たかが一人の、愛した人間

 二人の間隙を閃光が駆け抜ける。体幹を揺さぶった衝撃に目を瞠り、腹部へと手をあてがう。それ自体が意思を獲得したかのように、激しい動きで血潮が噴きこぼれていた。

「ほう?」

 感心したのか、神楽は声を漏らして口内に上ってきた血を吐き捨てた。狩衣に空けられた数ミリ程度の穴の裏側では肉が抉られ、背中へと空洞が開き、その気になれば腹腔に指が届く。心音と同調して打ち鳴らされる鈍痛に、神楽は目を細めて悦楽を示した。

「愛した人間を、躊躇いもなく屠るか」

 志郎を正面から見据え、それから神楽は「そうではないのか」と判じる。

「躊躇いを拭い捨て、愛情に妄執することをやめたのか」

 硬直した指先からは霊力の糸が放たれ、召喚した傀儡を無慈悲に操る。木馬の傀儡の貌からは細々と硝煙がたなびき、その引き鉄を引いた人間の表情は苦悶に満ちていた。

 志郎の唇が歪み、開かれる。掠れた吐息とともに彼は言う。

 ただ、自分の心を騙すためだけに。

「律華は死んだ。もういない」

 たとえその形骸が律華なのだとしても、眼前の存在は神楽と呼ばれる鬼でしかない。

「三十億の人間の命と――……」

 妖の脅威に曝されながらも、生き延びようと、燈火を途絶えさせてはいない人類と――……

「たかが一人の、愛した人間」

 姫条律華と呼ばれた、生きながらにして鬼に成り果てた空っぽの魂。すでに死んだ人間。

「どちらを見捨てるべきかは明白だ」

 天秤は傾く。愛情も未練も関与させず、律華の殺害を指し示す。

 そこに正解も間違いもない。存在するのは、明確な事実だけだ。

 神楽を生かしておけば、律華という形骸を失うことに迷いを抱けば、多くの人間が死ぬ。殺戮の憂き目に遭う。怨嗟の声は全て神楽に寄せられる。その容れ物である律華に対しても。

「だから、殺す。お前が律華の魂を穢す前に」

 躊躇も迷いも無関係というわけにはいかない。志郎の心は苛み、懊悩に絞められ続け、安寧を得るにはほど遠い。それでも指先は乖離する。感情とは裏腹に律華の殺害に執着する。

 やるべきことはひとつだった。救われない魂の慰め方など、殺した後に考えればよい。

 傀儡が明滅する。硝煙が噴き出し、尖った火線が神楽へと延びる。妖への呪詛が刻まれた弾丸が神楽を襲い、彼女の眼前で砕け散った。火花とともに四方へと飛散する破片を眺め、

「よい余興だ。無聊を慰めるには面白味に欠けるが、道化師の振る舞いとしてはまずまずだ。俺手ずから褒美をくれてやろう。決して、これで終わることなどあるなよ?」

 神楽は半身を捻り、何も存在しない虚空へと拳を突き出した。矮小な拳を起点として砂塵が湧き上がる。砂塵は瞬くうちに膨れ上がり、嵐を彷彿とさせる勢いで放射状に広がった。

 薄皮を剥がすように大地が捲れ上がり、留まることなどできずに攫われる。草木、岩、圧縮されて鋼のような硬度をもった大気。神楽を起点とした刹那の嵐が志郎を呑み込んだ。

 上昇した土煙が天蓋を成し、辺りは灰褐色に塗りたくられ、志郎の姿どころか神楽の姿さえも見えなくなる。一時的な真空状態が訪れ、ほどなくして大気は逆流を始める。立ち込めた砂塵は散らされていき、初めに神楽の姿を現した。

「あまり、このような方法は好まんのだ。明白な力量差を示すためだけに――」

 少女の姿をした鬼は、砂塵が消えた跡を一瞥した。

「山を削ぐなどと。それは、とても稚拙だからな」

 神楽が足を下ろす地点を始まりに、かつての幽閉の館を諸共に巻き込んで、そこから先に山は残されていなかった。存在するものなど何もなく、抉れた土肌のみが垂直に下りている。

「だが、言葉で理解しない愚者に対しては効果的だろう」

 神楽は語りかける。結界に逃げ込むことで辛うじて難を逃れた、志郎に向けて。

 状況を呑み込むことは容易ではなかった。たかが拳の一振りで山が消し飛ぶなど尋常ではない。これが神楽の実力。戯れに過ぎない、表層のみの力量。ならば、神楽の真髄とは如何なるものなのか。恐れはいたずらに膨れ上がり、太刀打ちできるのかと疑惑が胸を掠める。

「だけど、逃げるわけにはいかないよな」

 結界の天蓋を取り払って外に出る。数十メートル下まで失われた大地を見下ろして、結界を空間固定で発現しておいてよかったと胸を撫で下ろす。もしも物質固定――大地に固定して発現していたなら吹き飛ばされていただろうから。

 志郎の顔色は冴えないが、背中を見せることはなく神楽を睨み付けている。

 度し難いと、神楽は首を傾ぐ。どうしてまだ立ち向かおうとするのか。充分な畏怖を与えたはずだ。人智を越えた力を見せつけたはずだ。

「つくづく、人間とは度し難い生き物だ」

 左腕を持ち上げる。その指先に僅かな光子が宿ったとき、神楽は下方より攻撃を受けた。死角から飛来した火球を手のひらで打ち払い、神楽は緩慢な動作でそちらを視る。

 崩壊を認めたことで駆け付けたのか、葛白を追ったはずの退魔師達が神楽を見上げていた。彼等の口からは蔑みの言葉が吐き出され、鼓舞するように神楽を殺せと叫びたてる。

 それが絶対的な正義であると信じて疑わないばかりに。

 彼等の手は霊符と武具を握り締め、思考は殺害のみに染められていた。

「蛆虫如きが、王を煩わせるか」

 神楽の意識が彼等に向けられたことを悟り、志郎は叫ぶ。逃げろ、と。

 遅すぎる勧告だった。神楽の指が張り裂け、血潮が噴き出る。流動する血液は鋼のように硬質化すると長大な刃となり、数十メートル下方の大地を舐めるように振るわれた。扁平な刃は通り過ぎる刹那に攫っていく。耳鼻から上の人間の頭を。神楽の指先から伸びる刃の上にはいくつもの頭が貼り付き、その瞳からは輝きが失われていた。

 中枢を失った体は大地に頽れ、その数は二十八にも及ぶ。

「ふむ、取りこぼしがあったか」

 刃が僅かに届かなかった先で難を逃れ、しかして恐怖を前に座り込んでしまった人間を俯瞰すると神楽は歩き出した。歩くと表現するには、似合わず。風に負けぬ速度で空を渡る。戦意を喪失して震えるばかりの人間を見下ろし、神楽は空に留まることをやめた。重力に導かれるがままに任せ、直上から落下する。

「俺への侮辱は、貴様の命で以って帳消しにしてやろう!」

 懇願に傾ける耳など持ち合わせず、神楽は血の刃を振るう。だが、刃は何かに打ち合わせられたことで弾かれた。乱れた体勢を整えながら着地して、手中の痺れを噛み締める。

「庇うのか。それは、貴様を殺そうとしていた人間ではないのか」

「うるせえ。アンタの相手は俺だと言ってるんだよ」

 志郎は額の汗を拭う。

「貴様の実力などたかが知れている。トガメといったか、あのような雑種風情に手こずるような輩が俺の前に立ちはだかることこそ腹立たしい。消えろと言ったはずだ」

 激昂する神楽を前に、志郎は喉を震わせる。くつくつと、僅かに引き攣らせるように。

「…………何がおかしい」

「いや、妖の王として崇められ、畏れられているものだからどれほどのものかと思っていたが、表層に目を奪われるのは人間と変わらないのだと思ってな」

「何が言いたい」

 問われ、志郎は腰に手を回し、後ろ手に霊符を掴んだ。

「俺の最終目標が何かということだ。律華を土御門家の手に渡さないことか、トガメを退けることか、宗絃の目を欺くことか――……」

 全て違う、と否定する。

「アンタを殺すことだ。妖の王に挑むのに、霊力を枯渇させるような間抜けはいないだろう」

 神楽が表層の力量を示したように。

 トガメとの戦闘は、志郎にとって霊力の片鱗によるものでしかない。

「ここからは遠慮などいらない。俺の全身全霊をかけ、アンタを討ち取る」

「クク――」

 神楽は堪らず笑いを溢す。

 この胸を躍らせてくれる高揚は、久しく感じていなかったものだ。

「好いぞ、小僧。かかって来い、貴様の全力を捻じ伏せてやろう!」

 志郎の体が前傾する。神楽の腰が落ちる。

 開始を告げる鐘も、鬨の声も要らなかった。ただ、そこに斃さなければならない敵がいる。

「召喚符!」

 中空に巨大な拳が現れる。注連縄で繋がれた二つの腕には焔呪が宿り、神楽の肌を炙る。

「馬鹿の一つ覚えか」

 視界を埋め尽くす拳へと、神楽はピンと指を弾いた。指先から波状に放出された妖力により、傀儡は木端微塵に粉砕され、直後、木端の嵐を掻い潜って志郎が姿を現した。破砕されることなど、予期していたとでも言わんばかりに。

 志郎の肩が引かれ、右拳が振るわれる。顔面に迫り来る拳を見据え、神楽は後方に上体を倒した。そして、そのまま左足を蹴り上げる。神楽の頭蓋が存在していた場所に拳が入り込んだ瞬間に、神楽の爪先が拳を捉える。抗えず、志郎は右腕を弾かれた。

 がら空きの胴体に向け、神楽は鮮血の刃を繰り出す。咄嗟に半身を捻ったことで致命傷は避けられたが、とはいえ、刃は志郎の脇腹を突き刺した。それほど細くはなく、幅広く、扁平な刃に肉を破られたというのに志郎はふらつくこともせずに一歩を踏み出す。刃は肉を掻き分けてさらに深く刺さっていく。彼がそれを厭う様子はない。

 接敵。身体呪装をあきれるほどに重ね掛け、赤黒くなった拳を神楽の腹に沈めた。内臓の全てが潰されたのではないかと錯覚するほどに神楽の腹肉は撓み、その矮小な体躯では受け止めきれない衝撃に見舞われ、彼女は吹き飛んだ。音も光も圧縮された速度で空を駆け上がり、岩壁に体を打ち付けることで止まる。

(奴には痛覚がないのか……)

 志郎の姿を探そうと眼球を動かす。直後、脳が揺れた。真横から殴られたためだと理解したときには、次の拳が胸に沈められていた。視界が弾け、衝撃が体を突き抜ける。殴られることで飛ばされ、決して落下することはせずに、岩壁を舐めるように移動していく。

 顔の正面を殴られたことで神楽は志郎と向き合った。彼女の口が開かれ、喉の奥が眩く明滅する。瞬間、灼熱の業火が空に広がった。岩を液状化させるほどの熱量に大気が歪む。口を窄めて焔を掻き消し、神楽は頭上に手を伸ばした。掴み取ったものは志郎の右腕だ。

「今のはなかなか痛かったぞ」

 そして、子供が人形を振り回すような気軽さで志郎の巨躯を弄び、斜め下方へと叩き付けるように投げ飛ばす。目まぐるしく旋転する視界の中、志郎は体幹を捻って足から着地する。衝撃を散らすことはできず、彼はそのまま地面の上を滑った。

「猫か、お前は」

 背中にあてがわれた手がある。

「葛白……」

「律華はどうなったのかと、問うまでもないな」

「呑まれたよ。アレは神楽だ」

「あんなものが神楽か。また、随分と可愛らしい鬼が誕生したものよのう」

 神楽を見上げる葛白の眼差しは、憐憫の情で歪んでいた。

「降りかかる火の粉は妾が払ってやる。小僧はただひたすら、愚直なまでに突き進め」

「いいのか? 神楽はお前の王でもあるんだろう?」

「妾に王などおらんよ。いたのは、律華という主だけじゃ。あれではない」

「そうか」

 志郎は瞳を伏せ、腹に刺さった刃を掴むと無造作に引き抜いた。血潮が弧を描いて迸り、彼の足元に血だまりを作る。よろめいたかのように見え、葛白は咄嗟に手を伸ばしかけた。

 それを制して、志郎は半笑いを浮かべる。

「何を心配そうな顔をしてるんだよ。大丈夫、俺にはまだ律華が傍にいてくれている」

 あぁ、そうだ、と志郎は天を仰ぐ。そこに君臨する律華の容れ物だった肉体と、己の胸中に眠る彼女の魂を感じ取り、志郎は全身を鼓舞させる。

「使うぞ、律華。お前の魂の寄る辺を――」

 胸の前で狩衣を握り締め、刮目する。頂に坐する、妖の帝王を。

「飛天瞬脚、翼煉」

 志郎の両足が輝きを発する。くるぶしの辺りより顕現したものは、波打つ焔の翼。全長は両腕を広げるよりも大きく、振り撒かれる残滓は濃厚な紅色。

 志郎の上体が沈む。屈折された両足が大地を蹴り、髪が背後に流れた。

 天空に立ちはだかる神楽へと、一直線に迫っていく。

「地を這う人間が、俺と同じ高みに立つか」

 神楽は眉目を歪め、手のひらを志郎にかざした。圧縮された妖力の渦が放たれる。迫り来る奔流を見据え、されど志郎に避けようとする気配はない。その必要がないことを知っていたために。彼は葛白を信頼していた。妖であるか、人間であるかなどという狭い了見は今さら持ち合わせていない。ただ、律華を救いたいと願う同胞として。

 志郎に到達する直前で、妖力の渦は爆散した。下方より放たれた狐火により掻き消されたのだ。神楽は憤怒によって叫び上げ、さらに妖力の渦を放つ。軌道はでたらめで、あり余る妖力に物を言わせ、粗雑で、それでいて強大な攻撃を繰り出す。そのことごとくを狐火が迎え撃つ。神楽の碧と葛白の紅が天空を舞い、交錯し、所狭しと破裂しては散っていく。

 もう夜を迎えるというのに、空は明るさを増していく。

 つと、それまで相殺を為し得ていた狐火が掻き消される。強大な神楽に対抗すべく葛白は妖力を振り絞ってきたが、敢え無く枯渇してしまう。

「避けろ、小僧!」

 葛白の勧告が耳に届く。されど、志郎はなおのこと加速した。

 志郎の喉から咆哮が上がり、身体呪装で雁字搦めとなった拳が撃ち出された。拳と妖力の渦が激突した瞬間、志郎の全身の肌が裂ける。細く流れ出した血潮はちりぢりとなって背後に飛散していく。それでもまだ彼の拳は砕けていない。妖力の渦と凌ぎを削り、徐々に押し返し、遂に打ち勝つ。反動で体勢が揺らいだが、神楽はすでに眼前にいた。

 逃避を図ろうとした神楽よりも僅かに速く、志郎の拳が神楽の額に触れた。だが、山を砕き、大地を削り取った妖力の渦さえも打ち砕いた拳が、彼女の頭蓋を破壊することはなかった。

 拳は開かれ、広げられた志郎の手掌は神楽の目を覆うように、彼女の額に添えられていた。その手付きは信じられないほどに優しく、甘く、それは神楽の抱いたイメージでしかないのかもしれない。されど、志郎の手のひらが額に触れた瞬間、神楽は見た。彼女は感じた。

 志郎が自分の中に入って来たと。

 志郎に自分の魂が侵されたと。

 額に添えられた手のひらが頭蓋に沈んでいく。決して肌が裂けることも、血潮と脳漿が噴きこぼれることもなく、水の中を掻き分けるように志郎の手のひらは神楽の頭蓋を貫通した。

 そして、その手は掴んでいた。神楽と同じ姿をした半透明の揺らぎを。

 何を奪われたのか。志郎が掴む半透明の物質を眇め、それが自分の内側から出てきたことに訝しみ、それから神楽は、自分が空に留まれずに落下していることに気が付いた。妖力を練ろうとして能わず、指先を動かすことさえもできず、神楽は大地に全身を打ち付けた。痺れるような痛みだけが背筋を這う。眼球だけを僅かに動かし、傍らに降り立った志郎を見つめる。

「…………何を、した」

 神楽は訊ねる。

「それは……なんだ」

 志郎の手が掴むものを見つめ、神楽は不思議でならないと言わんばかりに訴える。

 なぜ自分は倒れているのか。

 なぜ人間如きを見上げることしかできないのか。

 胸中で渦巻く疑念を次から次へと吐露していく。それに対する志郎の返答とは、

「八年間、お前を苦しめていた力だ」

「俺を……苦しめていただと」

「それは、もしや姫条の術式か……?」

「そうだ。律華の力だ」

 志郎は力強く頷いた。

 姫条家は妖力を練る。霊力しか持ち合わせず、扱うことのできない人間が妖を根源に混じらせることで妖力を扱うことを可能とする。換言すれば、それは妖力の強奪に他ならない。

 志郎は膝を突き、神楽に顔を寄せた。

「お前は――律華のことなんて歯牙にもかけていなかったんだろうな。八年前に封印され、手足が出せない状態にされたとしても、律華などちっぽけな存在だと、微々たる脅威でもないと。喰い破れば終わるだろうと、その程度の認識だったんだろう」

 神楽は否定しない。

 それが本心を指摘されたためなのか、その気力も湧かないためかは分からない。

「だけど、お前を追い詰めたものは、お前から妖力を奪った術式は律華のものだ。誰が行ったかは問題じゃない。八年前、その先に待ち受けるものが絶望逆巻く地獄だと知りながらも、律華がその身を捧げたことで俺がこの術式に到達した。そこに意思は絡んでいなかったかもしれない。律華がこのことを予期していたなんて、あり得ない」

 志郎は言葉を区切った。それでも、と律華の姿を借りた神楽を見下ろす。

「この結末を導いたのは、律華の犠牲なんだ」

 報われない人生だった。未来も希望も幸福も奪われ、享受することを許されず、人間として最低の仕打ちを受けた。その身に余る罰を受けた。その身に報わぬ責め苦を負った。

「ざまあみろ」

 神楽の耳朶に唇を寄せて志郎は告げる。野卑な声音で、はち切れそうな声音で。

 その言葉は神楽に向けたものであり、律華を罪人として扱った人間に対するものだった。

 ざまあみろ。律華こそが人類の救世主なのだと彼は叫ぶ。誰にも届かないとしても、虚しい響きなのだとしても、世界に刻み付けるように吠えずにはいられなかった。

「俺を殺すのか」

「あぁ、それが律華との約束だ」

 妖の王に恐怖は見られなかった。懇願もなかった。命乞いなど見苦しいと、笑い飛ばすように。代わりに、落ち着き払った声で神楽は告げる。

「後悔するぞ」

 愛する人を手ずから終わらせた呵責は決して褪せることなどなく、志郎を蝕み続けるだろう。彼の心がもう少しでも弱かったなら、その瞬間に気違いになったとしてもおかしくない。

 自分がこれから為そうとすることは、とどのつまりそういうことなのだ。運命に絶望し、世界を呪い、何よりも救うことのできなかった自分を責め続ける。もっと力があったならと、可能性の妄執に取り付かれ、挙句の果てには自分を殺してしまうほどの出来事だ。

 普通の人間だったなら、心が正常に作動している人間だったなら、きっとそうなった。

 だが、自分がすでに狂っていることを青年は自覚していた。

「後悔など、とっくに捨て去った」

 腰から小刀を抜き、しかと握り締める。満月はとっくに昇っていた。

「首を切り離されても生きていられるか」

「あぁ。そうだな、死ぬだろう」

「安心したよ」

 小刀が振るわれる。鋭利な刃はなめらかに首に沈み、肉と神経、頚椎を切り裂く。小刀が通り過ぎたあとで、首はゆったりと上の方から剥がれていき、胴体から剥離した。

 沈黙が訪れ、志郎の手中から小刀が滑り落ちる。青年は全身をひどく揺らしながら立ち上がり、数歩だけ足を運び、葛白に肩を支えられたことで脱力した。

「よくやった、志郎」

 賞賛の言葉は、皮肉にしか聞こえなかった。

「俺が守りたかったものは、世界でも人類でもない。……律華だった、律華だけだった」

「あぁ」

「守れなかった」

「そうなる運命だった」

「三十億の人類と、たかだか愛しただけの一人の人間、だと?」

 自分の言葉を想起して、眼窩に熱が込み上げてきた。

「馬鹿野郎――……」

 放り出した言葉はくしゃくしゃに潰れていた。

「泣くのか?」

「俺に……律華の死を悼む権利なんてない」

「泣いてやってくれ。あの子に涙を流してくれるのは、志郎だけなのだから」

 葛白の胸に顔を埋めていた志郎の体が、僅かに震える。引き攣った嗚咽が漏れ出し、それは、背後から足を貫かれたことでくぐもった叫びへと変貌した。

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