第6話
「零音」
木曜の放課後。バスケ部は本来オフ日だけど、自主練という名目でボールを操っていた私に突如掛けられた声。
振り向いたそこにいた人物に、思わず声を上げそうになった。だって…そこにいたのは、紛れもない水鏡悠也君だったのだから。
「...何。そして誰」
「外部入学して来た水鏡悠也。一応、ポジションはPF」
「...ああ、そういえば碧が言ってたっけ。この桜楼に推薦で来たPFがいたって」
…嘘。本当は、全部知ってる癖に。
「桐崎さんから、他には何て聞いた?」
「...まあ、碧もそこまで詳しくは教えてくれなかったけど。でも、昨年全中で準優勝した、城開墾中学校の天才PFだって事は聞いてる」
目の前の彼の表情が、少しだけ歪むのが分かる。…やめてよ、そんな顔を見たい訳じゃないんだから。
「...確か、ウチ以外からも沢山推薦来てたんだよね?全国四位のウチよりも強い所だってアンタを指名してたはずなのに、アンタはわざわざこの桜楼を選んだ。...それで、そんな期待の星が、私に何の用...」
「零音...覚えてないのか?昔、小学校に入る前に、いつも一緒にバスケをしていた事。いつも2人でボールを追って、互いの技術を研鑽し合って...。...日が暮れるまでずっとボールに触ってた事、覚えてないのか?」
…覚えてて、くれたんだ。でも、もう私は…。
「まさかとは思ってたけど、やっぱりアンタだったんだね」
…あ、声掠れた。気付かれたかな。
「まあ、水鏡悠也なんて難しい名前、他にいる訳ないか。…じゃあ、私の元相棒って事で言わせてもらうけど...今後一切、私に関わらないで」
…こんな事が言いたいんじゃないのに。また一緒にバスケがしたいのに。心の奥底に閉じ込めた幼い私が、痛い痛いと泣き喚くのが聞こえた。
「確かに、水鏡には感謝してるよ。実際、アンタと二人でやるのは楽しかったし、一緒にプレーしてなかったら、今頃私が天才なんて呼ばれる事も無かっただろうし」
違う。悠也君は道具なんかじゃない。こんな事、思ってもないのに…何で、こんなに簡単に冷たい言葉が出て来るの?
「でも、今の私のバスケに、元相棒の...アンタの存在は必要ない。...人間は変わるんだよ。アンタみたいに、いつまでも昔に執着なんていられない。昔がどうだろうと、今私の隣にいるのは碧。バスケでも、人間としても、一緒にいたいのも碧。 ...碧以外の人なんて、絶対に有り得ないから。」
例え、かつて一緒に名を馳せた相手でもね。
気が付けば、震える声でそれだけ言い残して、私は走り去ってしまっていた。どれだけ走ったかも分からなくなって座り込めば、堰を切ったように涙が溢れ出しては頬を伝って行く。
さっきまでうっすらとしていたはずの雲は、今で分厚くなって空一面を覆って、初夏の夕方の光を遮っていて。
…ここ、体育館下の、柔剣道場前かな。抑えられない嗚咽がこんなに響く場所、他に考えられないや。
「…零音?」
聞き慣れた声に顔を上げれば、特徴のある茶髪とリングピアスが泣き腫れた私の双眸とかち合う。…ああもう、こんな所を見られるなんて。
「碧…」
「…どうしたんだよ、泣いたりして…って 訊いちゃダメだろうな、ごめん」
「…良いの。私が勝手に傷付いてるだけだから」
「…水鏡、か?」
「…」
返事に困って視線を逸らせば、不意に柔らかな温もりが私を包み込む。…ああ、今、私…抱きしめられてるんだ。…ねえ、碧。
「…碧は、何でそんなに優しいの…?」
「ん?」
「…今回に限った事じゃない。いつも私の傍にいてくれて、どんなに私が悪くても優しくしてくれて。…何で、私を叱ったりしないの?今回だって…悪いのは私なのに」
「…」
碧は、少しの間黙っていたけど…おもむろに私を立たせると、その骨ばった大きな手で私の頭を優しく撫ぜた。
「…ッ!?
「…理由なんて無ェよ。俺は零音が好きだから、いつだってその気持ちを持って接してる。…好きである事に対価なんて無いだろ。俺が勝手にやってる事だ」
「でも…」
「それに、零音は気負いすぎなんだよ。確かに、零音と水鏡の過去に俺は立ち入れねえ。…けどな、今…零音は俺と付き合ってくれてるだろ。…だからだよ。俺だって、他の男に泣かされてる恋人なんて見たくねえ」
「…ッ」
「…俺は、零音の過去を知らねえけど…その代わり、今の零音に寄り添う事は出来る。決めるのは零音だぜ。過去を見続けるか、現在に向き合うか」
なんて言いながら、碧は歪み始めて行く景色に視線を移す。
ぶっきらぼうに紡がれた言葉も、いつの間にか絡められた指も、不思議と心地よくて。…きっと、胸の奥に広がってる温かい何かは…。
「う…ッ、ううっ、碧…」
遠ざかっていく足音に気づかないふりをして、私は愛しい人の胸に溢れる涙を隠した。
ごめんなさい、悠也君。約束、守れなくてごめんね。
私は…この人と歩んで行きます。
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