悲劇の末路は、貴様に託す。

 空は澄んでいた。藍色の薄闇にかかる雲もうっすらと空をぼかす程度でしかなく、今夜は月がよく映えそうだと、土御門幽玄はごま塩頭を掻きながら思う。

 反して、目前の状況を鑑みるに、幽玄の眉目には訝りが刻まれていく。

 神楽幽閉の寺院を収める小高い山。澄み渡った景観の中で、そこだけが霧に覆われていた。鼻先までを近付けることでようやく一寸先の塀が見えるほどの、濃密な帳。

 幽玄だけでなく、他に集った退魔師達もどこか腰の引けた様子を見せる。

 彼等に課せられた使命は、神楽の捕縛。近衛志郎の離反はすでに知るところであり、あとは宗絃からの一声を待つのみだった。

「指示はまだか」

 幽玄の傍で禿頭の男が苛立たし気に叫ぶ。幽玄は肩を竦め、無精ひげを退屈そうにいじる。

「そう慌てなさんな。離反した小僧は宗絃様の元に向かった。残るは非力な小娘と妖狐のみ。少しばかり突入が遅れたところで、大勢に影響はなかろう」

「その程度のことは理解している。小生が言いたいのは、あの汚らわしい小娘の四肢を、一刻も早く引き裂いてやりたいということだ」

 その言葉に幽玄は眉を顰める。正確には、眉目を歪めて醜怪に笑う。

「あぁ。早く、あの哀憐な顔を歪めてやりたい」

 恋焦がれるように、幽玄は霧の帳へと手を翳す。そして、ふと指先を強張らせた。

 濃密な灰色の幕に混じり、青白い揺らめきが見えたために。

(炎? なぜ、このようなところに)

 そこまでを茫漠と考え、弾かれたように背後を振り返って叫ぶ。

「結界が破られた!」

 直後、霧の帳は張り裂けた。幽玄の傍らを二つの影が通り過ぎる。それは藍色の狩衣を身に着けた青年であり、狐の面で顔を隠した少女であった。

 宗絃の元に向かったはずの青年がなぜここにいるのかは分からない。ただ、彼は神楽に連れ添い、幽玄に背を向けて駆けている。逃走している。神楽を庇いだてようとしている。

 それだけの事実が思考に刻み込まれたところで、幽玄は大腿筋を蜂起させた。一人、一人と動き出す。追走の波は言葉もなく伝播して、背後の寺院、霧の帳の渦中に注意を払う者などいなかった。彼等は揃って眼前の逃走者に群がった。

 愚か。それは実に軽率な行動だった。彼等が群がったものは幻術を纏った妖狐でしかなく、彼等が目当てとする少女は、帳の中で息を殺して潜んでいたのだから。

「餌に食いついた。俺達も行くとしよう」

 寺院の庭で、志郎は立ち上がる。律華の姿は見えず、彼は傍目からは一人だった。

 代わりに、彼の隣には一体の傀儡が浮かんでいた。馬の頭を持ち、腹部が大きく膨れ上がった傀儡だ。コツリコツリと腹の辺りから音がして、木馬の虚ろな目が揺らいだ。

「気を付けてください」

 傀儡の内側から声が聞こえ、志郎は霧の彼方を見つめながら応える。

「あぁ。早速、まみえなければならないようだ」

 視線の先で霧が膨らみ、己を宗絃の人形だと称した女性、トガメが姿を現す。

「惑わされなかったのはアンタだけだ」

 或いは、そもそも葛白の幻術を目にしなかったか。それでも土御門の屋敷から霹靂の如く駆け付けたことを加味するに、彼女もまた、退魔師として大成した器であることに違いない。

「神楽を引き渡せ」

「アンタ達に殺させるわけにはいかない。俺は揺るがないよ」

「貴様が一人で背負うというのか。傲慢は夢でのみ唱えろ」

「律華をヒトとして殺すなら吝かではない。だが、アンタ達は違うのだろう」

「人の世の憂いを払うためだ。そのような瑣末な問題など――」

「瑣末、か。そうだろうな。あのような地獄を拵えておいて心が痛まない連中だ。小娘一人ばかりの苦痛など目を逸らしても問題がない。むしろ、その方が――」

「「合理的だ」」

 言葉が被る。トガメは表情を隠さず、志郎の貌には苦渋が滲む。相容れない。そのようなことは理解していたはずなのに、志郎の心には僅かばかりの未練があった。

 ほんの一点でも構わないから、良心が残されていてはくれないか。

 無駄な期待だったと思い知らされ、志郎は嘆息を吐き、懐中から霊符を取り出す。手中で青白い焔に呑まれた霊符は、次の瞬間には一体の傀儡へと姿を変えていた。馬の頭に膨らんだ腹部、初めから彼の隣に浮かんでいたものと、寸分違わぬ造形だ。

 二体の傀儡は志郎を中心としてぐるぐると回り始める。それは彼を守っているようでもあり、どちらが初めのものだったのか分からなくさせるためのようでもあった。

「律華を奪いたいか」

 静かに切り出す。傀儡によって見え隠れする志郎の貌には、冷たい影が落ちていた。

「ならば俺を殺すことだ。ヒトを殺めるのは、得意なんだろう」

 懇願に目をくれず、悲痛の叫びにも心を動かさず、抵抗のできない少女をいたぶってきたように、彼のことも殺せばいい。彼の命など、土御門家には如何程の価値にもならないのだから。

「だが、忘れるな。俺は黙って噛みつかれる気などない」

 律華は抵抗を諦めてきた。それが神楽を宿していることは事実なのだからと自己を軽んじてきたためか、無力故に抵抗ができなかったからなのかは分からない。

 されど、そんなことは今となっては関係がない。

 なぜなら、律華の隣には志郎がいる。

 その手に刃がないというのなら、彼が刃となる。命を賭して、楯となる。

 終わりを迎えるその時まで、あの子の心を癒して欲しいと頼まれた。避けられない終わりを背負った身だけれど、せめて人間らしく終わらせて欲しいと打ち明けられた。

 優しく殺して欲しいと――懇願された。

 綺麗事を並べたところで、過程をどれだけ取り繕ったところで志郎が為そうとしていることは律華の殺害だ。彼女から未来を奪い、幸せも悲しみも、安らぎも苦しみも、何もかもが失われた晦冥へと突き落とす行為だ。故に誇れることなど何もなく、その先に得られるものなど何もなく、彼はただ偽善に身を窶すだけだ。

 それでいい、と志郎は思う。この身が律華のためになれるなら本望だ。

 トガメを睨め付け、傀儡へと手を伸ばす。警戒を強めたトガメが僅かに腰を落とした刹那、傀儡の口が開き、落雷を束ねたような轟音と橙赤色の閃光が沸き上がった。

 傀儡の口から無数の鉛玉が吐き出されていく。音を聞いたのが先か、閃光を目にしたのが先か、それとも鉛玉に肉を屠られたのが先か。トガメが攻撃を受けたと認識したときには、すでに彼女の体は無数の鉛玉を被弾していた。

「殺されるつもりで、殺しに来い」

 意識が混濁する中でトガメは志郎の声を聞いた。急所は全て外れている。否、外された。そうはいっても腕と足を蜂の巣にされたのだ。立ち続けることなど適わないはずだった。

 だが、彼女の姿は志郎の視界から掻き消える。

「そうほざくなら、もっと殺すつもりで来い」

 斜め後ろから声が聞こえ、志郎は振り返る。そこではトガメを宙を舞っていた。地面と平行になるまで上体を傾け、全身を大きく弓形に反っている。ほんの僅かばかり間を置くと、しなやかな鞭の如く脚を振り下ろした。

 咄嗟に頭上で腕を交差させて受け止め、堪らず目を瞠る。予想される人間の足とは大きくかけ離れ、彼女の足は重く、硬かった。ミシリと、骨の軋む音が聞こえる。

 危機を察知した志郎は傀儡を操る。木馬の傀儡はトガメの眼前に飛来するとまたもや開口する。トガメの判断もまた速い。志郎の腕を踏み台にして飛び退き、傀儡から遠ざかる。射出された鉛玉はトガメの残影ばかりを追いかけ、辺りに土煙を燻らせるのみだった。

 鈍痛を発する腕を眇め、折れてはいないことを確かめると志郎はトガメとの距離を測る。

「気になるか」

 嘲弄するようにトガメは言った。

「随分と人間らしくない躰をしているものだ、とは」

「言っただろう。私は宗絃様の人形だと」

 引き裂かれた衣など無用だと言うかのように、トガメは両腕と股より下の狩衣を破り捨てた。露出された彼女の肢体は人間のものと呼ぶには相応しくなく、そう、それは土でできていた。鉱石を混ぜ込んでいるのだろう。だからこそのあの重さ、あの硬さ。音速の鉛玉を喰らってなお揺るがない頑強さということだ。

「その躰、望んで得たものなのか」

「何が言いたい。よもや宗絃様に体を弄られたのではなどと邪推してはいないだろうな。誰かにかどわかされたわけでも、強いられたわけでもない。この意志は借り物などではない」

 切迫した口調で唱え、トガメは左腕を持ち上げた。

「神楽に殺されたあの人の無念を晴らすため、私が望んで手に入れた力だ!」

 彼女の左手は気魄を表すように握り締められる。

「……神楽が憎いのか?」

「異なことを聞く。貴様は憎んでいないとでも言うのか。貴様とて、神楽に親兄弟を殺されただろう。それどころに収まらない。神楽に一族郎党を根絶やしにされたではないか」

「まぁ、そうだな。憎んでいないと言えば嘘になる」

 志郎の言葉が僅かに揺れた。

 そう、憎んでいないと言えば嘘になる。むしろ、狂ってしまいそうなほどに憎んでいる。

「だけど――」

 されど、志郎と土御門家で明確に異なるところがあるとすれば、

「憎むべき相手を間違えてはいないだけだ」

 志郎は律華を憎んではいない。神楽の容れ物に、怨嗟を募らせてはいないだけだ。

 それ以外の点では何ひとつ土御門と違わないことを自覚している。律華に殺してくれと頼まれ、逡巡を抱くこともなく頷けたのは初めから殺すつもりだったからだ。律華を無為に傷付けることはしない。彼女を因縁から解放してあげたい。叶わぬユメだとしても、彼女に生き永らえて欲しいと願う。けれど、それと同等に、ましてやそれ以上に神楽を殺してやりたい。

 父を、母を、一族を奪われた。

 幼くして一人になった。

 それは全て、神楽のせいだ。

 神楽を憎んだ。妖を憎んだ。

 殺してやりたいと願った。此の世から駆逐してやりたいと希求した。故に鍛錬を重ねた。

 奇しくも彼には才能があった。何者よりも類稀なる、天賦の素質が備わっていた。

 志郎の行動理念は至極単純だ。弱者を守るためでも、ヒトの世に安寧をもたらすためでもない。どれだけ清廉に装ってみせたところで、彼の本質は妖への復讐に囚われている。

 そんな折に神楽が生きていることを知り、神楽に近付く機会を得た。

 復讐の心は猛り狂い、怨嗟は激しく燃え上がった。殺してやる。誰にも譲りはしない。神楽を殺すのは俺だと、それだけを胸に姫神村へと向かい、律華に出会ってしまった。

 予想外だった。これが志郎の意志を挫くために仕組まれたものだというならば、その効果はあまりにも覿面に過ぎた。地獄の中で息も絶え絶えに臥していたのは、庇護欲をそそる少女だったのだから。志郎の心は誤作動を起こし、少女を地獄から連れ出した。結果としてそれが一人の無辜を救うことにはなったが、彼の行動はエラーに他ならなかった。

 神楽を殺す。そのためには何を犠牲にしてもよいとの見識が揺らいだ。

 それは、土御門家の理念と決裂した瞬間だった。

 神楽は殺す。けれど、そのために律華を犠牲にすることはしたくない。

 神楽への怨嗟と復讐心は何ら変わることなく、その手段だけに変化が生じた。

「アイツは人間として終わらせる。復讐を果たすのは、その後だ」

 志郎の言葉を受け、トガメは嫌悪を露わにした。彼女には我慢ならない。本心では抑え切れないほどに神楽を憎んでいるくせして、その容れ物には無窮の情愛を注ぐ志郎の在り方が。

 あまりにも綺麗すぎて、あまりにも高潔で吐き気がする。

「甘っちょろいことを言うな!」

 恫喝。トガメは醜悪なまでに貌を歪め、志郎へと襲いかかる。腕を大きく振りかぶり、整合性など微塵も感じられないでたらめな挙措で殴りかかる。

「人間はそんなに強くない!」

 右の大振り。拳は虚空のみを切り裂く。

「憎んでいるのに割り切るとか、そこに仇がいるのに堪えるとか、できるはずがない!」

 よろめいて、全身を御し切れずにまた空回る。トガメの攻撃に精彩は見られない。

「そんなの……あっちゃいけない。誓ったのよ、あの人の墓前で……神楽を殺すと。憎しみを忘れないと、あの人に誓ったんだ!」

 ようやくトガメの拳が志郎に触れた。けれど、それは受け止められただけ。

「弱いなんて……痛いくらいに」狂おしいほどに。「知っている」

 トガメの拳を握りながら、志郎は心を震わせ、語りかける。

「弱いから死んだ。弱いから守れなかった。弱いから――傷付けた」

 律華を傷付けたのは、神楽への怨嗟などではない。

 感情を律することのできなかった人間の脆弱性だけが、彼女を貶めた。

「だけど、俺達には力がある。たとえ妖に敵わなかったのだとしても、神楽に為すがままに奪われたのだとしても、今のアイツよりは強い」

 神楽と宿業を共にした、あの少女よりは強い。

 なればこそ、彼女を守ることはできなかったのか。

 志郎の訴えを受け、トガメは全身を痙攣させる。俯いていた彼女の顔が恐々と持ち上がり、その瞳は、暗く濁り切った彼女の瞳は痛ましいまでに揺らめいていた。

「もう、無理なのよ」

 トガメは言う。

「もう、私達は引き返せない」

 悲劇の夜に奪われ、神楽へ憎しみを抱いたときから土御門家は歪み始めた。初めはまだ引き返すこともできただろう。けれど神楽を宿した少女と出会い、真実を知り、目を背けることを選び、少女への凌辱を許してしまった瞬間から、すでに退路など残されていなかった。

 もう、狂ったままで進むしかなくなっていた。

「近衛志郎。もしも貴様にできることなら、土御門の呪縛を断ち切ってくれ。私達は……私はもう、自分の力ではどうすることもできない。――悲劇の末路は、貴様に託す」

 トガメの口の端が僅かに笑ったように見えた。そして、そのまま彼女は沈黙する。

 瞳の揺らめきも感情のかげりも感じることはできず、彼女はまさに人形へと成り果てる。

 志郎に掴まれていた拳が強引に動き出す。女のそれとは思えないほどの腕力に押され、志郎の体は宙に舞い上がった。触れ合った状態で反動も付けずに投げ飛ばされたことに多少の驚きはあったが、落ち着いた挙動で体を捻って着地する。そして、宗絃の言葉を思い出す。

「妖を殺すためだけに作られた人形だと思っている、か。惨いことをする」

 呆れた風に頭を振り、転じて気を引き締めるとトガメに対峙する。彼女に言葉は届かないだろうが、それでも志郎は彼女を見据え、告げる。

「止めるさ。そのために手に入れた力だ」

 手掌を横薙ぎに振るう。一体の傀儡がトガメに躍りかかった。途切れ途切れに赤橙色の閃光が走る。傀儡の口から吐き出された鉛玉は唸りを上げながら大気を切り裂いて進み、トガメへと到達した瞬間に大きく軌道を変えた。

 叩き落されたのだ。触れれば肉を削ぎ落とす鉛玉も、トガメの腕を貫くことはできない。

 トガメは懐中を弄り、大量の霊符をばら撒く。豪腕符を始めとする種々の身体呪装を纏い、大地を踏み蹴った。あまりにも強大な膂力に押し負けて大地は撓み、彼女の爪先は土中に沈み込む。そして、一気に加速する。瞬きひとつさえも介在できないほどの時間の内に、トガメと傀儡の間隙は、零にまで縮められる。

「アァ――ッ!」

 咆哮が響き渡り、彼女の拳が傀儡を捉える。地面を舐めるように吹き飛ばされ、横転する傀儡をトガメは追走する。

 閃光が煌めいた。傀儡からだ。その口がどちらに向けられているのか把握することさえも困難であるはずなのに、閃光は正確にトガメへと延びていく。

 トガメは大地を横に踏み蹴った。彼女の立っていた地面は抉れ、土柱が上がる。彼女の膂力は傀儡の運動性能を凌駕していた。射出される鉛玉は亜音速に迫りながら飛来するというのに残影に追い縋るだけで精一杯だった。

 傀儡を起点として真円を描くようにトガメは駆け続け、ふいに動きを停止させると真円の中央へと進路を切り替える。大袈裟に動き回ることはもうない。首を傾げ、半身を捻るといった最小限の動きのみで飛来する傀儡の攻撃を避け仰せ、トガメは再度傀儡へと肉薄した。

 小さく反動を付け、両手を大地に付けて彼女は倒立する。自由になった脚は横薙ぎに振るわれ、傀儡が鉛玉を吐き出そうと口を広げた刹那のこと、その頭部を粉砕する。木っ端が舞い上がり、傀儡の頭は彼方へと飛ばされる。ただの人間であれば、それで片付いたことだろう。されど相手は樹木と鋼で造られた人形だ。中枢の欠損を厭うことなど、あるはずがない。

 傀儡の細長い腕が動く。ただの張り手だと見做したトガメは、避けずに受け止めることを選択した。その判断が誤りだったと気付いたのは、傀儡の手掌を喰い破るようにして短刀が飛び出した瞬間だった。回避は間に合わず、トガメの頬を短刀が掠める。

 鉛玉を跳ね返す堅牢な手足が幻覚だったのではないかと疑うほど、トガメの人間である部分は脆弱だった。頬は流れるように切り裂かれ、真っ赤な鮮血を迸らせる。宗絃の虜囚であるトガメが苦痛を示すことはなかったが、欠損を与えられたことに危機感を募らせたのか、傀儡から距離を取った。一足飛びで後退り、そして、そこで崩れ落ちた。

 動悸が変調している。視界が霞む。神経回路が搔き乱されでもしたのか、四肢は動かない。

 トガメは不思議そうに瞳を泳がし、自分の頬から零れた血潮が胸元を汚すことを見つめ、

「毒カ」

 傀儡の手掌から伸びる短刀を凝視した。

「まだ話せたのか」

「コノ人形ハ自我ヲ失ッタダケデ、思考ヲ失ッタワケデハナイ」

 そう応えたのがトガメによるものか、宗絃によって組み込まれた応答パターンであるのかは分からない。

「重ネテ訊ネヨウ。コレハ、毒ナノカ」

「ああ、毒だな」

「死ヌノカ?」

「そこまで強力じゃない。精々、意識を失うだけだ」

「ソウカ。……ヤハリ、オ前ハ、甘っちょろいな」

 人形の語気が僅かに人間味を帯びる。次の瞬間、彼女は動かないはずの四肢を震わせた。気合いや執念といった類の話ではなく、志郎が傀儡を操るように霊力を糸状化させて己に絡ませて動かしているだけだったが、それはまさに執念のなせる業に違いなかった。

 トガメが襲いかかるもの。それは頭部を欠損した傀儡でなければ、その御者である志郎でもない。彼の横に控える、もう一体の傀儡だった。

 ずっと、不思議だった。どうして志郎は自分が現れてから二体目の傀儡を喚び出したのか。戦力を増強しておきながら、なぜ一体しか戦闘に加わらせないのか。戦力を温存しているのか、高を括っているのか。前者はまだしも、それは適当ではない気がしてならなかった。

 戦闘のみに振り切られた思考の全てを稼働させて考え、トガメは結論に辿り着く。

 志郎が守っているものは何か。守ろうとしているものは何なのか。

 それは神楽の容れ物に他ならない。ならば、志郎の行動原理、行動理念は全てそれに収束する。彼が庇いだてようとするところに神楽は隠されている。すなわち、彼の傍らに控える傀儡の内部にこそ――

「我が仇敵は、隠されている!」

 トガメの四肢、胴体に刻まれた身体呪装の紋様が炯々と輝きを発する。この一撃に霊力の全てを費やさんとするばかりに彼女の膂力は跳ね上がり、その一歩で大地が揺れる。

 志郎の頬に粘ついた汗が浮かんだ。トガメはもはや、天災に等しい。天災に抗おうとする人間などいない。たとえ志郎がそれに反する存在であったとしても、天災を前にした人間の反応はシンプルだ。ただ、僅かばかりに彼の畏怖を軽減させるものがあったとするならば、それは敵意の矛先が自分ではなく傀儡に向けられていることだった。

 目で捉えることはできない。轟音が鳴り響き、トガメの姿は掻き消えた。僅かでも残影に縋ろうと首を捻る。そこには粉砕される傀儡の姿があった。頭を捥がれるような生易しいものではない。傀儡の頭部に直撃したトガメの拳は樹木を破砕させ、鋼を断裂させ、もはや原型を探ることが愚かしいほどに破壊せしめた。完膚なきまでに壊し尽くしたと言ってもよい。何かが隠れる余地など――神楽を隠匿する余地など微塵も許されずに傀儡が内包していた部分は暴かれ、されど、そこに少女の姿はなかった。

「なぜ……」

 トガメは呻く。傍らの青年へと瞳をスライドさせ、彼の貌が些かたりとも狼狽を示していないことに人形は察する。全ては、逆だったのだ。志郎に常識は当てはまらない。定石を踏むような輩ではない。隠すべきものを露呈させ、庇うべきものを危機に曝していた。

 それでいて、守り通してみせると言わんばかりの、傲慢な自負。

 これが、神楽を殺すと宣言しながら、その器の尊厳を穢させはしないと奮起した人間か。

 尽きかけの霊力を搔き集め、今度こそ神楽の元へと踵を返そうとしたトガメの眼前には、焔を纏った拳が浮かんでいた。傀儡〈腕〉。餓鬼を焼き尽くした、煉獄の豪腕。

 大気が圧迫する。振り下ろされた拳を受け止めようと、トガメは拳を打ち合わせた。途端に右腕が捥がれた。土人形の腕を失ったところで彼女に痛みはないが、額には汗が滲んだ。

 噴き出た汗が目に入り、思わずトガメは瞑目した。それが失策だったと気付いたとき、彼女の肩には志郎の手が重ねられていた。花を手折るような軽挙で以って、付け根から左腕が捥がれる。続いて志郎の体が沈み、彼の足刀が腿を穿ち、左足が軽くなった。当然のように右足も。

 四肢を失ったトガメの胴体は束の間だけ空中に静止して、落下した。志郎に受け止められたことで頭を打ち付けることはなかったが、彼女はもう己の意志で動くことはできない。毒に侵された体を霊力の糸で操ったところで、操るものがすでになくなったのだから。

 されど、武器はまだ残されている。人体で最高硬度を誇る原初の武器、歯牙が。

 あたかも獣の如き形相でトガメは牙を剥き、志郎の頸動脈を喰いちぎろうとした。

「もう、眠っていてくれ」

 狂乱に囚われたトガメを宥めるように志郎は語りかけ、細く、息を吹きかけた。

 それは甘美な香りがした。脳髄を溶かしてしまうような、蠱惑的な芳香だ。反抗の意志を示していたトガメの瞳から、星が落ちる。

 彼女の虚脱を認め、寝かしつけるために志郎は膝を屈める。

「役に立たん人形だ」

 そして、かの嗄れた声を聞いた。

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