第8話
一礼を交わして面を取ると、それまで黙っていた雅音先輩が
「一葉ぁ!流石やあ!」
と抱きついてきた。
「うちは『絶対勝ってくれる』って信じとったで!うちの可愛いマネージャーやさかい!流石やあ!」
「ちょ…雅音先輩、苦、じ………」
「これでうちも心おきなく剣道部を離れられるわあ!こないに強いマネージャーがおったら、剣道部は安泰やもん!偉いで一葉!ほんまに凄いで!」
「……雅音さん、そろそろ離してあげたらどうですか。夢咲も苦しそうですし」
無愛想な悠馬先輩の言葉に、雅音先輩は
「…せやね」
と、しぶしぶながら私の首から手を離す。
でも、まだどこか拗ねたような表情が浮かんでいるのを見ると、悠馬先輩は溜め息を一つついて
「…雅音さん、そういえばさっき携帯鳴ってましたよ。また夜桜先輩に断わらないで剣道場に来たんじゃないですか?」
と、道場の隅を顎で示した。
「え、ホンマ!?…アカン、すっかり忘れとったわ…!うち、先帰っとるで!一葉、片付けよろしゅう!」
隅に寄せておいた荷物を掴んで、バタバタと慌しく剣道場を出て行く雅音先輩と、二人だけが残る道場に訪れた、遠ざかって行く足音と束の間の静寂。
階段に差し掛かった雅音先輩の背中を見届けると、悠馬先輩はゆっくりと視線をこちらへ移す。さっきまで敵意をぎらつかせていた黒い双眸は、今では穏やかな光を灯して私を映していて…。
「夢咲」
「…何、ですか」
「……俺、ずっとショックだったんだ。去年の秋、雅音さんと夜桜先輩が付き合い出したって聞いた時から。…俺は雅音さんの事が『異性』として好きだったけど、雅音さんは俺の事『後輩』としか見てくれなかったから。たった一歳しか違わないのに、でもどう足掻いたって俺は雅音さんの『後輩』でしかなくて…。…結局、好きな人の想いが自分に向かなかったのが悔しかっただけなんだ。俺の方がずっと長く雅音さんを想っていたはずなのに、夜桜先輩はあんなにも容易く雅音さんを奪って行ったから。…でも、もう良い。雅音さんが幸せなら、俺はそれで十分だ」
途切れ途切れに言葉を紡いで、悠馬先輩はふっと息をついた。どこか寂しそうに浮かべられた笑みは、雅音先輩との日々を懐かしんでいるようにも見えて…。
でも、そんな愁いを帯びたのも束の間、悠馬先輩は視線を戻すと「…それに」と再び口を開いた。
「こんな醜い男に、真っ直ぐに気持ちをぶつけて来た、馬鹿な女の言い分もあるしな。…実は俺、昔…ソイツの事が好きだったんだ。初めて俺が優勝した全国大会で、ソイツの剣道を見た時から…。でも、それ以来ソイツと会う事もなくなったし、高等部に進んだ俺は雅音さんと出会って……好きになった」
「……」
「…だから、今年ソイツが桜楼に来たって聞いた時は、本当に驚いた。正直に言えば嬉しかったけど、ここまで堕落した俺を見てほしくはなかった。かつての『策略家』がここまで落ちぶれたなんて、ソイツに知られたら愛想尽かされそうだったからな。…なのに、こんな身勝手な理由で休部した俺に、ソイツは『戻って来てください!』って言ったんだ。…他の奴らはみんな俺の事を良く思ってなかったのに、ソイツだけは…。だからなんだろうな。周りに流されないソイツの熱意と強さは、俺が持っていない物だったから。…そして、俺はソイツに沢山の事を教えてもらったから…今度は、俺がソイツの気持ちに応えてやらねえといけねえしな」
「……え」
悠馬先輩の言葉に、一瞬だけ呼吸が止まる。…それって、もしかして……。
「…お前の事だよ、夢咲」
唸るようにそれだけ吐くと、悠馬先輩はゆらりと無造作にこちらへ歩み寄って来る。叩かれる、なんて思ってぎゅっと目を瞑ったけど、いつまでも予想していたような痛みが来る事は無くて。代わりに感じたのは、ふわりと私を包み込む、優しい温もりで。
…目を開けると、視界を彩る赤いフレームを隔てて、悠馬先輩の真っ直ぐな黒髪が映った。ああ、私、悠馬先輩に抱き締められたんだ…と数秒送れて理解すると、悠馬先輩は「…なあ、夢咲」と首元に頭を埋める。
「俺、お前のせいで剣道部に戻んなくちゃいけなくなったんだけど……どうしてくれんの?」
「…支えますよ。後輩としても、マネージャーとしても…彼女としても」
私の言葉を聞いて、フッと優しい笑みを零す悠馬先輩。
骨ばった大きな手が、私の髪を柔らかく撫ぜた。
Fake 槻坂凪桜 @CalmCherry
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