人間でありたい
再生はとても唐突で、暗闇の中で電球のスイッチを入れるように視界は取り戻された。
志郎ったら、そんな
笑い出したくなる気持ちを抑え、私は両手で抱えている何かに目を下ろした。
あぁ、私の頭だ。姫条律華だった人間の頭だ。
「見ましたか、私がどうやって生き返るのか」
或いは、死に戻るのか。
ぎこちなく頷いた志郎は、いま動作している私の眼か、見開かれたまま動かない白濁の眼か、どちらを見つめればよいものか迷っているようにも見えた。
「悍ましかったでしょう?」
意地悪な質問だ。あまりにも酷い訊ねだ。
「そんなこと――」
そんなことはないとでも言おうとしたのかもしれない。けれど、彼は性根の部分から正直だ。苦悶の表情を浮かべて押し黙り、沈黙によって肯定を示した。
流血によって濡れてしまったシャツで手のひらを拭い、私は指先を髪に絡める。
「首を切り離されても生きていられるか? 以前、そう訊ねられたことがあります」
伏せた視界の中央で志郎の指先が微かに震える。淡々とした私の語り口調こそが、彼の心をいたずらに掻き撫でているのかもしれない。
「死をどのように定義するのか。そんなことは詮無いことですが、少なくとも、神楽はともかくとして
少しだけ澱んだ語気を正すために深呼吸を一度だけして、律華の首を志郎に突き出した。
「ご覧になった通りです。切り離されれば、生え変わる。人間にとっての核ではなく、より多く残された方を核として。骨を、神経を、肉を、皮膚を新しく作り直されて補填されます。それでは――もしも切り離されたものが頭部だったなら。新しく作られた脳は、脳によって形成される心は、かつての
生首を胸に埋めるように抱え、私は躰を小さく竦めた。そうでもしないと内腑の底から湧き上がってくる恐怖に心身を揉まれ、正気を失くしてしまわないとも限らなかったから。
「答えは否です。記憶を継承していても、感情の形を知っていても……よく似た殻を被っているだけで、人間の中枢が挿げ変わってしまえば私は私じゃなくなります」
押し殺そうとしていた震えはどうしようもなく膨れ上がり、私は胸を鷲掴みにする。薄い胸板の内側では心臓が荒れ狂っていた。肋骨に鼓動が響き、目の裏側にまで滲んでくる。
「み……」
唇の端だけを開き、引き攣った声を絞り出す。
「見たことが……ありますか。自分の首の断面から新しい頭が生えてくるのを眺めながら……死んだことが志郎さんにはありますか」
「何が言いたい」
「私は――……バケモノなんです。普通じゃない」
志郎に向けた貌はどんな表情を貼り付けていることだろう。
泣き出しそう? 醜怪に歪んでいる? 卑下している? それとも虚ろに染まっている?
違う。きっと違う。私の貌は、私はいま笑っている。笑いながら張り裂けそう。
出血多量で。
お腹に大きな穴が開いて。
糞尿を垂れ流しながら窒息して。
四肢を切り取られてダルマにされて。
死ぬよりも、そうやって終わってから生き返るよりも。
頭を失うことは恐ろしい。
頭が生え変わることによって生き返るときこそ、私が真髄のバケモノだと思い知らされる。
それはきっと姫条律華が完膚なきまでに死んだから。
胸に埋めるように抱き締めた、僅か四千グラムの私の根源。律華を形成していた肉塊。
「志郎さん。私はちゃんと、姫条律華の続きを演じられていますか?」
声が裏返った。それが涙を流したためだと気付くには、少しだけ時間が必要だった。
腐っても冬の夜。肌に吹き付ける風は冷たく、私の体は凍えのためにじんじんと熱を発していく。体の内側と外側の温度差は、肉体の震えをいたずらに助長させていく。
寒さに喘ぐこと。それは私がまだ生きていることを実感させるものであり、されど、その中枢が五分前のものとはすっかり別物であるという意識が心を束縛して離さない。揺らぐ視界の両端には志郎の掌が見えていた。それは何の前触れもなく動き始め、私の視界から外れ、次の瞬間には頬へと叩き付けられていた。意識もしなければ予想することもなかった志郎の行為に意識が動転する。決して強くはないはずの刺激は、私の脳を乱暴なまでに揺さぶった。
「少し、落ち着け」
ゆったりとした口調で告げられる。志郎は私の両肩に手をあてがうと、やわらかな挙動で私を抱き寄せる。私はそれに抗わず、志郎の胸の中に濡れた頬を沈めた。
「律華は魂の存在を信じるか?」
「……魂?」
「肉体と精神を結び付ける見えない絲。人智では作り出すことのできない生命の本質」
「精神と魂の境界はなに?」
「律華の言葉を借りるなら脳によって構築される心が精神となり、肉体に宿り、心のはたらきを司るものが魂だ。換言すれば姫条律華という生命の起源、根源の渦こそがそれにあたる」
「それは――同じものじゃないの?」
そんなのは言葉遊びじゃないの。
私はそのように投げかけ、志郎はそうかもしれないと返した。
それから、志郎は私を引き離す。彼も私から離れていってしまうかもしれない。そのように諦観を募らせた瞬間だった、瞼の裏で青白い火花が散る。眼球が裏返り、額が鈍痛に軋む。頭突きをされたのだと遅まきながら理解する。意想外に痛かったのか彼も歯軋りをしながら、
「普通じゃない? アンタは別物だって? ふざけんな!」
私を正面から見据えて罵倒した。ピシャリ、続いて頬を叩かれる。
「脳が挿げ変わるか。確かにそれは恐ろしいだろう。俺だってそんなことは経験したくない。それには同情するが、脳が生え変わった程度で消失するほどアンタの魂には何も刻まれなかったのか? 俺では足りないというなら葛白でいい。アンタは繋がりさえも失くしたのか?」
また頬を叩かれる。首ががくりと倒れ、私は力無く志郎を見上げる。沈静を常とするのだろう彼には似つかわしくないほど、感情を露わにして。その貌は苦しいまでの激昂に染められていた。顔を背けたかったからかもしれない。志郎は私を再度抱き寄せた。
その大きすぎる躰を小さく丸めて、痛いくらいに力強く、私の肌へ指を沈める。
「守れなくて、すまない」
その言葉は、予想もしていなくて。
「せめて終わるそのときまで、律華が辛い思いをしなくて済むようにと決めたのに」
それはエゴだ。私の悲しみは私のもので、誰かが自在に操れるものではない。
「結ばれた縁がなかったことになるなんてことは、言わないでくれ」
けれど、彼は私が失くしたつもりでいたものを私以上に大切にしていて。
「もしも、律華が繋がりさえも失くしたというならまたここから始めよう。その上で何度だって繰り返してやる。アンタは変わっていない。姫条律華のまま、俺の裡にいると」
「小僧の言う通りじゃよ。律華が何と言おうと、どれだけ認めたくないとしても、妾達は律華のことを憶えている。自分が信じられないなら、せめて妾達との繋がりを信じておくれ」
シロに頬を撫でられる。彼女は最後に私の唇へと指を触れさせ、自分の唇へと移した。
「律華の唇は甘いのう」
おかしな言葉を口にしてシロは笑った。その笑顔はとても切なく、空疎だった。
唇がどうしようもなく戦慄き、志郎の胸に縋る。彼の服をしわくちゃにするほどに握り締め、私は引きちぎれそうな心痛に堪える。気付かないうちに手中から離れ、宵闇の中へと転がっていった私の首を探す。あの、白濁した眼、機能を停止した私だった脳髄。私の狂気と恐怖を裏打ちさせる、悍ましさの象徴を探し、されど見つけ出すことはできなかった。
「私は――……バケモノです」
だけど、赦されるなら。それが罪ではないと言ってくれるなら。私は。
「人間で……ありたいです……」
「律華は人間だ。誰が否定しようとも、俺はそう思っている」
間髪入れずに告げられた言葉に、私はとめどない安寧を得たような気がした。
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