揺れる赤と、静謐な黒

 土御門家本邸に忍ばせた傀儡を操っていた志郎は諦めとともに眉を寄せ、訣別したと静かに呟く。宗絃との対話を通して判明した事実、彼等の律華に対する認識について胸を掻き混ぜられるような思いを抱きつつ、彼は律華の元に向かう。

 風呂場横の居室。地獄から連れ出した律華を寝かしつけ、以来、葛白も加えられて団欒を交わしてきた部屋の襖を開いたとき、奇妙なフラッシュバックに襲われる。時の流れが緩やかになったかのような、何かに惹きつけられるような不思議な感覚。

「志郎さん、どうでしたか」

 部屋の中から訊ねられる。うっすらと開いた目で律華を見つめながら、そういえばあのときも見つめていたなと思い返す。見つめたら、見つめ返された。視線と視線が繋がった。その中に何が宿っていたかは別として、あのとき、志郎の内側では嫌悪とは別の感情が渦巻いていた。庇護欲に似ていて、それでいてどこか非なる感情の名前を、彼は知らない。

「似合ってるな」

「えへへ、仕立ててくれたのはお母さまなんですよ」

 律華は嬉しそうに声音を弾ませ、両手を胸の前に持ち上げた。

 光沢を放つ生地は、闇夜に紛れることを思えば不適合だったけれど、それはむしろ闇夜の中であっても娘の居場所を知るための配慮のように感じられた。それは、当たり前だった。八年前までは、律華も人並みの愛情を受けていたことは。九歳という少しだけ世界のことを知っていて、それでもまだ幼く、ひたむきに純粋だった彼女が身に余る不遇を強いられるようになるまでは、境遇を案じられる少女だったのだ。今は、志郎にしか思ってもらえないとしても。

 けれど、おそらく律華はこのように言うのだろう。

 志郎さんに思ってもらえるだけで、私は充分恵まれていると。

 神楽を宿すと決めたとき、彼女は人並みの幸せさえも捨てなければならないことを自覚していた。だからこそ、不意に訪れた志郎という存在は何にも増して恵まれたものだった。

 志郎は穏やかに微笑を浮かべ、律華の被る仮面に手を伸ばすと、そっと外す。

 揺れる瞳が覗く。

 四十センチの差を埋めるために身を屈め、律華の瞳を正面から覗き込む。

 揺れる赤と、静謐な黒。繋げた視線をふっとずらし、志郎は律華の細い体を抱き締めた。

「行こう、律華」

 耳元で囁く。律華の体が僅かに震えたから、その瞳は潤んでいるのかもしれない。

「私のさよならは、志郎さんに預けます」

 あと、何時間の命だろう。

 反して彼女の胸中は穏やかだった。命を預けてもよいと思える人に出会ったなら、終わりへの恐怖はこんなにも些末なものに過ぎないのかと驚く。

 手のひらを互いに握り締め、志郎と律華は連れ添って部屋を出る。

「死ぬのは、怖いか」

「いいえ。私の怖れていた死は、もうなくなりましたから」

「……律華は強いな」

 隣で志郎が囁く。律華は狐の仮面を被る。

 狭められた視界の中央には志郎の横顔が見えていた。

 律華は叫び出したくて堪らなかった。自慢したくて堪らなかった。

 どうだ、バケモノになったけれど、私は幸せを手に入れたぞ。

 手を引かれたことで彼女は歩き出す。

 この先に控える未来は決して穏やかなものでないことは分かっていた。けれど、志郎と連れ添うなら、苦難の路も慣れ親しんだ郷里のように歩めるだろうと確信していた。

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