炎の中で朽ち果てていく過去
その日はそれから、屋敷の手入れに勤しんだ。具体的には庭の草を抜き、屋敷に風を通して、廊下を濡れ雑巾で拭いて回り、あの部屋を片付けた。
「辛ければ外にいてもいいぞ」
そう労わられるほどには、私は表情を曇らせていたみたいだ。
正直な気持ち、近付きたくはない。あそこは毒壺だ。私の絶望、悲歎、懇願、私ではない誰かの狂気、人間の本質とも呼べる脆弱さと陰惨をドロドロになるまで煮詰めた毒壺だ。
あれが世界の全てだった半生を想起すると、今にも気が狂いそうになる。
貌を掻き毟り、頭蓋を叩き割り、丹念に脳を挽きながら記憶を消したくなる。
あれはある種の呪詛だ。地獄を生き抜いたという陶酔感を抱くよりも先に、地獄で刻み込まれた痛みと記憶が、幻惑の熱を生じて躰を焼き尽くす。
逃避したい。心は忌避している。だけど、だからこそ。
「もしも私が姫条律華を取り戻すための条件があるのだとすれば、それは誰でもない私自身の手によってここを閉じることだと思います。志郎さんに任せた方が、きっと……確実に早く終わると思う――けど、私のエゴに付き合ってくれませんか」
「アンタに付き添うのが俺の務めだ。気にするな」
「ありがとうございます。――参りましょう」
襖を開け放つ。鼻を覆っているというのに、腐臭はお構いなしに脳髄を犯してくる。たった一夜連れ出されただけだというのに、何年もかけて培ってきた地獄への耐性は、粉微塵となり消え失せていた。握り潰されたように胃袋がキューッと縮み、何かが喉を逆流してきた。部屋に背を向け、反対側の窓をがむしゃらに開け放つ。外に顔を突き出し、そのままぶちまけた。
「ええっ……えうぅ、っあ……」
全身が激しく痙攣する。息を吸おうとしても嘔吐くばかりで、肺はちっとも膨らもうとしない。息の吸い方を忘れでもしたのか、喉は逆流しか許してくれなかった。
「無理をするな。直視することだけが、トラウマへの対処というわけじゃない」
私の背中を撫でながら志郎は言う。彼の大きな手のひらが背中を上下するにつれて動悸はゆったりと静まり返っていき、私の思考にも、怜悧な回路が組み上げられていく。
「大丈夫、じゃないけど、平気です。無理させてください」
「好きにしろ」
口内の残留物を吐き捨て、私は足に力を込めた。もう、背を向けないと決めたから。
吐瀉物だったか、糞尿だったか、はたまた私の腕や眼球、臓物だったものか。今となっては判別のしようがないヘドロをスコップで掬い、庭へと運び出す。中にはまだ原型の見て取れるものもあったが、それは志郎が丁寧に拾い上げて運び出してくれた。
畳を剥がし、襖を外し、消臭剤と洗剤をばかみたいにぶち込んだ水を撒いてモップで擦る。
ぐらりと視界が揺らいだ。モップの柄に突っかかり、倒れるのを防ぐ。
頬が濡れていたけれど、跳ね上がった水を浴びただけなのか、涙を流したのかは分からない。
跡形もなくとはいかない。気の遠くなるほどの歳月を積み重ねて構築された地獄は、それこそこの屋敷を取り壊さない限り、名残を失くすことなどないだろう。それでも、どうにか地獄の面影が薄れるほどになった頃には、燃え上がるような夕焼けが部屋を照らしていた。
庭に運び出された汚泥は、私から出たものとは信じられないほどにうず高く積み上がった。
「埋めるか?」
「燃やしてください」
志郎は頷き、霊符を汚泥の山に投げた。炎の柱が立ち上がる。揺らぎ、うねる炎の濁流に呑み込まれていく私の一部だったものを眺めるうちに、胸中でざらついた怒りが蘇った。
――バカ! バカバカバカ! 私だって人間なんだぞ! 人間だったんだぞ!
斬り落とされた自分の腕を抱いて、誰にも届かない怨嗟を吐き続けた夜を思い出す。
そう、まだ初めのころは理不尽な虐待に対して、怒りを露わにすることができていた。
いつからかそれさえも抱かなくなり、人間として失ってはいけなかった基礎的な感情さえも抱けなくなり、神楽を宿しているのは事実なんだからと、諦めで目を鎖した。
心を鎖した。
――……開くきっかけをくれたのは志郎だった。志郎が私を連れ出してくれたから、私を取り巻く環境はおかしかったのだと、私は狂っていたのだと考えられるようになった。
「泣きたいなら泣いてもいいんだぞ」
茜の夕陽と橙の炎によって全身を斑に染められながら、志郎は諭すように言った。
「泣きません」
今にも決壊しそうな目を擦り、首を振る。
ここで泣いてしまえば、せっかく取り戻した感情も一緒に流してしまいそうだったから。
「飯でも食うか。そんな気分でもないだろうが」
「ううん、食べる」
今度は力強く頷いた。そう来なくっちゃと志郎は笑い、私の頭を乱暴に撫で回す。わざとらしく悲鳴を上げ、くしゃくしゃになった髪を梳きながら私も笑った。
何だろう、この気持ちは。
志郎と言葉を交わしていると、心が躍るような気がする。
「さて、行こうか」
「…………子供扱いして」
「む、悪かった」
志郎は差し出した手のひらを引っ込めようとして、私が手を重ねたことに首を傾いだ。
「子供ではなく、淑女をエスコートするのだと解釈します」
「そうするよ。小さな
指を絡ませるように握り直して、私と志郎は並んで庭を後にした。
炎の中で朽ち果てていく私の過去を気にすることは、おそらく、もう訪れない。
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