未完の天才
全てを捧ぐ価値
「後悔すると、忠告しただろう」
右足に突き刺さった鮮血の刃と、背後からかけられた声に振り返り、志郎は喉を唸らせる。彼の体を支える葛白も、信じられないといった形相で唇を戦慄かせる。
「どうして……」
初めに疑念を吐露したのは葛白だった。
「異なことを聞く。死ぬことで、死に戻る。あらゆる傷害も、妖力の枯渇もなかったことにして生き返る。リセット――不死の帝王であることが、俺の存在定義だ」
「そんなことあり得ない」
「女狐、なぜそう思う? 現に俺は生き返った」
「凪の満月を迎えれば、律華を喰い破れば貴様は不死ではなくなるはずだ!」
葛白の疑念を受け、神楽は哄笑する。額に手をあてがって目元を隠し、天を仰ぎ、滑稽を嘲笑う。茫然自失となって己を見つめる者の貌が、なおのこと彼を助長させる。
「残滓も生じぬほどにあの小娘を喰い破れば、確かに俺は不死から引きずり降ろされていただろう。だがな、不死の魅力は、自由と引き換えにするにはあまりにも釣り合わない」
「まだ……律華を残しているのか」
呻くように志郎が訊ねた。神楽は少しだけとぼけるように唇を尖らせてから、眦の端を彎曲させて破顔した。開かれた唇からは言葉が零れ落ちる。
「私のさよならは、志郎さんに預けます」
記憶を継承しているなどという範疇には収まらず、それは律華の言葉であり、律華の声音であり、志郎に託された約束だった。
志郎の表情が強張る。彷彿した衝動に突き動かされ、葛白の腕を振り払う。神楽に掴みかかろうと痛む足を前に運んだとき、彼の眉間に刃の切先が突き付けられた。
「そういきり立つな。まだ、貴様の疑念は晴れていないだろう」
「返せ! それは律華の
「無理な相談だ。俺が譲渡する可能性を期待しているならば愚かとしか言いようがない。あの娘が俺の妖力を掠め盗ることを期待しているならば滑稽だ。――先程は確かにしてやられた。貴様は初めて俺を殺した人間だ。その技量は、俺を欺いた奇策は称賛に値する。だがな、奪われると分かっていてみすみすそれを許すほど、俺も甘くない」
そこで神楽は言葉を区切り、刃を下げると志郎に手を差し出す。
「試しにもう一度奪ってみるか? 奪おうとしてみるか?」
できやしないと神楽は頬を綻ばせる。志郎が試すこともなかった。もう二度と強奪が適わないことは明白だった。一度通じた手段が何度でも通じるような、一度でも己を窮地に追いやった手立てに対して何の策も講じないような相手であれば、神楽はとうの昔に殺されていただろうから。生き返るのだとしても、志郎が初めてとなることなどあり得ない。
「妖力によらず、あの娘の力量のみで俺を退けることもない」
「……律華には、もう霊力が残されていない」
「理解が速いな。諦観が過ぎるとも言えるが、そういうことだ。霊力に関してだけは俺も関与できたものではないが、枯渇しているならば気を割く必要もない。妖力と違い、枯渇した霊力が回復することはない。補填の効かない力に頼っていること、それが人間を妖より下位に押しやっている要因であることは、賢しい貴様なら充分に理解しているだろう?」
志郎の返事がないことを確かめ、神楽はその手に握る刃を振り回した。
「さて、第二戦といこう。もっとも貴様にその気力がないというならば俺が凌辱するだけになるが、そういうつまらないことにはなってくれるなよ?」
一足飛びで距離を取り、神楽は志郎と向き合う。もう彼を侮ることはしない。下等な人間が相手だと驕ることもない。不死というアドバンテージを介在させなければ、彼こそが自分を終わらせる存在だと理解したから。
「誇れ。貴様は――俺が認めた唯一の人間だ」
そして、誇りを背負ったままで死に絶えろ。
腰を下ろし、目線の高さに刃を掲げる。地面とは平行に、峰は下に向けて。その切っ先は志郎の心臓に定める。足裏では土が僅かに滑り、微かに音を立てる。
心音に耳を澄まし、細く息を吐き出す。呼吸と鼓動の波長が重なり合ったとき、神楽は静かに足を踏み出した。どちらが近付いているのかはさておき、瞬きを挟むごとに志郎の姿は近付いて見える。彼我の距離が五メートルを切ったところで、前傾姿勢で刃を突き出す。
刃が迫り来ることは理解しているはずだが、志郎に避けようとする気配は認められない。その瞳は伏せられたままであり、前髪が彼の貌に影を落としていた。
その気迫は虚ろだ。魂が抜け落ちたかの如く空虚だ。
(やはりそうなるか。つまらない終焉だ)
神楽は少しだけ拍子抜けして、仕方のないことだろうと見限る。これまで出会ってきた誰であれ、殺せないと理解したときの反応は同じだった。逃避――等しくそれだけだった。
そういえば、と神楽は想起する。この娘だけは違った。俺を殺せないと、俺を斃すことなどできないと理解して、それでも己が講じ得る手立てから目を逸らすことはなかった。たとえ結末を他者に委ねるのだとしても、その未来を擲って俺を封印した。
逃避とも取れるが、厳密には違う。あれは静かな叛逆だ。
そのような存在と繋がった人間だからよもやとは思ったが、さしもの青年にも、勝算が幾何たりともないとなれば難しいことだったか。
期待を寄せることをやめ、神楽は殺意にのみ集中した。渾身の力で突き出した刃はもうじき志郎の肌を喰い破るだろう。これで終わりだと確信した刹那、神楽の手のひらを痺れが伝い、彼はもたげさせていた意識を奮い立たせた。心臓を喰い破った感触とは違う。
これは反撃だ。
「なぜ、貴様は笑っている」
仰ぎ見た志郎の表情は予想だにしていないものだった。眦を恍惚で塗り固め、歯牙を覗かせて獰猛に笑う。その気迫は鮮烈に燃え上がり、瞳は赫灼を宿していた。
志郎の巨躯が動く。瞬きひとつも介在させず、鼻先に拳が突き付けられていた。
神楽の背筋に悪寒が走る。得も言われぬ畏怖に突き動かされ、彼は飛び退った。大袈裟と言えるほどに大きな距離を、切り立った断崖まで逃げる。
断崖にしがみつきながら、はるか下方の志郎を見つめ、神楽は生唾を飲み下す。
(怖れているというのか。この俺が、人間を――……)
胸の騒めきを振り払おうと首を振り、けれど彼の脳裏には志郎の笑みが焼き付いていた。
どうして笑えるのか。充分な絶望を突き付けられたはずだ。希望は打ちのめされたはずだ。
「俺は知らない。知らないぞ、貴様のような人間を――!」
猜疑の視線を受け止め、志郎は腕を差し出した。
「そんなに警戒しないでくれ、妖の王よ。第二戦――命を削ぎ落とす殺し合いだろう」
青年に注がれるもうひとつの眼差し、葛白は地に座したままで茫然と呼びかける。
「志郎――」
「もう動けないんだろう。休んでいてくれ。そして、見守っていてくれ」
「立ち向かおうとするな。この戦いに意味はない。神楽は殺せない。……いくらお主が心血を注ぎ、身を削り、魂を摩耗させたところで不死を覆すことなどできない。もうお主は充分にやった。充分に抗い、多すぎるほどに立ち向かい、律華のために尽くしてくれた」
もう終わりにしてもよいのだと、葛白は訴える。
「お主が神楽に背を向けたところで誰も責めない! お主の心が責め立てるのだと言うならば、妾がそんなことはないと否定する! ここで逃げることで、たとえ今後の人生に於いて神楽による殺戮の憂き目に遭うのだとして――そうだとしても、今は生き延びておくれ」
声を萎れさせ、葛白は続ける。
「律華も分かってくれる。お主に生き延びて欲しいと、願うはずだ」
風が吹いたことで、志郎の背中が揺らめいたように見えた。彼の気迫は静かにさざめき、そして、振り返った彼の貌は儚いほどの微笑みを浮かべていた。
「葛白――……律華は生きてるんだ」
「けれど、あの子は神楽の虜囚じゃ」
「生きてるんだよ、律華は」
志郎の語気は強い。そこには裏打ちされた意志が存在する。
「それだけで――俺が全てを捧ぐ価値がある」
志郎の両足に紅蓮の煌めきが燈る。出現した翼煉は、これが最後の戦いであると暗示するばかりにその姿を広げ、葛白の頬を赤く染め上げた。
「じゃあな、葛白。俺は――少しばかり律華に会ってくるよ」
志郎の体が宙に持ち上がり、そして加速する。痛いくらいに感じていた葛白の眼差しは次第に希薄となり、遂には感じることができなくなった。
神楽と眼差しが交錯する。神楽の瞳には、すでに余裕の色が見られない。
不死の帝王が人間の青年を軽んじることはもうない。決して死なないから、決して殺されることはないからなどと、気を緩めることはできない。
膂力を振り絞り、岩壁を踏み蹴った。近付いてくる志郎に向けて、自ら迫っていく。
空の一点でまみえる。初めに攻撃を繰り出したのは、志郎だ。今も血潮を溢れさせる腹部に手をあてがうと、神楽が鮮血を寄り集めて刃を作ったように、礫へと押し固める。零乃宮の術式、掃天朱弾。それに天野宮の呪詛をかけ合わせ、放つ。無数の血弾はそれ自体が意思を持っているかのように無秩序な軌道を描きながら、神楽へと向かう。
払い除けるために手を振るい、血弾と神楽の手が触れ合ったとき、手の肉が一瞬にして蒸発した。立ち込めた白煙の中で、爛れた肉片がこびりついた骨だけが残される。
触れるだけでこの有り様か――神楽は舌打ちすると宙を蹴った。
背を向けた神楽を血弾は追走する。飛翔速度では神楽の方がやや劣る。神楽へと追い付いた血弾は彼女の両側を並走して、一気に内側に折れ曲がる。体の左右、さらには背後から迫る血弾の全てを把握していた神楽は、肌に触れる直前に真下へと急降下した。彼女の頭上で血弾は相互にぶつかり合い、飛散する。
衝突を免れた数発はそのまま神楽を追って落下する。
神楽の落下は止まらない。ぐんぐんと迫り来る大地が視界を埋め尽くしていく。衝突する恐怖に駆られてもよいはずだが、揺らぎは見られない。十メートルを切り、それでもまだ神楽は落下する。彼の飛翔速度では十メートルなど瞬く間に詰められる。鼻先が地面を掠めるのではないかという直前まで迫り、一気に折れ曲がった。背後の血弾は全て大地に減り込む。
地面すれすれでの飛翔を続ける神楽の背部に影が落ちた。
身を捻り、接近する志郎と相対する。直上より振り下ろされた拳を胸の前で受け止め、神楽は雄叫びを上げた。掴まれた腕を起点として志郎は揺さぶられ、地面に叩き付けられる。体勢を崩したために神楽も飛翔を続けられず、二人は地面の上を舐めるように転がった。
空と大地が目まぐるしく入れ替わる中で両足を踏ん張らせて停止する。両者は体の痛みに意識を向けることなどせずに立ち上がり、前傾姿勢で駆け出した。
志郎が殴りかかる。その拳をいなすと神楽は跳躍した。志郎の頭上を飛び越えて背後に回ると彼の右足を蹴り付けた。本来ならば志郎の体勢を崩すだけだっただろう。けれど、それは宗絃によって切り刻まれ、霊力の糸で仮初めに縫合しただけのもの。ぐにゃりと縫い目から折れ曲がり、霊力の糸は千切れ、膝から下が吹き飛んだ。
頽れるしかないと、誰もが思う。されど志郎は左足のみで屹立を保ち、右足を神楽に振るった。右足の断面から飛び散った臙脂色の血潮が神楽の腹から顔にかかる。白煙が立ち込め、神楽の肉は蒸発した。剥き出しにされた頭蓋と眼窩の中で蠢く眼球、露出された腹腔と臓物、されど彼女の息の根は止まっていない。
「アアアァア――!」
神楽は苦しそうに叫ぶと溶け落ちた胸から肋骨の間に手を突き入れ、己の心臓を握り潰した。破裂した心嚢は一度だけ脈動してから大量の鮮血をばら撒く。
神楽の躰が揺らぎ、地面に倒れ込む。その時にはすでに、彼女の体は再生していた。
リセット。
彼女は生き返る。
そんなことは分かっていた。殺せないなど、理解している。
志郎の表情に落胆は見えない。次の攻撃に移ろうとして、けれど、右足を欠いた彼にとって足下に横たわった神楽は攻め難かった。左足にも衝動が走る。痛覚がとうに麻痺してしまった彼にとって、それはもはや違和感としかなり得なかった。
何をされたのかなど、考える必要もない。なぜなら目線が下がっていくから。
左足までも吹き飛ばされたのだと理解していた。すでに彼の体を支えるものはなくなり、両足の断面を真下に向けて彼は落ちる。神楽と目線の高さが合う。両足で立つ神楽と、膝から下を失った志郎は、ちょうど同じくらいの背丈になっていた。
途切れそうになる意識の中で志郎は腕を動かす。暗闇を探るような拙い挙動だったが、それは確かに神楽に向けられていた。けれどそんなもので神楽を捕らえられるはずもなく、彼女は僅かに半身を捻るだけで志郎の手を掻い潜り、右手で手刀を作ると青年の胸に押し当てた。
つぷり、と爪の先が肌に沈む。初めは爪一枚ほどの裂け目は手刀が進められるにつれて広がっていき、裂け目は肌に留まらず肉にまで広がる。手刀は止まらない。中指だけだった、そして五指へと続き、手掌を、手首を過ぎて腕が志郎の胸に呑み込まれていく。
背中側の狩衣が膨らみ、神楽の指先が這い出てくる。
「終わりだ、小僧」
神楽の宣告が鼓膜を震わせた。吐き出す血も残されておらず、朦朧とする眼では己を串刺しにする腕さえもまともに見ることができない。志郎は沈黙に落ちていく。
心臓を突き破ることはなかったのだろう。突き刺した腕を通して、神楽は志郎の鼓動を感じていた。それが如実に弱まっていくことも、感じられていた。
意識を失いかけながらも志郎は唇を動かす。空気を食むだけの言葉がいくつか続き、
「…………………………た」
意味の判別できない単音が発された。
「…………と、………………えた」
「何を言いたい」
首を捻る神楽の腕を、血まみれの志郎の手が掴んだ。
肌が鬱血するほどに強く、彼はしがみつく。
持ち上げられた瞳は未だ赫灼を失ってはおらず、終わりではなく先を見据え、その眼差しは神楽に注がれていたが、彼が見つめるものは違った。
やっと、捕まえた! 辿り着けたと、青年は安堵の内に歓喜する。
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