第16話

 雨が町を濡らすこの日、ケリーは朗読員になって一ヶ月を迎えた。


 暗い空と違って、ケリーの心は明るかった。


 ついに、初めての給料をもらうことができるのだ。選考会は先月の終わりに行われ、ケリーが働き始めたのはちょうど月初めだった。

 だから、ちょうど一ヶ月が経ったこの日、ケリーは生れて初めて自分で稼いだお金をもらうことができる。


 この一ヶ月、朝はこの町の新聞から、聞いたことがないような町の新聞まで、たくさんの新聞を読んだ。さらに昼は『無人島冒険記』をはじめ、本を三冊も朗読した。


 大佐がケリーに読ませる本は、すべて物語だった。


 本をあまり読んだことがなかったケリーだったが、大佐が読ませる本はどれも面白くて、朗読が楽しみになっていた。そして、ジャックとまだ外出禁止中のエミリーに、その日読んだ本の内容を話すのが、楽しくてしかたがなかった。


 トニーは、『無人島冒険記』は面白がっていたのに、他の本にはあまり興味がないようだった。本人が言うには「やっぱり本は苦手」なんだそうだ。


 ケリーは、おとなりのおばさんに借りた傘を広げて、大佐の家に向かっていた。傘に当たる雨が、なんだか陽気なリズムに聞こえて、ますますケリーの心は踊った。


 これで、少しはお母さんが楽になる。


 そう思うと、ケリーは嬉しくてたまらなかったのだ。


 お父さんが死んでから、どんどん痩せていったお母さんが、自分のためにどれだけ無理をしてきたのかをケリーは知っていた。だからこそ、毎日お昼をもらって帰ったし、今回もらうお金も全部お母さんに渡すつもりでいた。


 これで、今までよりも仕事をしなくて済むかもしれない。


 そうなれば、一緒にいられる時間だって増える。

 お母さんは喜んでくれるだろうか。


 ケリーは、まだ大佐の家にも着いていないのに、もう帰ってからのことを考え始めていた。


 大佐の家に着くと、メイドのお姉さんが玄関で待っていてくれて、足を拭くタオルを貸してくれ、傘を預かってくれた。


 メイドのお姉さんたちは、ときどきケリーのことをからかってくるけど、いい人で、きれいな人たちばかりだった。傘を渡すときも、わざとくっつきそうなほど顔を近づけたので、ケリーは慌てて後ろに下がった。

 おかしそうに笑うお姉さんにドキドキしながら、ケリーはいつも通り大佐の部屋に向かった。


「失礼します」


 部屋に入ると、大佐はニコニコしながら待っていた。


「おはよう、ケリーくん。今日は、待ちに待った給料日だね」

「は、はい。そうです」

「うむ。正直に言って、きみは私の想像した以上に賢い子どもだった。本にもとても興味を持ってくれているしね」


 大佐は、変わらず嬉しそうにニコニコしていた。


「はい。朗読をしていて、本が好きになりました」

「そうか! それは良かった。いや、こちらが嬉しいくらいだよ。読んでもらう甲斐がある。お金は帰るときに渡すから、そのつもりでいてくれ。いや、なんだか給料を払う身なのに、私も今日が嬉しくてね。さぁ、話が長くなってしまったな。さっそく、今日の新聞を読んでもらおうか」

「はい」


 ケリーが机の上に置かれた新聞を手に取ると、湿った紙が、手をしっとりと包んだ。新聞を開きながら、ケリーは大佐の顔を盗み見た。大佐はまだ嬉しそうに微笑んでいて、ケリーの朗読を聞いていた。


 一体、なぜ大佐が嬉しそうにしているのか、ケリーには分からなかった。大佐の様子に疑問を抱きながら、ケリーは新聞の朗読を続けた。


 新聞を読み終わると、いつも通りローラさんたちが大佐を迎えに来た。


 ケリーは、まだ大佐と二人で食堂に行けずにいた。大佐を連れて行くことは、ローラさんたちの決められた仕事らしく、なかなか自分一人で連れて行くことを言い出せなかった。


 食堂に降り、ケリーがスープを飲んでいると大佐が口を開いた。


「ところで、ケリーくん。今日は、本の朗読はどうするかね? せっかくの給料日だ。今日はやめにして、早く帰ってもかまわんよ?」


 大佐は相変わらず上機嫌だった。


「おや、もう一ヶ月経つかね。はやいねぇ」


 ローラさんが目を細めて言った。


「いえ、今日も読みます。今日から新しい本ですし、もっとたくさん本を読みたいです」


 ケリーの言葉に、大佐はますます嬉しそうに笑った。


「そうか! いや、きみが本を好きになってくれて私は本当に嬉しいよ。それじゃあ、今日の本を選ばないとな」


 大佐は、まだかすかに湯気が上がる紅茶を飲みほすと、杖を取って立ち上がった。

 メイドのお姉さんが支える前に、いつの間にか大佐のとなりにいたフリッツさんが、大佐にそっと手を貸した。


「うむ。ありがとう、フリッツ」

「いえ、当たり前のことです」


 大佐は、杖で床を叩きながら進んだ。ケリーの横まで来たとき、まるで見えているかのように立ち止まって、巻かれた布の目でケリーを見ながら言った。


「では、私は部屋で本を選んでいるよ。食事が済んだら来なさい」

「はい、分かりました」


 ケリーが返事を返すと、大佐の後ろにぴったりとくっついていたフリッツさんも、ケリーを見ながら口を開いた。


「ケリーくん。そんなに本が好きになったのなら、どうして言ってくれなかったのかね? また私の本を貸してあげよう」

「え! あ、あの今日は雨が降ってるから、濡れちゃうといけないし。また今度貸してください」


 ケリーは、ぎこちなく笑って答えた。前にフリッツさんから本を借りたことを、すっかり忘れていたのだ。


「ふむ。確かに今日は難しいな。では、今度晴れた日に貸してあげよう」


 そう言い残すと、フリッツさんは大佐と一緒に食堂を出て行った。


 ケリーはなるべく早く食事を済ませると、大佐の部屋まで急いだ。急いだといっても、大佐を待たせないように急いだのではなかった。早く次の本が読みたくて楽しみで、自然と体が動いたのだ。


 ケリーが部屋に入ると、机の上には見たことのない本が置かれていた。


「さぁ、今日はこれを読んでもらおう。『バイオリン弾きのルーシェ』だ。確か、これで四冊目かな? この本も、私が大好きな本だ。さぁ、読んでくれ」

「はい!」


 表紙を開くと、ドキドキした気持ちを抑えながら、ケリーは朗読を始めた。ケリーの声と雨音が、まるで音楽のように流れていた。


 毎日朗読をしていくうちに、ケリーは本を読んでいると、連なった文字の向こうに物語の光景が広がって見えるようになっていた。


 ケリーが読み進めれば、目の前の登場人物が動き回り、風景も変わっていく。まるで物語の世界に入り込んでいるような感覚になりながら、朗読をするようになっていた。


「うむ。ちょうど、キリのいいところにきたな。今日はここまでにしよう」


 大佐の声に、ケリーは物語の世界から引き戻された。本の中で、主人公ルーシェの演奏するバイオリンに酔いしれていたケリーは、頭の中に余韻を残しながら、慌てて大佐を見た。

 大佐は、机の引き出しを開くと濃い紅色の巾着袋を取り出した。


「さぁ、受け取りたまえ。きみの初めての給料だ」


 大佐が袋を机に置くと、金属の重たい音がした。それだけでも、中にはケリーが見たこともないような大金が入っていることが分かった。


 ケリーは、巾着袋を恐る恐る持ち上げた。手にずっしりとした重みがあり、ぐっと腕に力をこめた。


「ははは、重たいかね? それはそうだろう。その中には、この一ヶ月の君の頑張りが、形となって詰まっているのだから。開けて中を見てごらん」


 巾着を開くと、中には金貨が一枚、銀貨が四枚、銅貨十五枚も入っていた。


 王国では、銅貨が五十枚で銀貨一枚と同じ価値になり、銀貨二十枚で金貨一枚と同じ価値になる。

 金貨は最も価値があり、ケリーは生まれて初めて目にした。


 それだけに、ケリーはお金の多さが不思議だった。お母さんがこの三分の一もお金をもらっていれば、今ほど貧乏な暮らしではないはずだと思ったのだ。


「あの、僕がもらえるお金って親の三ヶ月分なんですよね? 僕のお母さんのお給料を三倍しても、こんなにあるとは思えないんですが」


 視界の端に硬貨の輝きを見ながら、ケリーは大佐に聞いた。


「うむ。確かに、きみのお母さんだけならばこのお金は多すぎるだろう。だが私もね、きみのことをよく知ろうとしたのだよ。つまりは、きみのことを調べたわけだ」


 大佐は、例のニコニコ顔を少しだけくもらせた。


「きみには、お父さんがいるだろう。戦争で亡くなってしまったそうだが、この町一番の漁師だったそうじゃないか」


 ケリーはカッと顔が熱くなった。


 真新しい巾着を、しわができるほど握りしめた。


 まさか、大佐の口からお父さんの話が出てくるとは思わなかった。


「……はい、そうです」

「うむ。元々敵であった私が、きみのお父さんのことを口にするのは不謹慎かもしれない。すまないな」


 話しながら、大佐の顔からは嬉しそうな笑顔が消えていた。代わりに、口元には優しさのこもった微笑みが浮かんでいた。


「きみも知っているかとは思うが、私はこれまでこの町が負った戦争の被害を補償し、復興に努力してきた。朗読員の募集は、そのひとつでもあるのだ。だから、きみを特別扱いしているわけじゃないのだよ。たとえ、きみ以外の子どもでも親御さんが亡くなられていた場合、ちゃんと両親分の収入を計算することになっているんだよ。きみの給料は、お母さんの今の収入とお父さんが健在だったときのものを計算している。なにも遠慮することなく、受け取りなさい」


 話を聞きながら、微笑む大佐をケリーは鋭く睨みつけていた。顔は真っ赤になり、まばたきを忘れた目には涙が溜まっていた。


「僕は!」


 自分でも聞き取れないほど小さく、かすれた声がケリーの口から這いずり出た。

 それと同時に、右手がポケットに素早く入り、銛を掴んだ。

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