志郎の習性

背負って欲しいと願う心

 土御門家の招集に応じる、僅か前。

 早々に昼食を切り上げた律華は志郎の様子を窺い、思わず眉を顰めた。

 一枚板の顔面を持った傀儡を携え、藍色を基調にした、頸から手足の先までを隙間なく覆う狩衣を着込み、反してやけにだぼついた袴を履いている。その姿に話し合いに応じる雰囲気を垣間見ることはできず、荒事に挑むときの剣呑さだけが付き纏っていた。

「志郎さん、それは何ですか」

「今夜、凪の満月が訪れる」

「そうですか。ようやく、ですね」

 声を震わせたり、動揺を見せたりすることはなかった。けれど、やけに落ち着いた態度が却って律華の異常を知らせる。凪の満月の来訪は、すなわち彼女の終焉を意味するのだから。

 神楽を宿し、迫害に身を窶した八年間を思い、死の訪れを歓迎しているのか、それまでの決意に反して生へ執着しようとしているのか、彼女の胸中を推し量ることは誰にもできない。訊くことさえも許されない。それは、彼女への紛うことなき侮辱だ。

「それでは、私はこれから土御門家に赴けばよいのですか。それともここに?」

「……土御門に律華を引き渡すかどうかは、まだ分からない」

「先程の報せには、何も指示が記されていなかったのですか」

「それどころか、凪の満月が訪れることすら書いてはいなかったよ」

 不思議そうに目を瞬かせた律華にふと笑みを浮かべ、志郎は風呂敷包みを差し出す。彼女は首を捻りながらも受け取り、その細い指で結び目を解いていく。そして、包まれていたものを認めると彼女は貌を上げ、これは何ですかと揺れる声で訊ねた。

「葛白に用意してもらった。もしも嫌なことを思い出させたなら、すまない」

「いいえ。驚きはしましたが、そうですね、懐かしいです」

 月明かりのような光沢で覆われた、白銀の狩衣と狐を模した仮面。

 風呂敷包みの中身は、かつて律華が妖討伐に赴く際に着ていた装束だった。

「……俺は、律華に人間として終わって欲しい。矜持を踏み躙られ、人間としての尊厳を失ったままでこの世から離別することだけはあって欲しくない」

「それが、この装束を用意した理由ですか?」

「俺はこれから土御門家に赴き、律華が人間である事実を伝える。その上で訴えるつもりだ。律華を人間として終わらせて欲しいと」

「それは、危険な賭けじゃと思うがな」

 いつから部屋に入り込んでいたのか、律華の肩越しに仮面を摘まみ上げ、葛白は言う。

「神楽に丸め込まれたと見做され、捕縛されることもあり得るじゃろう」

「……神楽に丸め込まれたとは、すでに思われているだろう」

 志郎は大仰に肩を竦め、自分の右目を指し示す。訝しみ、目を凝らした律華は志郎の瞳に浮かぶ朱線を認め、納得したのか首を縦に振った。

「ずっと見られていた。律華をあの部屋から連れ出したときから」

「今も見られておるのか?」

「いいや、今は大丈夫だ。どちらにせよ俺が律華に友好的である事実は覆せない。それならば理由を明かし、土御門家に冷遇の改めを願い出る方が妥当だろう」

 けれど、と志郎は続ける。彼の脳裏には凄惨な地獄、神楽幽閉の檻が思い起こされていた。

「俺は土御門家を信用していない」

 あんな地獄を作り上げ、無抵抗の少女を遊戯のように殺すことができ、それで笑っていられる人間のことをどうやって信用すればよいものだろう。唯一の可能性である宗絃のことさえも志郎はあまり知らないのだから。

「土御門家がどのような手段で神楽を殺そうとしているのかは分からない。だが、もしもそれが律華を必要以上にいたぶるものであり、俺が真実を告げても覆らないとしたら――」

 言葉を区切り、志郎は揺れる挙動で律華に手を差し出す。節くれた武骨な手のひら。この先に待ち受けるのであろう離反を予感してか、その指先は僅かに強張っていた。

「俺と一緒に逃げてくれないか」

 律華の表情がくしゃくしゃに歪む。ヒナゲシの髪の向こう側で、揃って赤の瞳が揺れる。

 志郎に背を向ける。彼の眼差しは熱く、ちくちくと胸に刺さる。

 今さら何を言うのかと笑われてしまうかもしれない。けれど、律華には迷いがあった。このまま彼についていってしまえば、突き放すことなく彼に依存してしまえば、私は彼を殺してしまう。そんな思いが彼女の胸を絞め上げる。退魔師として未熟だったと見做されるだけなら救いはある。けれど、もしも自分をかばい、その結果として共に逃走などした暁には、志郎は妖に肩入れした愚者として殺されかねない。

 律華の抱いた懸念は決してあり得ないことではない。なぜなら、土御門家の人間がどこまでも冷徹になれることを、彼女は身を以って知っているのだから。

 だけど、と律華は思う。

(殺してくれと志郎に願ったのは、私。志郎はただあのときの約束を守ろうとしてくれているだけ。それよりも、もっと前から気付くべきだった。私を一族郎党の仇だと思いながらも迫害することはなく、地獄から連れ出してくれたときから、志郎はそういう習性なんだって)

「志郎さん、その道は、あなたまでも危険に晒すものです」

 どうせ意味はないと知りながら、律華は志郎に訴える。神楽に魅せられた愚者として終わるくらいなら、一端の退魔師として生き永らえてくれないかと。

 けれど、予想が裏切られることはなく、志郎はそんなことかと笑う。

「あり得ないと、律華がそう表した通りの人間だ。だから心配はいらない。人間としての矜持さえも失った輩に後れを取るほど、俺は無力というわけじゃない」

 律華は息を呑む。それが、心が震えたためかは分からない。

「着替えてきます」

 短く応え、足早に部屋を出ていく。自分が志郎の重荷になっていることは痛いほど分かっていたけれど、背負って欲しいと願う心を捨て去ることはできなかった。

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