第18話

 呆然としていたケリーは、すぐに立ち上がることができなかった。


 やっとの思いで立ち上がると、急いで泥棒が逃げた方へ駆け出した。しかし、近くにいるはずもなく、息が上がるまで走っても、泥棒の姿は見当たらなかった。


「どうしよう」


 ケリーは、このとき初めて周囲を見回し、自分がいる場所を知った。雨で濡れたせいではない寒気が、背筋に走った。


 この場所は、ジャックと一緒に遊ぶときでも来たことがない。


 町の南側に位置するこの裏通りは、ケリーたちが住む地域を表町と呼んで、町の中でも別の場所として区別されている場所だ。


 理由は、悪い人が多いからだと表町の大人は言っていた。泥棒のあとを追っているうちに、いつの間にかたどり着いたこの場所は、降りしきる雨の中でも町のどこよりも薄暗いことが分かった。


 壁の汚れは、雨に濡れた程度では落ちる気配はなく、散乱したゴミが複雑な雨音を奏でていた。人影はなかったが、建物の中や物陰からじっと見られているような気がして、ケリーはぞっとした。

 でも、立ち尽くしているわけにもいかず、ゆっくりと歩き始めた。びくびくしながら、ケリーは周りを警戒していた。


 でも、頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 色んなことが、いっぺんに起きた。大佐のことを知って、ケリーの中にあった「殺したい」という気持ちが大きく揺さぶられた。それだけでも、ケリーはつらくて、苦しかった。自分がこれからどうしたらいいのか、分からなかった。


 いっぱいいっぱいだったケリーに、泥棒はさらに追い打ちをかけてきた。お金まで失ったら、なんのために働いてきたのかわからなくなる。それに、自分だけでなく、お母さんまで傷つけてしまうのが嫌だった。

 せっかく楽にさせてあげられると思ったのに、これでは逆に心配をかけてしまう。


 ケリーは、傘の柄をぎゅっと握った。流れてきた涙を拭くと、震える足を少し速めた。


 大佐のことも考えたかったけど、今は目の前のことをなんとかしようと思った。


「やぁ、ぼうや。こんなところでなにをしているんだい?」


 飛び上がって振り向くと、いつの間にか男の人が後ろに立っていた。歳は、大佐よりも下だろう。

 傘をさしていないから、おじさんはずぶ濡れだった。深くかぶった帽子から、黒々としたひげと黄色い歯が見えた。


「ここは、危ないよぉ。危ない人が出るからねぇ。雨も降ってるから寒いだろう? おじさんと一緒においで」


 ニタニタと笑いながら、おじさんはケリーの腕を掴んだ。


「やだ! やめて! はなして!」

「いいから黙っておいでぇ。大丈夫だよぉ」


 必死でおじさんの手を振り払おうとしても、痛いくらいに握られた手はびくともしなかった。


「ほらほら、大人しくついて来たらいいんだよぉ」


 ケリーは傘を投げ、無我夢中でおじさんの腕に噛みついた。


「ぎゃあ!」


 おじさんは、声を上げて手を離した。その隙に、ケリーは必死で逃げ出した。


「待ぁてぇ! このガキがぁぁ!」


 辺りに響く大声で、おじさんは後を追いかけてきた。恐ろしくて、ケリーは振り向かずに走り続けた。


「おい! こっちだ!」


 雨の向こうで、男の人の声がした。ケリーは一瞬迷ったが、おじさんの声が後ろに迫っていたので、一か八か声がした方に走っていった。


 男は、色がところどころ剥げた赤い扉の前に立っていた。ちょうど出てきたのか、閉じかけた扉から、温かい光がこぼれていた。

 近づくと、男は庇うようにケリーとおじさんの間に入った。雨具をひるがえした男は、まるで壁のようだった。


「なんだぁ? おまえ」


 男の背中越しに、おじさんの声が聞こえた。少し息が上がっているようだった。


「帰れ。この子に手を出すな」


 男は、はっきりとした声で言った。大声ではなかったが、雨音にも負けない力強さがあった。


「あぁ? うるせぇぞ! 邪魔すんなぁ!」


 おじさんは、聞こえづらい裏声になって叫んだ。と同時に、男に向かって走り出した。


 ケリーからは見えなかったが、おじさんは隠し持っていたナイフを取り出して、男に向かって突き刺そうとしていた。


 男は素早く身構えると、突進してきたおじさんをかわし、顔に頭突きを喰らわせた。

 鈍い音とともによろけたおじさんの手を素早く掴むと、ひねり上げてナイフを落とし、そのまま地面に押さえつけてしまった。


「いてぇ! ま、待て。降参だよ」

「この子を追わずに帰るか? 今後近づかないと誓うか?」

「ち、誓うよ。もう、その子には手をださねぇ」


 おじさんが苦しそうに答えると、男は投げ捨てるように手を離し、おじさんから離れた。おじさんは怯えたように男を見ると、一目散に去っていった。


 あまりにもあっという間の出来事に、ケリーはただ驚いて、男と地面の転がったナイフを交互に見ていた。


 やがて、おじさんが見えなくなったのを確認すると、男は落ちていたナイフを拾って、ケリーに近づいてきた。


 扉を背にして動けなくなっていたケリーは、雨具のフードを脱いだその顔に驚いた。


「おい、ケリー、大丈夫か? なんでこんなとこにいるのかわからねぇが、とりあえず中に入れ。このトニーさまがいるからには、あんなオッサンなんて怖くないぞ」

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