ざまあみろ
それはあたかも落雷が流れたかのように、神楽の腕を掴む志郎の手掌から白皙の奔流が立ち上がった。奔流は二人を呑み込んでなお広がりを見せ、神楽の矮躯に流れ込んでいく。
悪寒を覚え、神楽は志郎の手を振り払うと胸から腕を引き抜いた。突き飛ばすように距離を取り、奔流の流れ込んだ己の腕を凝視する。そこには爛れも裂傷もなく、如何なる創傷も存在していなかった。彼女の肌は冴えない血色を保ったままで、変容は見られない。
「最後の悪足掻きといったところか」
倒れ伏した志郎から返事はない。意識の片鱗さえも残されておらず、ただ、唇の端だけが微かな笑みを浮かべていた。神楽は無造作に頭を掻き、うつ伏せとなった志郎を起こす。
まだ、息はある。
あの奔流が何であったのかは分からない。
答えを探ろうにも、それを為した本人に言葉を紡ぐだけの余力は残されていない。
「真相は闇の中。そういう終わり方もありか」
手のひらの中央が裂け、鮮血の刃が覗いた。どちらにせよこれで幕引きだ。神楽を終わらせる可能性を秘めていた青年の生涯は――これで終焉を迎える。
「さよならだ、小僧」
神楽は離別の言葉を口にした。それは志郎への手向けだったのかもしれない。人間如きと侮ることのできなかった存在への、敬意だったのかもしれない。
そういう感情もこの一太刀で幕引きとなる。鮮血の刃を握り締め、神楽は志郎の首に向けて振り下ろした。首を落とすこと、断頭が確実に命を奪うものだと知っていたから。
そして、死の間際に追い込まれてなお絶えることのなかった志郎の微笑の意味を知った。硬直した肢体と剥奪された自由、己の内側から沸き上がった少女の存在を自覚する。
《捕まえた!》
神楽の意識に介入する影があった。それは現世になく、彼女の内にしかないもの。
同じ相貌、同じ声、同じ魂を携えた少女が落ちて来て、神楽の首を掴んだ。その細い五指は神楽の素肌にやわらかく沈み込んでいく。
少女の名は姫条律華。躰を共有して、神楽が意識の隅に追いやった魂だ。
「どうして貴様が意識を得ている!」
押し倒され、胴の上に跨る少女を見上げて神楽は叫ぶ。意識の顕現である少女を振り払うことはできず、神楽は首を絞められたままだ。
妖力は欠片たりとも渡していない。掠め盗られることなどあり得ない。この娘には霊力も残されていなかったはずだと考えたところで、律華の胸に眩いばかりの輝きを認めた。
「それは、何だ」
妖力とは似て非なり、されど本質としては近しくあるもの。
「志郎さんに託された力よ」
人間が妖に対抗することを可能とした力――人間しか持たず、妖には関与できないもの。
神楽は理解した。志郎の手掌から流れ出て、己に這入り込んだ奔流の正体を。
「あの小僧の霊力か――!」
「私の霊力は枯れている。あなたから奪うこともできない。けれど、志郎さんから託されたこの力だけはあなたにも関与できない! 私に還元され、あなたに叛逆する劔となる!」
律華は腰を浮かし、神楽の首を絞める手に体重をかけた。
「それで何をする? 俺をまた封じるのか?」
「いいえ、あなたと私はひとつになるの。私の霊力だけではあなたを表層に封じることしかできなかった。けれど、あなた自身の意思によって私とあなたは根源の一歩手前まで混ざり合った。あとは志郎さんの霊力で後押しするだけ、それで私とあなたは真髄まで混ざり合う」
「不死を崩壊させるつもりか」
「死なない帝王なんてもううんざり。不死身の半妖も、もういらない」
「たとえ俺を引きずり下ろしたところで、貴様に自由が戻るとは限らないぞ」
「…………あなたを封じることだけを選んだなら、次の満月までだとしても、仮初めの自由だとしても、私は確かに主導権を取り戻すでしょうね」
「現世に残留することは望まないのか? 未練は幾何たりともない、と?」
神楽の囁きに律華が揺らぐことはない。彼女の眼窩の裏側には、志郎の生き様が刻まれていた。絶対的な恐怖にも退かず、己の感情を天秤からかけ外し、ただただ自分のためだけに神楽に立ちはだかってくれた志郎という存在は、彼女に勇気を与えてくれる。覚悟を与えてくれる。
「どちらが主導権を握るかなんて、些細な問題よ。あなたが主導権を得たならば、滅びゆく王として終わりの時まで殺戮に明け暮れればいい。そこに私は関与できない。私の肉体がどれだけの罪を犯そうとも、私の魂がどれほどの怨嗟を背負うことになろうとも」
神楽の瞳に己の瞳を突き合わせ、律華は告げる。
「けれど憶えておきなさい。あなたは必ず殺される」
たとえ志郎と律華の手によって終わらなかったとしても、神楽を終わらせる人間は必ず現れる。神楽もそのことは否応なしに理解している。志郎という人間に出会ったことで、彼に一度でも終わりを告げられたことで、人間がただ弱いだけの存在ではないと知ったから。
「それと――もうひとつ。志郎さんにばかり気を取られないでよ。あなたの首に手をかけているのは、あなたを八年間も飼い殺していた女よ?」
神楽を終わらせる力量は備えていなかった。けれど、殺戮されるだけの存在でもなかった。
八年前、悲劇の夜に蹂躙されるだけだった人間の中で、彼女だけが神楽に対峙することができた。決して、退魔師として大成した器ではなかった。律華はまだ発展途上にある未熟な少女でしかなかった。それなのに神楽と互角に渡り合った事実を、軽視してはならない。
志郎を大成した天才だと言うならば、律華は未完の天才だ。
「舐めないで」
律華のブラックボックスは、過小評価するにはあまりにそぐわない。
「必ず手に入れる。この体は私のものよ!」
さらに首が絞め上げられ、頚椎の軋みとともに神楽は喘ぎ声を漏らした。
四肢を暴れさせる。雑然と振るわれた拳が律華の脇腹や背中を打つが、彼女が揺らぐことはない。血の気を失い、神楽は青褪める。歪んだ表情の裏にはどのような感情があるのか――
「やめろ……」
それは恐怖に他ならない。
「やめて、くれ」
人間如きと嘲笑っていた存在への、懇願だった。志郎の猛攻に打ちのめされながらも発することのなかった言葉を、神楽は初めて律華に発する。誰からも認められることのなかった律華に対して、その言葉は使われた。少女は一瞬だけ戸惑いを浮かべ、その手は僅かに緩む。数秒の沈黙の中、はち切れそうな感情の坩堝を呑み下して、律華は晴々と叫んだ。
「ざまあみろ」
一気に体重がのせられる。神楽の首が折れ曲がった。ひしゃげた断面からは神楽の妖力が厖大な渦となって溢れ出し、律華の胸の中に流れ込んでいく。彼女は思わず胸を押さえた。自分の中に熱い生命が構築されていく感覚はただただ苦しく、切なく、涙腺を刺激する。
抑え込めることなどできず、律華は涙を溢れさせ、叫び声を轟かせた。
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