これを奇跡と呼ばないで

 刃を振り下ろそうとする姿勢で硬直していた神楽に変容が訪れた。律華の姿を鬼にたらしめていた象徴である額の角が崩れ、砂塵となって消滅した。その体は前後に揺れ、倒れ込む。

 地面に打ち付けられる直前で葛白に受け止められる。見つめられる中、少女の睫毛は二つに分かたれた。焦点の定まらない瞳がぼんやりと動き、葛白の眼差しから逃れるように少女は力無く笑った。

「ただいま」

「よく、帰ってきてくれたな」

 背中を支えられながら上体を起こし、律華は真横に倒れ伏した志郎を見つめる。

 両足を失い、胸にぽっかりと空けられた孔。志郎の表情に意識の片鱗はない。

「ねぇ、葛白……志郎さんは、」

 死んじゃうのかな。

 尋ねなくとも明白な問いを、受け入れ難く、否定すれば叶うかのように尋ねる。

 孔から覗ける心臓はまだ微弱に脈打つものの、挙動は如実に弱まっていく。血を流しすぎたために全身の肌は蒼白を通り越して青く、紫に変色した唇が開かれることも、夜闇の瞳が見返してくれることも決してないのだと諦めてしまうほどに、彼は絶望的な傷を負っていた。

「嫌だよ……」

 志郎の頬に手をあてがう。その冷たさに驚き、張り詰めた眼からは大粒の涙がこぼれる。

「いや……」

 否定したところで、眼前の事実は覆らない。どれだけ非凡であったとしても、天賦の才に恵まれていたとしても、志郎は人間なのだ。死ねばそれで終わり、かつての律華のようにはいかない。負わされた傷は掻き消えず、途絶えた燈火は再燃することがなく、命の流れは不可逆だ。

「どうして私は――志郎さんのために何もできないのかな」

「やめろ、律華」

「自由を手に入れたの。志郎さんの霊力も、神楽の妖力も私の中ではあり余るほどに渦巻いている。それなのに私は……私には、何もできない」

 律華が会得しているものは、姫条の秘術のみ。妖力を奪い、妖を封じ込める異能だけだ。

 もしも治癒の術式を会得していたならば、あの地獄の中で志郎がしてくれたように彼を癒すことができたかもしれないのにと思うと、彼女の心は締め付けられるばかりだ。

「私は助けてもらったのに……志郎さんのために、何もしてあげることができない……」

「持たざるものを嘆いたところで、何も変わらぬよ」

「分かってる。そんなの、分かってるけど……」

「あぁ、悔やまずにいられないのは妾にも理解できるよ」

 葛白の慰めが、律華の胸を軽くすることはない。積もりゆく呵責に圧し潰されそうになりながら、律華は志郎の手を取った。その手が握り返してくれることはない。

 ただただ静かな終わりだった。ただただ、無残な終焉だった。

 死を迎えるはずだった律華は生き残り、そのために身を賭した志郎は途絶えようとしている。

「お願い……一人に、しないで……!」

 律華の叫びが届くことはなく、一瞬きの静寂とともに志郎の息遣いが止まった。心臓は挙動を停止させ、握り締めていた手がずしりと重さを増す。その変化は、彼が生命から物質へと変化したことを表しているようだった。

 冷たかった肌が、さらに冷たくなったように感じる。

 志郎が途絶えたのだとなおさらに意識させられ、律華の喉から嗚咽と叫びが漏れた。

 言葉はもはや浮かばなかった。ただ、獣の如く叫び狂う。

 葛白に背後から抱き締められ、胸の前に回された腕は微かに震えていた。

 晦冥に満たされた世界では何も見えない。握り締めた手のひらだけが彼を感じられた。


「――律華」


 不意に、名前を呼ばれた。

「律華!」

 身体を激しく揺さぶられたことで瞼を押し上げた。呑み下した叫びが腹の底で渦巻く様子を感じながら葛白を窺う。彼女は信じがたいものを目にしたかのように、茫然と何かを見つめていた。訳も分からないまま葛白の視線を追って前を向き、そこには信じられない光景があった。

 胸に空けられた孔に覆いかぶさるように、ウィスタリアの光が昇っていた。蛍火に似た光の群れは志郎の胸に触れると輝きを失い、小さな肉片となって彼の体を再構築する。

 見たことがある。経験したことがある。

 それは、幽閉の日々の中で幾度となく繰り返してきた現象。神楽による不死の再生だった。

「どうして――……」

 志郎に霊力は残されていない。たとえ因果の逆転という秘術を会得していたのだとしても、霊力の枯渇した人間にそれを発現する手立てなどないはずなのに。

「なんで……、どうして、こんな」

 譫言のように繰り返していた律華は、はたと黙り込む。

「志郎さんは、どうやって神楽を追い詰めたんだっけ」

 それは、姫条の秘術を用いて神楽の妖力を奪ったことで。

「そう。それなら、奪った妖力はどこに消えたの?」

 考えてみれば、至極単純なこと。神楽の妖力は志郎に還元された。付け加えるならば、それは律華と真髄まで混ざり合う前の妖力――不死の帝王だった神楽の残滓だ。

「もしも神楽の不死が魂ではなく妖力に起因するのであれば、それを取り込んだ志郎さんにも不死が適用されるはず」

 もしも、なんて言葉を前置きする必要もなく、彼は再生の途にあった。胸の孔はとうに塞がり、再生の兆しは全身に広がっていく。

「これを奇跡と呼ばないで、何と言うのかな」

 一転して落ち着いた様子で、律華は言う。

「奇跡とは少し違うじゃろう。律華の献身から始まった因果が、巡り巡って志郎を救った」

「それは、少し傲慢だよ」

「傲慢だと一蹴するなら、せめて愛しい人の無事を喜んであげなさい」

 はたと押し黙った律華を眺め、葛白は釘を刺すように続ける。

「そんなことはないと否定するのは勝手じゃが、少なくとも志郎には愛されているようじゃぞ」

 背けられた貌は恥ずかしそうに硬直していた。それから表情筋はほろりと崩れ、

「うん、知ってる。神楽の中にいても、志郎さんの言葉は聞こえていたから」

「返事はどうするんじゃ?」

「バカ、そんなこと聞かないでよ」

 再び志郎の手を取る。両手で握り締めた肌を通して、彼の熱がじんわりと伝わってくる。律華は軽く腰を浮かし、目を閉じたままの志郎に向けて顔を近付け、そっと触れ合った。

「お帰りなさい、志郎さん」

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