ひとつの終焉の形
痛覚とは度が過ぎれば麻痺するものだということを知らなかった。自分が死ぬことは明白なまでに意識させられているのに、苦痛という観点では希薄だ。幽閉の日々の中で律華が経験してきたものがこんなものなのかと思うと、土御門家への怒りは殊更に膨れ上がっていく。
ただ、もう終わりだ。律華は神楽を打ち破った。彼女の八年は、ようやく報われた。
神楽に飼われるだけの形骸ではなくなった。ともすればそれは律華が神楽を越えたことを意味するけれど、彼女はきっと、私だけの力では成し得なかったことだと否定するのだろう。
困難は残されている。禍根なき終焉とは言えない。たとえそれが神楽による行為だったとしても、律華は大勢の人間の殺害に関与した。土御門宗絃の頭蓋を砕き、大勢の退魔師の首を刈り取ったのは他ならぬ律華の手だ。
その怨嗟は律華に寄せられる。彼女は心無い蔑視を受けるだろう。誰かが庇ってくれるかもしれない。或いは、かつてのように誰も味方してくれることなどないのかもしれない。
そこに関与できないことが、死を目前として抱いた唯一の心残りだ。
けれど、彼女なら大丈夫だろう。俺はもう何もしてあげられないけれど、律華の傍には葛白がいる。彼女自身も強くなった。俺と神楽の力を得た。理不尽に抗うための力だ。
誰かが彼女を迫害しようとするならば、彼女は正面から立ち向かうことができる。刃を交えることを好まずに、静かに逃げることだってできる。どうするかは彼女の選択によるのだとしても、彼女ならきっと、残された力を正しく使えるだろう。
何よりも、自分の幸福のために――
微かに聞こえていた律華の声が遠ざかり、いよいよ終わることを自覚した。
最期くらい彼女の顔を見たかったと未練を残しながら、俺は此の世から乖離した。
――
――――さん。
不思議なことに、声が聞こえる。律華の声だ。彼女に名前を呼ばれている。
途絶えたはずの意識が揺らめいていることに気がかりを抱きつつも、何より、彼女の呼びかけに応えたかった。唇を開き、腹の底に力を込めて喉を震わせた。
彼女の名を呼ぶ。たった二文字の言葉は、ひどく重たかった。
「志郎さん!」
鮮烈なまでに飛び込んできた彼女の言葉に突き動かされ、瞼を押し上げる。その瞬間は世界が停止したかのように静寂であり、数秒遅れてから音が取り戻された。光、色、匂い。世界を構築する全てが俺を包み込んでいるのだと理解するまでには、少しだけ時間を要した。
視界の中央に律華が映り込む。彼女ははち切れそうな笑顔を浮かべていて、その眦と頬はボロボロになっていた。どうして生き返ったのかは分からない。けれど、なぜ死んでいないのか思考を廻らせるよりも先に、とある言葉が口を突いた。
「ただいま」
「お帰りなさい、志郎さん」
背中を支えてもらって体を起こし、額に浮かんだ汗を拭おうとして手探りで異形を認めた。
「……律華、もしかして俺は神楽から奪った妖力によって生き返ったのか?」
「多分、そうです」
それが神楽の不死性に頼ったための反動なのか、それとも妖力だけを宿す存在となったことの影響なのかは分からないが、俺の体は異形と化していた。手足の五指には黒く尖った爪が生え、口腔内には牙が、頭部には節くれだった角が存在していた。律華の指摘によれば眼球は黒ずみ、その中で紅の瞳が光を放っているらしい。
「随分と、らしい姿になったものだ」
「嫌……ですよね」
「どうだろうな。人間の見かけとは乖離したが、命があるだけマシだろう」
少なくとも律華が責任を感じる必要はないと付け加えると、彼女は気まずそうに目を逸らした。――……俄かに、腹が立ち、彼女の頭を乱暴に撫でる。
「酷いです」
「くだらないことを考えているからだ」
それでも不服そうに頬を膨らませる律華を視界の端に収めながら、立ち上がる。彼女は今後どうなるのか。それを考えるためにも、清算しなければいけないことは残っている。
「大丈夫、何とかなる」
「心配なんて、してませんよ」
差し出された手を取り、連れ添って土御門家本邸に赴く。宗二が千里眼で全てを視ていたためか、妖の姿をした俺と、紛うことなく妖である葛白、かつて迫害してきた少女が連れ立って現れた割には、彼等が騒めく様子は見られなかった。それでも形ばかりの警戒を示すように一様に距離が取られ、その手には武器が携えられていた。
神楽の討伐に成功したことと、宗絃を始めとして多くの同胞が殉職したことを知らせたが、彼等の心情にはどのように届いたかは分からない。
宗絃を失ったことで統制は乱れていた。誰もが、俺達をどのように扱えばよいのか判別を付けられないようだった。少なくとも危害を加えてくることはなさそうだったが、正確にはできないのだろう。かつて神楽であった少女、それとまがりなりにも死闘を演じた俺という存在は畏怖を抱かせるには充分すぎた。この外見が拍車をかけていたのは、皮肉な話だ。
結論、土御門本家に事の顛末を報告してから判断を仰ぐことになり、使者が到着するまで幽閉されることになった。迫害してきた記憶がそうさせたのか、それとも神楽討伐の英雄として見做されたのかは分からないが、幽閉の檻としては、あまりにもそぐわない。牢獄ではなく、充分な広さの部屋に寝具が用意され、部屋の外に見張りが配されただけだった。
「しばらくは窮屈だろうが、我慢するしかないだろう」
「私は平気ですよ」と彼女は言う。こんなものが、彼女には格別の待遇なのだ。
開け放された窓から窺える景色と、同時刻に運ばれてくる食事が三度は繰り返されたところで客人があった。
「生きていたのか」
「お生憎様だ。生き残ってしまったよ」
腰まで届く黒髪を三つ編みにして一本に結いあげ、肩越しに胸へと垂らす。客人の四肢は捥がれたままであり、不自由を補うために車椅子に腰かけていた。
「あなたは部屋の外に。ここからは私だけで結構です」
車椅子を押していた傍仕えに言いさすと、トガメは初めに俺を見つめ、続いて律華に眼差しを移した。肩が僅かに動く。トガメは何かをしようとしたのだろう。けれど手足がないことに呆れたように小さく嘆息してから、首だけを折り曲げた。
低頭する先に座しているのは、ヒナゲシの少女。
「本来ならば地べたに這い蹲るべきなのだろう。もしもあなたが望むなら、この足萎えを引きずり降ろしてくれて構わない」
「女性が這い蹲る様子を見て喜ぶような嗜好は持ち合わせていません」
「そうだとしても私はあなたの尊厳を踏み躙った。叱責くらいは受けるべきだ」
なおも顔を俯かせたままのトガメを一瞥すると、黙したままで律華は立ち上がった。
顔を上げてくださいと穏やかな口調で告げられ、その通りに従ったトガメの頬を平手が打った。乾いた音が響き渡り、彼女の頬がうっすらと紅潮する。
「贖罪を望むなんて、卑怯な真似はしないで。私はあなた達を許さない。私が受けた傷みは、苦痛は、絶望は言葉ひとつで拭われるほど安くない。贖罪を受け入れるなんて思わないで。あなたは生涯にかけて自分の罪と向き合うの。私という棘に苛まれ、眠れぬ夜を過ごして――」
律華はトガメに唇を寄せた。それはひどく冷めた物言いで。
「呵責に圧し潰され、死んでしまえ」
無碍もない言葉は、ある種、トガメにとって救いのように思えた。彼女が赦しを求めていないことは明らかで、ただ自己満足を得るためだけに謝罪したということは、どれほど鈍い人間であろうとも察することができる。傍目から見て、彼女に罪悪感など欠片ほどもない。
トガメは満足したように微笑むと「そうするとしよう」と呟いた。
それで用は済んだのかトガメは部屋の外の青年を呼び寄せ、部屋を出ていった。
これが、律華と土御門家の関係となるのだろう。赦すつもりも、赦されるつもりもない。赦してもらおうと誠意を尽くしたところでそれが叶うことはなく、ただ、一度は心を向けたという事実のみで慰みを得る。そんなものは卑怯だ。何の解決にもならない逃避だ。
だが、それが正解なのかもしれない。関与することが正しいとは限らない。誠意を尽くすことだけが穏やかな結末を導くとは限らない。憎み、憎まれる。それもひとつの終焉の形だ。
律華に目配せする。彼女は分かっていると言わんばかりにトガメの去った方を見遣った。
「すぐ戻る」
「お好きにどうぞ」
律華の許しを得たことでトガメの後を追う。見張りが何かを咎めることもなく、すぐに追いついた。追いかけてくることは予想がついていたのだろう。驚いた様子を見せることもなく、振り返り、静かに見つめ返された。
「随分と、皮肉な結末を迎えたものだ」
指し示すものが、この外身だと悟り、
「それほど落胆しているわけじゃない。不死身の帝王を、半ば引き継いだんだ。これくらい大袈裟な方が分かりやすいだろう」
「そうか。やはり貴様は甘っちょろい性格をしているな」
それは、新たな迫害の火種を生むことへの危惧かもしれない。
「手足は戻さないのか。そのままでは不自由だろう」
「捥ぎ取った張本人にされるような心配ではないな。だが、痛み入る。再構築は容易いが、少しばかり、宗絃様の呪縛から離れていたくな」
窓の外、山稜によって見え隠れする地平線を遠く眺め、トガメは続けた。
「今なら貴様の感情が理解できる。私達は間違っていたのだと認められる」
「それは単純に同調したためか、律華が神楽を終わらせたためか、どちらなんだ」
トガメは答える。そんなことはさもありなんと言いたそうに。
「両方だ」
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