣き止みたかったのに、涙は止まってくれず、ケリーは泣き続けた。
「怖かったんだね。いいよ、たんと泣きな」
ハルさんは、優しく声をかけてくれた。トニーも、何も言わずに肩に手を置いてくれて、二人ともケリーが落ち着くまで待ってくれた。
しばらくすると、ケリーも落ち着いてきて、鼻水と涙を拭いた。こんなに泣いた一日は、生まれて初めてだと思った。
「落ち着いたか? ケリー」
「うん。ありがとう、トニー。助けてくれたし、今も」
「気にすんなよ。俺とお前の仲だろう?」
「うん、ありがとう。えっと、ハルさんもありがとうございます。こんなによくしてもらって」
「いいんだよ! たいしたことしてないんだから」
ハルさんは、照れてそっぽを向いた。
「さて、ケリー。こんなところで何をしていたんだ? 家は反対の方向だろう?」
「そうだよ。一体、なにがあったんだい?」
「実は……」
ケリーは、大佐の家から帰る途中に泥棒に遭ったことを話した。
「なるほどね。たしかに、この辺にはそんなことやりかねない奴らが、何人もいるからね。にしても驚いたよ。あんたが噂の朗読員だったなんてね。ケリーって子がなったっていうのは聞いてたけど、あんたのことは知らなかったからね」
ハルさんがケリーをまじまじと見ながら言った。
ケリーはなんだか恥ずかしくなって、目を合わせずにいた。
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