『首を切り離されても生きていられるか?』
台所へと向かった私達は、食材を前に、どちらが料理をするものかと頭を悩ませていた。
「……俺の料理の腕は憶えているか」
「酷い味でした」
「美味そうに食ってたくせに……」
「砂漠では、泥水にだって縋るものです」
「俺の料理は泥水か。そういうアンタはどうなんだ。他人を貶せるくらいには上手いのか?」
「私は八年間も幽閉されていたのです。花嫁修業に勤しむ余裕なんてなかったです」
「……確定の不味さを選ぶか、未知数の不味さに賭けるかだ。どちらにする?」
「私は不味いのが前提ですか……」
「訂正しよう。未知数の仕上がりに賭けるか、だ」
換言されたところで嬉しくはないけれど、実際のところ料理をした覚えなどない。蝶よ花よと育てられたわけでもなければ、肌が荒れるからと水仕事をさせてもらえなかったわけでもない。私はただ、妖を殺すためだけに研ぎ澄まされてきた刃だ。
「でも、妖を斬ったことはありますから、野菜だって切れるはずです」
「…………本気で言ってるのか?」
「ふざけただけです。ごめんなさい」
数多の刃物を握ってきたこの手は、未だ包丁の握り方さえ知らない。
「やれやれ、見てられんのう」
地を這うように声が響き、何も無い空間が旋転して実体を獲得する。それこそ妖しげな出現を絵に書いたように、私の友人は現れた。
「シロ!」
「妾は狐なのだから、犬っころのように呼ぶなと言っておるだろう、律華」
「えへへ、ごめんね」
シロは呆れ返ったように肩を竦めながら、天井をすり抜けて降りてくる。向けられた銀の双眸は沈着そのもの、白魚のような指先が、澄まし切った風情で包丁へと添えられる。
「どれ、妾が作ってやろう。妖の好みが人間のそれに合うかは分からんが、少なくとも小僧や律華が作るよりは、マシな仕上がりが期待できるじゃろうて」
「シロって、料理なんかできたの?」
「その辺りは年季の差じゃ。人間の寿命は長くても百年かそこらといったところか? 妾はその十倍は生きておる。経験を積んでおる。十七、十八の稚児には劣ったりせんよ」
泰然自若の面持ちで料理を始めたシロのことを、初めこそは疑いの目で見ていた。けれど、その手際の洗練されていること。下手に手伝いを申し入れる方が迷惑になると思い知り、私と志郎は台所の隅で膝を抱えた。
「何というか、形無しだな。妖に世話をしてもらうなんて」
「…………志郎は、妖は嫌いですか?」
「好いているはずがない」
それは当然だと、言わんばかりに。
殺されたから。奪われたから。人間と妖の関係は、決して交わることのない平行線だ。世界の構図は、人間という被害者を妖という加害者が取り巻く形で完成している。奴等が殺しに来るから、殺されないために戦う。奴等は親兄弟を奪いに来るから、奪われないために戦う。
絶対的な悪の枢軸、それこそが妖だ。
彼等は我が物顔で人間の集落を闊歩し、殺し、嬲り、奪い、喰らう。
大半の人間にできることは、ただ視ているだけ。息を殺して隠れながら、自分の親兄弟が惨殺されていく様を、目に焼き付けることしかできない。憎悪と怨嗟だけを胸に溜め込む。
戦争? 違う。これは生存への闘争だ。
略奪者から、その腕に掻き抱いた家族を守り抜くために。
なればこそ、寄せられる感情は限られていく。
半妖である私に寄せられた感情が、そうであったように。
「だが、全てを嫌っているわけではない」
突き放すような口調だったが、志郎はそう続けた。その瞳に映され、その言葉を向けられている者が誰であるかには触れず、私は膝を引き寄せる。
「私も。神楽は好きになれないけど、シロのことは大好き」
「どちらにせよ、明日から美味い飯にありつきたければ、葛白は大事にしないといけないな」
「そうですね。ゲンキンな共存精神だ」
結論から言って、シロの作ったご飯は文句のつけようもなく美味しかった。妖と半妖、人間が食卓を囲む奇妙な晩餐は日付が変わる頃まで続いた。晩餐の終わりを告げたものは誰かの満足したという声ではなく、窓の外から舞い込んできた、小鳥の姿をした霊符によってだった。
小鳥は志郎の手の上に停まると、一枚の紙へと変じた。言伝が記されているのか、志郎はしばらくの間だけ紙上に目を走らせ、怪訝そうに眉を顰めた。
「何か、悪い報せですか?」
「妖が現れたそうだ」
「そんなのはいつものことじゃ。土御門の人間が祓ってくれるから心配はいらんじゃろう」
「今回はそういうわけにもいかない。現れたのは餓鬼だ」
「餓鬼――腹を空かせた小鬼のことじゃったかのう。人間だろうが妖だろうが見境なく喰らおうと躍起になる節操のない下等な妖じゃが、あ奴等は――」
「数が多い、でしたよね」
「……一騎当千など、耳あたりがよいだけの幻想だ。数の暴力こそが奴等の強みであり、かねてから人間が下等な小鬼如きに手をこまねいてきた理由だ。どれだけ緻密な網を張ろうとも、奴等は必ず掻い潜ってくる。莫大な妖力の塊、妖の根源とも呼べる神楽を喰らうために」
少し考え込み、志郎は言う。悪いが晩餐はこれまでだと。
「迎え撃つ。律華を喰わせるわけにはいかない」
「妾も手伝おう。一人の手には、余るじゃろうからな」
志郎と葛白を見つめ、自分の無力さが恨めしくなる。神楽を封じるために生来の霊力を使い果たし、神楽を目覚めさせないために妖力を練ることもできない。
私は――戦うことを許されていない。
護られるほかにない。だが、護られるだけの存在でいるのは寂しい。
それでもその感情は表には出さない。出してはいけない。その思いは、たとえそこに本意がないとしても、私を護るために命を賭す人々を愚弄する行為に他ならないのだから。
手早く食事の後片付けを済ませ、私達は餓鬼を迎え撃つために庭に出た。
シロは相変わらず着崩した着物姿のままだったけれど、志郎は狩衣――妖討伐の際に退魔師が身に付ける衣装――を纏っていた。そして、貌には片眼だけが開けられた面を被せている。
「それは何ですか?」
「かつての姫条家と似たようなものだ。もっとも、姫条が貌を隠すことを目的としたのと違い、近衛が面を被るのは、それが誰であるかを識別するためだったが」
「識別……?」
「髪のひと房に至るまで妖に喰われた暁に、何を頼りにその残骸が俺であったのか知ればいい?
片穴の面を指で撫で付け、志郎はその奥の瞳を細めた。
「さて、役割確認だ。律華は囮――餓鬼を招き寄せるための生餌になってもらう。俺と葛白で釣られてきた餓鬼を殲滅する。やるべきことは明瞭だ。動くものは全て敵、シンプルだろう」
「簡単に言うが、若すぎる退魔師よ。妾はともかくとして小僧の実力はどうなんじゃ?」
志郎は応えず、愚問だと吐き捨てるかのように、ただ静かに首肯するだけだった。
その面貌の下では、きっと彼の唇は微笑みを示しているのだろう。
「私は――……ここでじっとしていればいいんですか」
「餌が動き回っていては防衛に適さない。とはいえ、無下に噛み付かれるに任せていては律華が持たないだろう、少しばかり噛み応えを増しておくとしよう」
志郎は私の頭上で指を動かす。彼の指が通り過ぎたところには光の線が生じ、空中に拳大の正方形が描かれた。光印は私の全身を覆うほどに広がり、続いて正方形の内側を埋めるように光の天蓋が形成される。最後に、正方形の一辺ごとから光の幕が降りて来て壁となる。
「八点防壁、効果は外側の拒絶だ。内からは簡単に破れるから、もしも結界が破られそうになれば迷わず逃げろ。片鱗とはいえ、神楽の血肉を奪われることは避けたい」
「分かりました」
私の首肯を見届け、志郎は懐を探り、濡れるような緋色の霊符を取り出した。
「召喚符――傀儡〈
緋色の霊符に
志郎は傀儡を一瞥するや、さらに霊符を取り出して傀儡にかざしていく。
豪腕符、炎呪符、裂空符――……取り出された霊符の豊富さに、堪らず目を疑う。
「志郎さん、少しだけ訊いてもいいですか」
「手短に頼む」
訊かれることなど分かり切っているかのように、憮然とした声音で。
「豪腕符と裂空符は身体呪装、炎呪符は呪詛、八点防壁に至っては封印術。どうして近衛家の人間である志郎さんが、他家の術式をそうもたやすく発現することができるんですか」
「必要だったからだ」
それが当然のことだと、志郎は嘯く。
「土御門の地脈術式、柊の身体呪装、天宮の呪詛と封印術、零乃宮の血界術、近衛の傀儡術。果ては五大本家から派生した、あらゆる分家の術式を搔き集めなければ妖と渡り合うことなどできない。悲劇の夜が証明したように、一点突出では通じない」
人間は、脆弱だから。貪欲なまでに力を求めなければ、父母の仇など討てないと。
「そう考えたから、身に付けたまでだ」
「身に付けたまでって、そんな簡単に。そもそも誰に師事を仰いだんですか」
「文献に書いてあるだろう?」
呆気に取られ、私は絶句する。たったひとつの術式を会得するだけでも、人によっては生涯を費やすこともある。それなのに、知り得る限りの術式を、誰に師事するわけでもなく独学で、彼はその若さで会得しているというのか。
「そんなの、あり得ない」
それほどまでの執念を私は知らない。
「否定されたところで実例はここにあるわけだが、あり得ないことだというなら、俺が普通じゃなかったってことでいいんじゃないか?」
志郎はあっけらかんと笑い飛ばし、それよりも来たようだぞ、と庭の端を睨め付けた。
彼の視線の先、月明かりの届かない草木の影の中で何かが蠢く。生い茂った葉叢が擦れ合う音は次第に大きさを増していき、志郎が半身をそちらへ向けたとき、不意に足下が膨れ上がった。地中より現れたのは青白い肌をした小鬼、四匹の餓鬼だった。醜く膨張した腹に、額には小枝のような一角、口の両端からは牙が覗く。餓鬼は両手に鉈を握り締めていた。
「ゲ、ギャッギャ、喰ワセロ!」
耳障りな声で叫び、鉈を横薙ぎに振るう。不意を突いたはずであったけれど、志郎を取り囲むように四方から振るわれた鉈は、勢いだけは殺すことなく空振りに終わった。
「ギャ?」
小鬼の頭頂部に影が落ちる。志郎はその場で跳躍して、空中に体躯を舞わせていた。
「傀儡《腕》、炎呪烙印」
《腕》が大地に叩き付けられる。刹那、大地は土塊へと変貌し、蜘蛛の巣が広がるように、周囲を焔が舐め尽くす。圧殺されたのか、焼き殺されたのか、餓鬼の姿は残されていない。
まだ赤く焼け付いている大地に躊躇なく足を下ろし、志郎は餓鬼の潜む草叢へと駆け出した。傀儡《腕》は志郎の手掌の動きに合わせて縦横無尽に飛び回り、瞬くうちに辺りを焔の海へと変えていく。厖大な熱は渦となって志郎を取り巻き、彼の姿を揺らめかせて見せる。
「やれやれ、冬も近いというのに真夏のような有り様じゃな。妾は夏は好かんというのに」
頭上で声がするので見上げてみれば、結界の上に乗っかってシロが膝を抱えていた。
「何してるの、そこで」
「妾は小僧と違って草履を履いておらん。灼けた大地の上になど、立てたものではなかろう」
どこか不服そうにシロは唇を尖らせ、志郎へと眼差しを向けた。
「この山ごと焼き尽くしてしまわんかだけ不安じゃが、あちらは小僧に任せておいて構わんじゃろう。妾は涼しいところで餓鬼の首でも集めてくるとしよう」
ぐっと背筋を反らし、両手を突いて四つん這いとなり、シロは腰を高く浮かせた。それこそ狐が威嚇の声を上げるかのように喉を低く唸らせ、前を睨むと四足同時に踏み蹴った。
拒絶の結界に傷が生じるほどの膂力で飛び出したシロの姿を目で追うことはできず、彼女が飛び込んだ草叢の影から餓鬼の腕やら頭やらが舞い上がる様子を見て、ようやくそこにいるのだと認識することができる。それにしても対照的だと思う。私の左手では志郎が複雑な術式を駆使して戦い、右手ではシロが原初的な獣の手段で戦う。
共通して言えることといえば、二人は度を過ぎた強さを秘めているということだ。
決して狭くない庭は、餓鬼の断末魔で満たされていく。
つと、焔の海を突き抜けて、一匹の餓鬼がこちらに飛びかかってきた。鼻が豚のように潰れた餓鬼だった。精強かつ屈強な一際大きな躰を持ち、されど俊敏で、その手に握られた鉈は月明かりを受けて銀鏡のように煌めいていた。
鉈が振り上げられ、次いで振り下ろそうとしたのだろう。けれどそのときには、餓鬼の首から下は消えていた。飛来した傀儡《腕》によって捥ぎ取られ、握り潰され、唯一残された頭部と鉈を握ったままの腕だけが慣性に従ってこちらに跳んできて、結界にぶつかって地に落ちる。結界の壁に僅かばかりにこびりついた肉片を見つめ、気が遠くなるような思いを抱いた。
「人間って、こんなに強い生き物だったっけ」
いくら下等と言えど、それは妖内での序列に過ぎず、対人間となれば餓鬼に軍配が上がる。志郎は餓鬼の脅威を数の暴力と表現したけれど、餓鬼程度の小鬼にさえも地力の部分で敵わないのが人間だ。私達は徒党を組み、多勢で一体の妖を相手にすることでようやく白星を勝ち取れる。だから、初めから徒党を組んでいる餓鬼には勝てないのが定石である――はずだった。
たった一人で餓鬼を屠っていく志郎の姿を見て、高揚した。
人間でも妖と渡り合えるのだと、胸が空いた。
それから少しだけ、悔しさが募る。
「あの小僧がいてくれたなら悲劇の夜は変わっていたなどと、考えてはおらんじゃろうな」
頭上からの声に目をもたげ、シロを見つめた私の眼窩にはきっと虚ろな影が落ちていたのだろう。シロは私を憐れむかのように目尻を歪ませた。
「シロはもう戦わなくていいの?」
「不本意なことじゃが、餓鬼共は小僧の方に魅力を感じたようでな、あちらに群がっていきおった。熱いのは苦手じゃ、だから妾はこれで終いだ」
捥ぎ取ってきたのだろう餓鬼の腕を咥え、シロは結界の上で猫のように体を丸めた。
「ねぇ、志郎なら神楽を殺せると思う?」
「…………さてな」
頭を掻きながらシロは上体を起こし、不味いとぼやいて餓鬼の腕を焔の中に投げ入れた。
「条件は揃ってきておる。凪の満月を迎えれば、神楽は不死ではなくなる。後は神楽を祓えるだけの霊力と技巧を備えた人間がいるかどうかじゃが、小僧には可能性があるかもしれん」
「珍しいね。素直に人間を認めるなんて」
「勘繰るでない。事実から目を背けるほど捻くれておらんだけじゃよ。だがな、あの小僧はあまりにも優しすぎる。律華に辛く接しろとは言わんが、神楽の容れ物に情を抱いた果てに小僧が非情に徹し切れるかといえば――断言するには及ばないと思わんか?」
「志郎は迷わず殺してくれるって」
「心と言葉が必ずしも合致するとは限らない。言葉と行動も、然りじゃ」
人間は嘘を吐ける生き物じゃからな、とシロは僅かに表情を曇らせた。
「まるで、人間だけが嘘を吐くような言い方だね」
「人間だけじゃよ。己の心を欺くなどと、器用な真似ができるのはな」
「そう、なのかもしれないね」
志郎へと眼差しを戻す。餓鬼を屠り続ける《腕》の業火は、言われてみれば優しい色をしていた。死闘と呼べるかどうかさえ分からない一方的な殲滅作業は半刻も経たずに終焉の鐘を鳴らし、庭は元通りの静けさを取り戻す。骨の一片に至るまで焼き尽くされたためか餓鬼の死骸はどこにも残されておらず、灼けた大地が赤黒く燻るのみだった。
「終わりだ」
振り返った彼の横顔は微塵も疲労の色を宿さず、退屈を笑うように落ち着き払っていた。
結界をすり抜けて、小走りで志郎に駆け寄る。
「怪我は――されていませんか」
志郎は私を見つめながら鷹揚に頷き返し、大丈夫だと私の肩を叩いた。
思わず臭いを嗅いでしまう。狩衣から漂ってくる香ばしい焔の残り香と、肉と脂の焼けた臭い。空気中に飛散した脂によって唇がべたつき、先程までここは戦場だったのだと思い返す。
「それなら、よかったです」
安堵から頬を綻ばせた、その時。耳の奥を掻き撫でるかのような異音が聞こえた。辺りに目を走らせた直後、頸が圧迫した。喉が潰れ、何が起こったのかも分からないうちに、私の視界は高く舞い上がった。途切れ途切れに薄れていく意識の隙間を掻い潜り、私は目にする。志郎の姿。シロの表情。投擲された鉈の影。草叢にまだ潜んでいた餓鬼の生き残り。
そして、頸から上を失った私を、瑞々しさを感じさせる頚椎の断面を。
『首を切り離されても生きていられるか?』
つと、あの言葉を思い出す。私は何と答えたのだろう。
思い出そうとしても脳は活動を停止してしまい、私はここで終わるしかなかった。
ただ、頭を失うことを何よりも怖れていたことだけは、克明に思い出すことができた。
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