呼び出し
姫条家の屋敷に赴いてから七日、志郎は寝食を忘れたように講堂に籠っていた。
理解したはずの術式は、果たして発動にはほど遠く。糸の端を掴めたように感じるのも束の間、詠唱は空疎な音の羅列へと成り下がり、霊力の残滓だけが揺らめきながら消え失せる。
理論を確かめ直すように、繰り返すこと数え切れぬほど。
妖力をその身に宿さんとした姫条の秘術。霊力と妖力の親和を旨とする未知の術式。
数多の術式を会得してきたという自信は何の役にも立たず、志郎はいっそのこと笑みを浮かべる。これが、律華の術式。無名の英雄を輩出した、姫条の最奥。
志郎が何をしようとしているのか。何に抗おうとしているのか。律華はとうに悟っていたが指南を言い出すことはなかった。ただ、見守る。自らの身命を惜しむ気持ちがなかったといえば嘘になるが、志郎のやろうとしていることは人類への叛逆そのものだ。
神楽を道連れに死ぬことを決めた少女は、生存の道に希望を寄せることをよしとしなかった。
「志郎さん、食事にしましょう」
そう話しかけて、ようやく志郎は律華へと振り返る。
潰れそうに、笑みながら。
その日もまた、午睡の時間になってようやく食事が始まる。食事の時間だけは何も変わることなく、人間と、半妖と、妖狐が気兼ねなく言葉と心を交わす。
けれど、その日は違った。団欒の輪を切り裂くように、一体の式神が届けられた。志郎は滑空する式神を箸で器用に掴み取り、折り畳まれた霊符を開く。
「志郎さん、行儀悪いですよ」
「勘弁してくれ」
指摘を受けたことに決まりが悪そうに肩を竦め、認められた文面に目を走らせる。
「また妖が現れたのか?」
「まだお昼じゃない。妖が現れるには早すぎるでしょう」
「何を言うのか、この子は。そこの昼餉を支度したのは人間ではなかろうが」
「シロは妖じゃなくて友達だからいいの」
「妾の威厳も地に落ち切ったものじゃな。それで、小僧、何と書かれておった?」
「……妖ではない、が、土御門からの呼び出しだ」
式神を折り畳み、志郎は目を伏せる。
「今すぐにですか? まだお昼が終わっていないのに」
律華の問いかけに、志郎が即座に答えることはなかった。彼は静かに俯き、軽く目を瞑り、その眼差しはここではないどこか遠くを眺めているかのように虚ろなものだった。
「……志郎さん?」
反応のない志郎の様子を訝り、律華は手を伸ばす。けれど、その指先が肩に触れる前に志郎の瞳は光彩を取り戻し、ゆったりと律華に向けられる。彼に迫る形で腰を浮かせていた自分の姿をまじまじと見つめられ、律華はむず痒そうに頬を染める。
「大丈夫、昼飯はちゃんと食べるよ。ただ、少しだけ準備をしてくる」
いつになく落ち着き払った様子で志郎は応え、立ち上がり、律華の頭を軽く叩くと部屋を出ていく。その背中を目で追いかけながら、乱れた髪へと指を絡ませた。
「やっぱり、悪い報せだったのかな」
「書いてあることだけが報せとは限らないじゃろう? あの小僧は、目も良いようだしな」
「目? 視力?」
「何でもないよ。ほれ、座りなさい。二度も温め直すのはごめんじゃ」
平然と味噌汁を啜る葛白の隣に腰を下ろしたものの、律華の脳裏には志郎の曖昧な態度が引っかかり、どうにも離れずにいた。
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