第2話

「ただいま! おかあさん!」


 ケリーの家は、海に続く細い通りにある石壁の小さな家で、お母さんと二人で暮らしている。

 お母さんは家事をしながら、元々漁師だったお父さんの伝手で、早朝から市場で魚を売りながら生活を支えていた。だから、お昼にお母さんが家にいることはほとんどなかった。一緒に過ごすことができる休日は、二人にとってかけがえのないものだった。


「あら、おかえりなさい。どうしたの? そんなに慌てて。あ、お昼ごはんね!」


 ちょうど、お昼ごはんの支度をしていたお母さんは、卵を片手に持って、振りむきながら言った。


「大丈夫よ。まだできてないわ。そんなに慌てなくても、ちゃんとケリーの分はあるから」

「おかあさん、今、広場の掲示板に、すごい仕事が載ってるんだ!」

「あら、ほんと? どんなお仕事なの?」


 息を切らしながら話すケリーに、お母さんは笑いながら持っていた卵を割って、フライパンに落としながら聞いた。


「丘の上の、大佐に、毎朝新聞を読むんだ! きれいな声の、男の子をさがしてるって! 僕、歌がうまいって、声がきれいって、おかあさん言ってたよね? だから、僕その仕事、やってみようと思うんだ!」


 徐々に息づかいが戻ってきたケリーは、お母さんに仕事の内容を説明した。お母さんは、フライパンの卵をかき混ぜながら聞いていた。


 ケリーにはお母さんの背中しか見えなかったので、話を聞いているお母さんの顔が、険しくなったことには気がつかなかった。


「はい、できたわよ。席に着いて、ケリー」


 この日のお昼は、スクランブルエッグとミルクとパンが一切れづつだった。


 ケリーは返答がないことを不満に思いながらも、しぶしぶ席に着いた。


「さぁ、食事前のお祈りよ。お母さんがいないときもちゃんとしてた? はい、目を閉じて」

「ねぇ、おかあさん」

「こら、お祈りはちゃんとしなさい」


 お祈りが終わると、いつもは真っ先に食べるケリーも、今回はお母さんを見つめて話しかけた。


「おかあさん、さっきの話だけど」

「ケリー、あなたは働くことないの。お母さんが頑張って働いて、もっともっと、美味しいものを食べさせてあげるから。あなたは気にしなくていいの」

「でも、おかあさん毎日つらそうだもん! 新聞を読むくらい、なんてことないよ! お金だってたくさんもらえるんだし」

「ケリー!」


 突然、お母さんが声を荒げてケリーの言葉を遮った。こんなお母さんを見たことがなかったので、ケリーは驚いて目を丸くした。


「ごめんなさい。気持ちは嬉しいのよ。でもね、あなたはそんなことしなくていいの。わかってちょうだい」


 お母さんは、怒鳴ったことに罪悪感を感じながらも、早くこの話を終わらせたいと思っていた。

 でも、ケリーも引き下がるわけにはいかなかった。どうしてもあの仕事がしたかったのだ。本当に、どうしても。


「おねがい! 家族は力を合わせるものだって、おとうさんも言ってたじゃん!」


 ケリーの一言で、お母さんの顔は強張り、言葉に詰まった。いつもは明るく振舞っているものの、ケリーがそうだったように、お母さんにとってもお父さんの死はひどくショックなことだった。

 普段も、お父さんの話題になると悲しそうな顔をするし、今の仕事も実際はとても辛くて、どんどん痩せてきていた。そのせいか、今のお母さんは顔色がとても悪く見えた。


「そうね、そう言ってたわね。でも……あぁ、どうしたら」


 ケリーには、お母さんがこの話に反対する本当の理由がわかっていた。


 お母さんは、大佐が嫌いなのだ。


 お父さんを殺した敵である大佐が。


 確かに、大佐による町の統治は良く、砲撃で崩れた港の修理や、盗賊退治なども迅速で、戦後の乱れた暮らしは他と比べても早く回復していった。

 そのことについては、お母さんも評価しているし、感謝もしている。しかし、頭では大佐を認めても、心が大佐を許さないのだ。


 お父さんは、町でも腕っ節の強い漁師として有名だった。まだ小さかったケリーは、お父さんが世界で一番強いと信じて疑わなかった。でも、戦争に行ったお父さんは大佐が率いる船団との戦いで命を落とし、二度と帰っては来なかった。

 それ以来、お母さんは大佐を心のどこかで憎むようになっていた。いくら時間が経とうと、大佐が町に貢献しようと、その気持ちが消えることはなかった。


「おかあさん。おとうさんが死んで、おかあさん、ずっと僕のために働いてくれたよね。でも、もう僕だって働けるんだよ。大佐だって、怖くないよ。僕もおかあさんのために、なにかしたいんだ。だから、心配しないでよ」

「あぁ、ケリー!」


 お母さんは、椅子から立ち上がると、ケリーの体をぎゅっと抱きしめた。小さな声で「ありがとう」と何度もささやくと、涙を流したまま、ケリーの頬に優しくキスをした。


「ありがとう、ケリー。あなたが、そこまで考えてくれていたなんて。わかったわ、明日の朝、選考会にいってらっしゃい。ちょうど、おとなりさんがあなたに、新しいお洋服をくれるって言ってくれたの。それを着て行きなさい」

「大佐は目が見えないんだから、服なんて関係ないよ」


 ケリーが答えると、お母さんはふふっと笑った。


「大佐は関係ないの。町中の男の子が集まるんでしょう? その中で一人だけ汚い格好だったら、ケリーが笑われちゃうわ」


 言い終わると、お母さんは、もう一度ケリーを抱きしめた。


 温かくてやわらかいお母さんの抱擁に、ケリーも背中に手を回して応えた。


「さぁ、お昼ごはんを食べましょ。早くしないと冷めちゃうわよ」

「うん」


 スクランブルエッグを食べながら、ケリーはお母さんの顔を覗き見た。そして、心の中で「ごめんなさい」と呟いた。

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