アンタ達に殺させるわけにはいかない

諦めた未来

 餓鬼の襲来から一夜が過ぎ、姫神村は濃い霧に包まれていた。およそ三メートル先も見通せない悪条件を前にして、あの小僧は好都合だと言い放った。

「姫条の屋敷に行きたいとは、どういった心境の変化じゃ? それも、よりによってそんなものまで律義に被せたりしおって」

「本来、俺は神楽監視の任に当たっているはずだからな。能天気に村を散策しているところを土御門の連中に知られれば、少しばかり厄介なことになるだろう?」

 片穴の面を指先で撫で付け、小僧は窮屈そうに肩を竦めた。

 己の故郷さえも胸を張って歩けないとは、人間のしがらみとは何とも厄介なことだ。

「質問の答えがまだじゃな。小僧は、何をしに行くつもりじゃ?」

 黙秘を貫き通すならば案内する義理立てなどない。あの家は律華の故郷だ。部外者に我が物顔で踏み荒らされることなど、律華が許したとしても妾が認めない。

「退魔師の家系は、連綿として受け継がれてきた秘術を書物として残してきた。退魔師の殷盛を確かなものとするためにも秘匿は是とされなかった。それにもかかわらず、俺が知る限りでは姫条家の秘術に関する文献は見つかっていない。考えられる可能性は三つ。口頭継承のみを行っていたか、悲劇の夜に失われたか、或いは――――」

 小僧は足を止め、妾を振り返る。

「その異端性から隠匿されたか」

 鋭敏な眼差しで妾を睨め付け、小僧は何事もなかったかのように先を急ぐ。気を抜けば彼方へと遠ざかってしまう背中を追いかけ、妾は「三番目だ」と囁くように告げる。

「今さら隠しておく必要性もあるまい。姫条の術式は屋敷内に隠されておる。それを紐解くことを許されたのは律華を始めとする姫条の人間、それから姫条家の契約者である妾だけじゃ」

「それならば話は早い。そいつを見せて欲しい」

「理由を教えろ、小僧。あれは興味本位で覗くことは罷りならない姫条の深淵じゃ」

 小僧がすぐに答えることはなかった。姫条の屋敷がうっすらと霧に滲み出てきた頃合いで、胸中にわだかまる葛藤を吐露するように、反して躊躇いを拭い切れないままに喉を震わせた。

「死なせたくない。それではダメか」

 妾の貌は醜怪に歪んでしまったのだろう。侮蔑とも憐憫とも取れる視線を小僧へと注ぐ。

 危惧していた通りだ。小僧は優しすぎる。

「神楽を殺すと――……そのためには非情に徹すると律華に誓っていなかったか?」

「律華が死んだ暁にとも言っていたはずだ」

「何のために知ろうとする? やらずに後悔するよりやって後悔した方がいいなどと綺麗事をぬかすつもりでもなかろう」

「違う、後悔しないためにやるだけだ」

 小僧には諦めるつもりなど最初からないのだろう。しばしの沈黙を挟み、妾は姫条家の門扉を押し開ける。小僧は仮面を貌から外し、意外だと訝しむように訊ねる。

「案内してくれるのか?」

「勘違いするな。妾がこうしてやるのは可能性を育むためではない。小僧の胸中に愚かしくも芽生えた妄執を挫くために、希望など存在しないことを詳らかにするために行うのじゃ」

「それで充分だ。咲かすか枯らすかは、俺が決めることだ」

「口の減らない小僧じゃな」

 呆れ果てながら嘆息を溢し、屋敷の中へと進む。外門を跨ぎ、建物には入らずに裏庭へと回る。人の手が入らなくなって久しい。苔むした岩々と枯れ果てた大木、濁り水の池があるばかりの寂しい庭を指し示し、妾は告げる。あれこそが姫条家の秘術だと。

 庭があるだけではないかなどと、平凡な受け答えを小僧がすることはなかった。よく視えている。よくも悪くも、小僧は退魔師として紛うことのない天賦の才を宿しているのだろう。

 見果てぬ夢に翻弄されるのは、いつだってその境地に至れる可能性を秘めた者ばかりだ。

 そして、放浪の果てに夢見た世界が幻であったことに絶望するのも。

「幻術か」

「限りなく現実に近いがな。あれらは確かにまやかしじゃが、風が吹けば水面は揺れるし、火を放てば樹々は燃える。凡人が触れたなら水を掬って飲むこともできるじゃろう」

 小僧に手を出すよう促す。広げられた手掌に姫条の家紋をなぞり、指先で叩く。小僧の手が一瞬きだけ淡い燐光を宿したのを認め、妾は池に歩み寄る。

「小僧、付いて来い。忠告しておくが、僅かでも疑念を抱けば待ち受けているものは無残な死に様だ。絡め取られることのないよう、努々気を付けておけ」

 池に足を沈める。濁り水は肌を切り裂くほどに冷たく、着物に浸み込んでは躰を重たく感じさせる。外から見れば膝丈ほどの深さしかない池は中心に向かうにつれて深さを増し、十歩も進めば首から下が水に浸かってしまう。そこからさらに、踏み出す。途端に、それまでとは比べ物にならないほどの地面の落差により、全身が水面下に没した。

 暗転した視界が晴れ上がったときには、冷たい濁り水は跡形もなく消え失せ、小さな部屋が広がっていた。ずぶ濡れになったはずの衣服は僅かにも湿ってなどおらず、鼻腔を通り抜ける空気は澄んだもので、池の生臭さは感じられない。

「凄いな、あれほどまでの幻術は初めてだ。さぞ高名な術師がかけたのだろうな」

「……幻術だと割り切れなくなったときは溺死する仕掛けじゃったのだがな」

 目を輝かせて幻術の池を称賛する小僧を眇め、小部屋の奥を示す。

「あれが姫条家の秘術を記した書物じゃ。もはや止めはしない。好きに読め」

「ありがとう、葛白」

 小僧はなれなれしく妾の肩を叩き、書物を手に取ると腰を下ろして目を走らせ始める。無言で舐め尽くすようにページを捲り、所々で渋面を作りながら何事かを呟く。時計もなければ陽も射さない部屋では時間の経過は定かには分からないが、それでも腹を空かせたと感じるくらいには時間が過ぎたところで、小僧は「理解した」と言いながら書物を閉じた。

「理解したとは、律華を生かすなど夢物語であることを自覚したという意味で合っているか」

「いいや、そっちじゃない。術式を理解したということだ」

「読んだだけで会得したというのか⁉」

「いや、さすがに会得までは無理だ。術式の概念と霊力の扱い方、術を発現するための演算処理に見通しがついただけだ。発現はともかく使いこなせるかどうかは修練次第だな」

「それが容易にはできないから世の退魔師は生涯をかけて研鑽を積むわけではないか。読破のみで発現は容易にできると嘯くなどと、凡人の努力を嘲笑うようなことをぬかす輩は小僧が初めてじゃよ。……まあ、それはいい。理解したというなら自明の理じゃろう。おおかた、律華を優位に立たせたうえで神楽を再封印できればなどと考えていたのじゃろうが、姫条家の秘術はあくまでも自分自身に妖を封じるものじゃ。他人を容れ物にすることはできない。小僧が会得したうえに発展までも熟すというならば、少しは話も変わってくるだろうがな」

「あいにく、俺は一介の模倣者に過ぎない」

「なればこそ律華自身が封印するしか手はないわけじゃが、あの子に霊力は残されておらん。だからといって妖力に手を出そうものなら不死身の帝王を解き放つことになりかねない。そのような分の悪い賭けに挑むようでは本末転倒になりかねない」

「となると、凪の満月を迎えてからになるか」

 思案に耽り始めた小僧の額を指で弾き、妾は訊ねる。

「小僧は凪の満月についてどのように聞かされているのじゃ?」

「どのようにって……霊力が弱まり、妖力が脅威を増す夜のことだろう。ただでさえパワーバランスの偏った人間と妖の関係性は崩れ、妖の絶対的優位が訪れる」

「うむ、その通りじゃ。かつての悲劇の夜も凪の満月であったと言われておる。それではな、小僧、どうしてそれが神楽を不死から引きずり下ろすことに繋がると思う?」

 さしもの小僧もそればかりは考えたことがなかったのか言葉に詰まり、目を泳がせた。

 奇妙――奇を衒って妙である。妖が勢力を増すのが凪の満月である。ならば、神楽の不死性は却って強まらなければおかしいことになってしまう。

「答えはな、混ざり合うからじゃ」

「混ざり合う?」

「以前、律華と神楽は根源まで混ざり合っていると告げたが厳密には違う。今は姫条律華という人間の肉体に神楽という妖の核――魂が収められている状態じゃ。神楽そのものは失われておらず、それによって神楽の不死性が律華にも影響しておる。反して凪の満月を迎えれば、神楽は律華の肉体を完全に乗っ取り、肉体を持った妖の王として顕現することになる。問題は神楽が主導権を取り戻すための基礎となる存在が不死ではないということじゃ」

「死んでいく存在を取り込む。故に不死ではなくなり、俺達は神楽を殺す機会を得るというわけか。だが、そうなった暁には……」

 察しのよい小僧は表情を曇らせ、悔しそうに歯軋りをした。

「そう。律華はすでに失われている。小僧の道は二つにひとつしかない。神楽を解き放つリスクを承知の上で律華に妖力を使わせるか、神楽と成り果てた律華を殺すか。賢しい小僧のことなら、犯してはならない愚行について賢明な判断を下せることじゃろう?」

 律華に拘泥すれば、少なくとも人類を破滅の天秤へと載せることになる。

「愚か者だったなら、楽だったんだろうな」

 呼吸にもならぬ嘆息とともに瞳を伏せ、小僧は目頭を乱暴に拭う。

「人間は……」

 そして、憧れを掴みたいと切望するように切り出す。

「律華を神楽だと思っている。不死身の妖として、いつ目覚めるとも知れないと。それなら、もしも、律華が神楽を完全に封印することができたなら、迫害を受けることもなく人並みの幸福を得ることもできるんじゃないか。少なくとも、人間としての矜持さえも踏み躙られるような、あんな地獄で終わらなくても済むんじゃないかと思ってしまった」

 人間として生きたのだと語れる半生を、

 人間として終わるのだと誇れる終焉を、小僧は律華に望む。

 たとえそれが叶いようもなく、叶えることが罪になり得るとしても。

「諦めろ。それは――妾も諦めた未来じゃ」

 そう、妾とて願わずにはいられなかった未来だ。

「なんだ、似た者同士だったんじゃないか」

 小僧は腑抜けた笑みを浮かべて立ち上がり、姫条家の秘書を懐に忍ばせた。

「一応忠告しておくが、それは門外不出の書だぞ?」

「大目に見てくれないか? もう少しだけ、足掻いてみたいだけだ」

 期待を募らせるだけ、希望を得ようと足掻くだけ、末路の悲劇に嘆きを募らせるだけだというのに。反抗するだけ悲しみを増すだけだというのに。それでも、律華のことを心から想ってくれる小僧のような存在が律華を看取ってくれることには喜びを示すべきなのかもしれない。

 かつての凪の満月より八年、もうじき再来が訪れても不思議ではない頃合いだ。

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