第15話

「失礼します」


 部屋にはフリッツさんの姿はなく、大佐一人だった。大佐は、朝と同じように椅子に座り、ケリーを待っていた。

 朝と違うのは、机の上に新聞ではなく本が置かれていることと、真上に昇った太陽の熱い光だけだった。


「うむ。ちゃんと力はつけたかね? では、ケリーくん。この本を朗読してもらおうか」


 大佐は、まるで見えているかのように机の上に置かれた本を指さした。


 本は、日焼けした緑色の表紙で、レンガくらいの厚みがあった。ケリーが手に取ると、新聞にはない、ずっしりとした重みがあって、古い紙の匂いが漂ってきた。


「あの、これは何の本なんですか?」

「それは物語だよ。私のお気に入りでね」


 ケリーは表紙に書かれた題名を読んだ。『無人島冒険記』と書かれた文字は、色褪せていた。よく見ると、緑色の表紙にはうっすらと絵が描かれていて、一人の男がジャングルの中を懸命に進んでいた。


「この絵の男の人が、主人公なのでしょうか?」


 ケリーが聞くと、大佐は嬉しそうに笑った。


「そう! ケビンといってな。懐かしい、今でもその表紙がはっきりと浮かぶよ」


 大佐は、ケリーの頭の上を見るように顔を上げた。

 ケリーはなんとなく、布の向こうで大佐が目を細めているような気がした。かつて見た、思い出の中の絵を眺めているのではないかと思った。


「あの、どうしてこの本なんですか?」


 ケリーが声をかけると、大佐はケリーに向かって微笑んだ。


「その本はね、私がちょうど、きみくらいの年のときに初めて読んだんだ。面白くて、何度も夢中で読んだよ。しかし、今ではもう読むことはおろか、その表紙を見ることもできない。だから、きみに読んでもらうことで、当時の気持ちを思い出したいんだ。それに、目が見えなくなったからこそ、より鮮明に本の世界を想像できると思ってね」


 もし大佐の目が見えていたら、きっとキラキラと輝いた瞳で、自分のことをまっすぐ見つめているのだろうと、ケリーは思った。それほど大佐の声は弾んで、わくわくした気持ちが伝わってきていた。


「そうですか。じゃあ、さっそく読みます」


 大佐があんまり楽しみにしているので、ケリーは複雑な気持ちになっていた。

 大佐を喜ばせることは、あまりしたくはなかった。でも仕事だし、ここで信用を失ってはいけないと心の中で言い聞かせて、ケリーは本を開いた。


「『男は、いつも陽気だった。いつも笑顔で町を歩き、魚を売りながら歌をうたった。そんな彼には、もちろんたくさんの友人がいた。あの日、酒場で声をかけてきたダレン・ブラウンも親しい友人の一人だった……』」


 部屋の中には、朗読するケリーの声だけが静かに流れていた。大佐は、新聞のときみたいに考えるように聞いているのではなく、物語に聴き入っているようだった。


 大佐の様子を見ながら、ケリーは油断している今なら刺せるんじゃないのか? と思った。


 でも、大佐は下の階からやってくるローラさんの足音を聞くことができる。机の向こうから近づいても、すぐに反応されてしまって失敗するかもしれないと、ケリーは実行に移すのをためらっていた。


 そのあとも、この隙をどうにか利用できないかと考えていたが、すぐに考えるのをやめてしまった。

 

 理由は簡単。ケリー自身も物語に惹きこまれてしまったのだ。


 物語は、主人公のケビンが友人に誘われて、貿易をしようと海に出る。しかし、途中で嵐に襲われてしまい、ケビンは小さな無人島に流れ着く。そして、たった一人で知恵を絞り、無人島の厳しい環境で生き抜いていくという話だった。


 ケリーは、大佐の様子を見る余裕なんてすぐになくなって、夢中で朗読した。


 ケビンが無人島に流れ着いたとき、自分の不運を嘆くのではなく真っ先に友達の心配をしたのは魅力的に感じたし、たった一人でも変わらず明るく、無人島のサバイバルを生き抜いていく姿は、読んでいてすごく楽しかった。


「よし、今日はここまでにしよう」


 ケビンが無人島での初めての嵐を乗り越えたところで、大佐が口を開いた。


「え! まだ終わってないですよ。それに、せっかくいいところなのに」


 ケリーは不満たっぷりに言った。無人島での嵐を乗り越え、また一つ成長したケビンがこれからどうなるのか、気になってしかたなかったのだ。


「ふふふ。きみが続きを気になる気持ちはよくわかる。しかし、全部読んでいては夜になってしまうぞ?」


 大佐に言われて、ケリーは初めて窓から金色の光が注いでいることに気がついた。時間が経つのをこれほど早いと感じたことはなかったし、これほど自分が朗読に集中していたことに、心底驚いた。


「私も、きみがそれほどこの本を気に入ってくれて嬉しいよ。朗読も一度も詰まらなかったし、とても熱がこもっていたからね。当時の気持ちが、きみの声を通じてとても鮮明に蘇ってきたよ」


 大佐は嬉しそうに笑っていた。


 ケリーは、殺すつもりの大佐をここまで喜ばせてしまったことと、目的を忘れて本に夢中になってしまった自分を悔しく思った。でも、頭の中は物語のことでいっぱいになっていて、悔しさはすぐに薄れていった。


「分かりました。残念だけど、今日は帰ります」


 ケリーはしぶしぶ答えた。


「続きが気になるのだろう? これからを楽しみにしてなさい。ただし、そのことで頭がいっぱいになって、他の仕事が手につかないなんてことがないように。いいかね?」

「はい。気をつけます」


 ケリーが返事をすると、大佐は少し恥ずかしそうに言った。


「まぁ、おろそかになってしまったとしても、あまり強くは言えんがね。私も昔、そうなってしまったからな」


 大佐の部屋を出て、廊下で会ったローラさんとメイドさんに挨拶をすると、ケリーは玄関の大きな扉を開いて外に出た。


 もうすっかり外は夕方だった。

 外に出ると、涼しい風が体を撫でた。


 息を吸うと、さわやかな空気が草の匂いと一緒になって体中に広がった。フリッツさんには会うことなく、ケリーは丘を下り始めた。ケリーの足取りは軽く、頭の中は本のことでいっぱいだった。


 あのあと、一体どうなるんだろう。


 ケビンは無事に無人島から脱出できるのだろうか。色々妄想を膨らませていたとき、不意に後ろから声をかけられた。


「よっ! お疲れさん」

「うわぁ! な、なんだ、トニーか」


 振り返ると、軍服姿のトニーが夕日をバックに立っていた。


「おいおい、なんだとはなんだよ。朗読員殿」


 トニーはわざとらしく、口をとがらせた。


「ごめん、ごめん。ちょっと考え事しててさ」

「ふーん。仕事でなんかあったのか?」

「何かあったってわけじゃないんだけどさ、聞いてよ!」


 ケリーは、『無人島冒険記』がどんな話でどれほど面白いかをトニーに話した。ちょうど、誰かに話したくてうずうずしていたから、ケリーの話にも自然と熱がこもった。


「へー。そんなに面白いのか。俺は知らなかったな、そんな本。大佐が子供の頃に読まれたんなら、本国のものだろうけど」

「トニーは本とか読まないの?」

「うーん、俺は体動かす方が好きだからな。俺が朗読員になったら、一日でクビだな」


 笑いながら話すトニーを見ながら、なんだかトニーは、本の中のケビンに似ているなとケリーは思った。ふと、無人島で暮らすトニーを想像してしまって、おかしくなった。


「うん? どうした?」

「い、いや、なんでもないよ」

「ならいいけどな。そうか、今日は本を読んでたから遅くなったんだな。もう、夕方だから、暗くならないうちに帰るんだぞ」

「うん、ありがとう。トニー」

「それと、その本読んだら俺にも内容教えてくれよ。あんなに熱心に語られちゃあ、続きが気になる」

「あはは。もちろんだよ」

「よろしくな。じゃあな、ケリー」


 トニーと別れたあとも、ケリーは本の続きを想像しながら帰った。ただ、ケリーの中でケビンのイメージがトニーになってしまったので、想像していると、ときどきおかしくなって笑ってしまった。


 家に着くと、お母さんはまだ帰ってはいなかった。


 ケリーは部屋に入ると、木箱を開けて首飾りを大事にしまった。そして、ポケットから布に包まれた銛を取り出すと、少しだけ解いて黒く光る切っ先を見つめた。


見つめながらケリーは、今日のことを考えた。


 昼食前に、大佐に近づけたことを思い出すと、心臓がドキドキしてきた。どうにかして、二人で食堂に行くことになれば、大佐を殺すチャンスは十分にある。


 しかし、そんな期待をしていると、本を読んだときに見た嬉しそうに笑う大佐の姿が浮かんできた。

 

 今まで、統治者としての大佐の姿しか見たことがなかったから、あのときの大佐は少なからずケリーにとって衝撃だった。しかも、きっと大佐は子供のとき『無人島冒険記』を読んで、自分と同じようにわくわくしていたはずだ。そのことを思うと、大佐への殺意にもやがかかってしまう。


 銛を持つ手が、かすかに震えはじめた。


 でも、ケリーの決意は固かった。


 一度大きく息を吸いこむと、口から思いっきり吐き出した。それだけで、震えは跡形もなく消えていた。


「僕は大佐を殺す。これは絶対だ。とりあえず、今は時間が必要だ。なんとかして、昼食に行くとき、二人になれるようにしないと。そのためには、もっともっと信用されないといけない」


 ケリーは呟くと、ベッドに腰を下ろして天井を見上げた。

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