第7話
きっかけは偶然だった。あの日、全国大会の決勝で、『彼』の剣道を目にしたから。
「胴ッッッ!」
「…ッ!」
鋭く発せられた声。
大きく空振る剣先。
そして、広い道場に木霊する残響。
…いつか見た、『策略家』の剣道が瞼の裏をよぎる。それは、目の前の『彼』のように飄々としていて、でもどこか熱烈的でもあって。
…そして、面の奥でぎらつく敵意は、相変わらずこちらを鋭く睨みつけていて。
瞬間、私の脳裏には、かつて交わした『先輩』との会話が蘇った。
『あ、夢咲ちゃん、ちょっと待って』
地区総体の前日。玄関で私と鉢合わせた夜桜先輩は、歩き出そうとしていた私を呼び止めると、突如
『これは、胸の内に仕舞っておいてもらいたい事なんだけど』
と、柔らかかった表情を真面目なものに一転させた。
『…ここだけの話、なんだけどさ。佐伯君…実は雅音の事が好きだったみたい』
『……えっ』
『だから…去年の秋に、僕と雅音が付き合い始めたから。その衝撃で部活に来なくなったって、剣道部の男子の主将に聞いたよ。…そこまでして雅音に会いたくなかったんだろうね。部活に行かないなら、雅音と顔を合わせずに済むから』
『…そんな……』
『雅音には言わないでね。あの子、ただでさえ自分を責めてるんだから』
その言葉と共に、夜桜先輩は儚げに笑った。
…どうしてだったんだろう。見慣れたはずのその笑顔は、何故か痛々しく浮かべられたように見えてしまって。
気付いたら、私の口は『あの』と勝手に言葉を放っていた。
『ん、どうかした?』
『…悠馬先輩は、雅音先輩の事が好きなんですよね。…夜桜先輩は、その事を知った時、悠馬先輩に対してどう思ったんですか?』
『…別に、どうとも思わなかったよ。雅音はあんな子だから、男女問わず色んな人に慕われるし。佐伯君の場合だって、雅音への尊敬が恋愛感情に発展したようなものだろうし。…でもね、いくら佐伯君が雅音の事を好きだからって、僕は雅音を離す気は無いよ。あの子、主将のくせにいつも危なっかしいから、僕が支えてあげないといけないしね。…それに、そんな建前以前にも……』
『僕が好きなのは、雅音だから』
『丁度、うちと魁斗が付き合い始めた頃かいな。それまでうちん事姉みたいに慕うてくれとった悠馬がな、急に部活に来へんようになってん。…ほんま、どないしたんやろうね。可愛い後輩が突然休部したさかい、うちえらい心配したんやけど』
『…そうなんですか?』
『当たり前やん!悠馬かて一葉かて、うちからしたら後輩はみんな可愛いん。誰か一人だけなんて絶対にあらへん。誰か一人でも欠けたら、桜楼剣道部は成り立たへんさかい』
いつも明るい雅音先輩が、初めて見せた寂しげな微笑。それは、見慣れた向日葵のような姿ではなくて、まるで月夜の徒桜のように儚げで…。
ふと小さく息を零すと、雅音先輩は
『…せやけど』
と、寂しそうに目を伏せて続けた。
『もうすぐ、うちら三年は引退になってまうさかい。うちらが抜けたら、二年生達が主力になって新体制築かなあかんやん…。こら、うちん我が儘になってまうけど、次の主将は悠馬に継いでほしいん』
『…え?』
『無理やとは思てんで。悠馬な、うちに「戻る気は無い」って言うて剣道部から離れて行ったん。…きっと、うちのせいなんやろなあ。うちがあんまり教えてあげへんかったさかい…。…でもな、やっぱしうちは悠馬しかいーひん思てん。剣道かて強いし、何より…悠馬、根は優しい子やさかい』
寂しげな表情を見せたのも束の間、雅音先輩は
『ほな!はよ帰ろか。遅なってもうたし、魁斗もきっと待っとるし』
と、いつも通りの大輪の花を咲かせる。…でも、当時の私には、その時の笑顔は悲痛なものにしか見えなくて。いたたまれなくなった私は、先を歩く雅音先輩の背中に
『あのっ』
と思わず声を掛けた。
『ん?どしたん?』
『……雅音先輩は…悠馬先輩の事、どう思ってるんですか?…もし、悠馬先輩が雅音先輩を好きだったら、雅音先輩はその想いに応えるんですか?』
『…そないな事、絶対にあらへん。確かに悠馬は大切な後輩やで。そやさかい、尚更悠馬にはちゃんと幸せになってほしいん…。…それに、相手が誰かて、うちは魁斗から離れる気なんてあらへんもん。確かにな、魁斗はあないな性格やし、紫織の方優先したりやらもようあんで。…やけど、ええんや。うちは、魁斗の隣におれれば、それだけでもう十分なん。…他の誰かなんて事、絶対に有り得へん。…やって……』
『うちは、魁斗が好きなんやもん』
はにかむように浮かべられた二人の微笑みは、今でも鮮明に私の脳裏に焼きついている。その姿はまるで…否、愛しい人を想う、初々しい少年少女の姿そのもので。
二人の仲は、きっと誰も裂く事は出来ないのだろう。似通った何かがあるから。支え合っているから。
そして、何より……。
お互いが、お互いを想っているから。
「面ッッッ!」
悠馬先輩の声で我に返った私は、振り下ろされる竹刀を慌てて自分の物で捌いた。
油断していた。かつて全国の頂点に立った悠馬先輩の前では、一瞬も気を抜く事は出来ないはずだったのに。
…剣先を交えながら、私は短く息を吐いた。
本当は、心のどこかで気付いていたのかもしれない。
何で、桜楼への入学を志したのか。
何で、マネージャーとして剣道部に入部したのか。
…何で、雅音先輩の話を聞いて、あんなに胸がモヤモヤしたのか。
それはきっと、あの時から…全国大会で『彼』に出会った時から、私がこの気持ちから目を背けてきたから。
貴方と同じように、私も『自分』から逃げて来たから。
「面ッッッ!」
私は、声と共に振り下ろされた竹刀を反射的に弾いた。
瞬間、露になるのは、面の下の突き垂。
そして、無意識のうちに前へと進む、私の足。
「突きッッ!」
鋭く発せられた声と共に、真っ直ぐに喉へと伸びる竹刀。
刹那、布越しに、でも確かに伝わる剣先からの手応え。
…貴方は、今でも雅音先輩を想っているのでしょうか。だから…彼女が引退しても、剣道部に戻って来てくれないのでしょうか。
雅音先輩は、貴方の幸せを願っていました。貴方にとっては、雅音先輩を想い続ける事が幸せなのでしょうか。
報われたいなんて、思っていません。貴方の道を阻むつもりもありません。
…でも、私は……。
「…一本、やね。一葉の勝ちや」
……悠馬先輩の事が、好きです。
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