第17話
「フリッツです。失礼します」
背後から聞こえた声に驚いて、ケリーはとっさに銛を離しポケットから手を出した。振り返ると、ちょうどフリッツさんが扉を開けたところだった。
「うん? どうしたフリッツ」
「はい、お邪魔して申し訳ございません。実は本国から緊急の手紙が届きまして」
「おい、フリッツ。時と場所を考えろ、お前らしくもない。ケリーくんの前だぞ」
大佐は、明らかに不快になった顔をフリッツさんに向けた。
「いえ、これはむしろ公表すべき内容かと。大佐、お孫さんがお生まれになりました。おめでとうございます」
今日の空のように曇っていた大佐の顔が、ぱっと明るくなった。
「なに! 本当か? 娘が生んだのか! で、手紙は?」
「お持ちしております」
「そうか! ちょうどいい、ケリーくん。手紙を朗読してくれたまえ。さ、はやく!」
興奮する大佐を見ながら、ケリーは頭がぐらぐらして、大佐の言葉は耳に入っていなかった。
つい先ほどまで体中に満ちていた熱が、一気に冷めてしまっていた。足に力が入らず、立っているのがやっとだった。銛を離した右手が、力なくぶら下がり、行き場を探していた。
「どうしたのだね、ケリーくん。大佐が、手紙を読むようにおっしゃっているのだよ。さぁ、早く読み上げるのだ」
目の前に手紙を差し出されて、ケリーは目覚めたかのようにハッとして、慌てて手紙を受け取った。
「は、はい。えっと、読みます」
大きな唾を飲み込んで、息を吸った。
「『愛するお父さんへ
こうして手紙は出すけれど、もう何年もお父さんの顔を見ていないなんて信じられないわ。でも、わたしが何を言ってもお父さんは帰っては来ないのでしょう。そんなことは、とっくにわかっています。
こちらでは、今年もお庭の花がきれいに咲きました。いつもみたいに、花の香りに誘われて、色んな虫たちがうちにやってくるけれど、今年は特別なお客さまがやってきたの。
うれしい知らせよ! わたしの赤ちゃんが、生まれたの!
元気な男の子よ! 泣き声が大きくてびっくりするくらい!
わたしが言ってもダメかもしれないけど、孫に会いに一度くらい帰ってきてもいいんじゃない? パパのマイクは、知らせを聞いたらすぐに飛んで帰ってきたわよ? おじいちゃん。
それから約束通り、この子の名前を考えてあげてね。かっこいい名前を、わたしもこの子も首をながくして待ってるわ。
じゃあ、体に気をつけて。返事を待っています。
アリスより』」
「そうか。男の子か。無事に生まれてよかった」
ケリーが読み終わると、大佐はささやくように言った。
手紙の文字は細くてきれいで、流れるように書かれていた。きれいな女性が、嬉しさに顔をほころばせて書き上げる様子が、ケリーの頭に浮かんだ。
「本当に、おめでとうございます」
フリッツさんは背筋をピンと伸ばして、改めてお祝いを言った。
「うむ、ありがとう。これは、はやく名前を考えてやらねばいかんなぁ。ケリーくん、遅くなってしまってすまないな。きみもはやく帰って、そのお金をお母さんに見せるといい。まったく、いい知らせは続くものだな」
「はい……失礼します」
ケリーはお辞儀をして、巾着を掴んだ。
口元が緩んだままの大佐と、何も言わずに見つめるフリッツさんの視線を背中に受けながら、ケリーは部屋を出た。
大佐に挨拶をして部屋を出たことも、玄関でメイドのお姉さんに傘を受け取ったことも、ケリーはほとんど覚えていなかった。激しくなった雨の中を、フラフラと歩いていた。
ほんの十分ほどの間に起きたことが、ケリーの頭の中でぐるぐると回り続けていた。
大佐がお父さんの話をしたとき、ケリーは間違いなく大佐のことを殺そうとした。心も体も、ただそのためにしか動いていなかった。でも、フリッツさんが部屋に入ってきたことで、その衝動は止められた。そして、さらに信じられないようなことを、ケリーは知った。
大佐に、家族がいること。
しかも、孫が生まれたばかりだということ。
前に、大佐を一人の人間として意識したときよりも、このことは衝撃だった。
当然、家族がいるかもしれないと思ったことはあった。でも、何年もこの町に住み、屋敷にはローラさんのようなお手伝いの人しかおらず、大佐の家族なんて見たことも聞いたこともなかった。
だから、ケリーは勝手に、大佐には家族がいないのだと思い込んでしまっていた。
しかし、手紙のせいで大佐から娘への、娘から大佐への愛情に触れてしまった。
新しい家族への深い喜びも、見てしまった。
これまで、ただ大佐一人を殺したかったケリーが、大佐の後ろにある、大佐と繋がる他の命を知ってしまった。
もし大佐を殺してしまえば、お父さんを失った自分のように、手紙のアリスさんは悲しみ、殺した自分を恨むだろうか。
さらに言えば、大佐の身の回りの人たちはどう思うのだろう。
フリッツさんやローラさん、メイドのお姉さんたちは、殺してしまいたいほど、恨んでくるだろうか。
考えた途端、全身が寒くなった。
誰かに、鋭い刃物を突きつけられる自分を想像すると、怖くてしかたがなかった。
傘に容赦なく落ちてくる雨の音が、自分を責めているようで、苦しかった。丘を下る坂にさしかかったところで、足がもつれて転んでしまった。
チリンッ
首飾りが高い音を鳴らした。そのきれいな音が、ケリーの中にあった最後の壁を、静かに壊した。
体中に雨粒を浴びて、膝がズキズキと痛んだ。ケリーは四つん這いになったまま、立ち上がろうとはしなかった。地面を見つめて体が震え、歯がカチカチと鳴った。
ただ一人の人間を殺そうとしているのではなく、誰かのお父さんを、おじいちゃんを、尊敬する人を、奪おうとしていた。
そんな自分が恐ろしくて、たまらなくなった。
ケリーは泣いた。
けれど、涙は雨に流されて、声は雨音にかき消されていった。
全身ずぶ濡れのまま、ケリーは町の中を歩いた。傘はただ肩に乗っているだけで、柄を掴む手には力が入っていなかった。
だから、少しの風であおられて、雨からケリーを守る役目をほとんど果たさなかった。
ケリーがそれでも傘を離さなかったのは、おとなりに借りたものだということが、頭の隅に残っていたからだろう。
ケリーは、ずっとうつむいて歩いていた。
濡れた石畳の上を、爪に泥が詰まって黒くなった足が、ゆっくりと進んでいた。なにも考えず、ただ自分の足を見ていた。どこをどう歩いているのかも、分らなかった。
だから、後ろから走ってくる足音なんて、聞こえなかった。
いや、たとえ聞こえていたとしても、自分に向かってきているなんて、思いもしなかった。
ケリーは給料の入った巾着袋を、ズボンのポケットに入れていた。だから、右側のポケットだけ膨れていたし、重たくて、歩くたびにジャラジャラと音がしていた。
そのポケットが急に引っ張られたかと思うと、今まであった重みが消え、引っ張られた反動で、ケリーは勢いよく地面に倒れてしまった。
一瞬、なにが起きたのか分らなかった。
でも、雨の中を走り去っていく人影を見ると、自分の状況を理解できた。途端に、焦りと怒りと悲しみが、ケリーの中を駆け巡った。
「ド、ドロボー! まて! ドロボー!」
激しさを増す雨の中には、他に人の姿はなかった。ケリーの声は雨に吸い込まれ、泥棒の姿も見えなくなった。
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