狡い人

 その日の朝は、とても静かだった。

 吐息を白く凍り付かす冷え込みは、冬がもう深まっていることを知らせる。この村に来たときと同じ、ひび割れるような大気の冷たさに目を細め、私は毛布を体に巻き付けるように手繰り寄せた。肌に触れるやわらかな羽毛に心地よさを覚え、愕きとともに目を開ける。

「どうして……」

 いつもの部屋じゃない。暗闇と腐臭の中で目を覚ます、いつもの朝じゃない。

 全身を手のひらでまさぐり、匂いを嗅ぐ。嫌な臭いじゃない、石鹸の香りが鼻をくすぐる。久しく忘れていた、普通の人間の匂いだ。

 ふと、耳の奥で声が過ぎる。泣いてもいいのだと私に諭した、若い男の人の声。

 あれは夢じゃなかった? 寂寥がもたらした幻想ではなかった?

 居ても立っても居られなくなり、飛び出すように毛布を跳ね除け、たった三歩も進まないうちに頭から畳に突っ伏すように転ぶ。ぎゃん! と、女の子としては相応しくない類の悲鳴を発した後、むくりと起き上がる。盛大に擦ってしまったためか鼻頭がヒリヒリと痺れるように痛み、その反面、この程度の痛みなんてと斜に構える自分がいることに気付く。

 嫌だなと感じながら何に躓いたのかと足元を見て、あまりのばからしさに笑声を小さく溢す。あまりにもサイズの違う短パン――私が履いていると七分丈のズボンにしか見えない――がずり落ちて、足に絡まっていた。履き直そうとして、手を離せばすぐに落ちてしまう。少しだけ迷ってから、私は短パンを脱ぎ捨てた。どうせ、このシャツだって丈が長すぎてワンピースのようになっているんだ。短パンを着ていようがいまいが、恥部は隠れているから問題ない。

 襖へと歩み寄り、引手に触れようとして躊躇う。もしも結界が張られていたなら、神楽を宿している私は弾かれてしまう。シャツの裾で手をぐしぐしと拭い、意を決して手を伸ばす。

 指先が触れる瞬間、怯えのあまり目を瞑りさえして――……

 けれど、警戒を笑い飛ばすように結界は張られていなかった。

 襖を開いて廊下に出る。畳と違い、板張りの床は冷たさを倍増して感じさせる。

 向かいのガラス窓からは朝陽が細々と射し込み、私の肌に影を落としていた。

 薄手のシャツ一枚、他に着ているものはない。今は冬の盛り。それなのに、長らく忘れていた陽に照らされていると、随分と温かいように感じられる。

 高揚にぞくぞくと粟立つ肌を擦り、屋敷の奥を一瞥すると玄関へ向かう。

 玄関に靴はなく、草履もなく、履物と呼べるものは何ひとつ見当たらなかった。素足のままでもいいかと考え、玄関扉を勢いよく開き、私は外に飛び出そうとした。

 だけど、何かにぶつかり、外に出ることはできなかった。

「「あっ」」

 声が重なる。ひとつは私の声で、ひとつは私の頭上から降ってきた。慄然とともに顔を上げ、そこに立ち尽くす青年の貌を認める。目算で私よりも四十センチは高い背丈に、少し長めに揃えた黒髪。私を見つめてくる瞳は静謐そのもので、吸い込まれるような黒だった。

「もしかして、逃げ出そうとしていたか?」

 訊ねられ、反射的に首を振る。

「ち――……ちが、う。違う。外の……空気を、吸いたくて」

 彼は納得した風に鷹揚に頷き、自分の袢纏を脱ぐと私に羽織らせた。

「外は冷える。着ておけ」

「……ありがとう」

「礼はいらない」

 彼は不器用なのだろう。ぶっきらぼうに、突き放すように答えながら私の前を開ける。上目遣いに彼の様子を窺い、その瞳に嫌な揺らぎが見られないことに胸を撫で下ろす。

 外へ。とても久方ぶりの、陽のある世界へ。初めに体感したのは凍て付く風だった。恐ろしいばかりに混濁した香りが鼻孔を穿ち、思わず鼻を覆う。

「とても強い、冬の匂いがするんです」

「何だそれ」

 きっと、彼にとっては、この風は何ともない無臭でしかないのだろう。けれど、私にとっては違う。久しく触れてこなかった、胸を清涼感で満たす香りで溢れている。

 あの部屋にいたのか、いなかったか。

 悲しくとも、地獄を経験した後で日常が輝いて見えるのは事実だ。

 もったいぶるように息を吐く。真っ白な揺らめきがちりぢりに霧散していく様子を眺めつつ、彼の手を握る。彼は驚いたように手のひらを強張らせたけれど、振りほどきはしなかった。

「ごめんなさい。少しだけ……人肌が恋しくて」

「そうか」

「あなたの手は温かいんですね」

「そういうアンタの手は冷たいな」

 決して等温にはならない熱の差。

 差異を感じること、等しく混じり合いはしないと自覚すること。

 それがヒトに触れることだと、遅まきながら思い返す。

「お名前を窺ってもいいですか。妖風情に名乗ることが嫌でなければ、ですが」

「近衛志郎」

 間髪入れずに返事はあり、志郎は次のように続ける。

「アンタは妖として扱われたいのか? それとも、そうされることに慣れ切ったのか?」

 予想もしない問いかけだった。

 いいえ。正確には予想していたけれどあり得るはずがないと諦めていた問いかけだった。

「姫条律華と神楽。アンタはどちらで扱われたい」

 目頭が熱くなり、私は思わず手で隠した。

「不躾ながら……訊かせてください。知らされたのが先ですか。知らされたのは、後ですか」

 一連の記憶が、幻惑の熱とともに蘇る。

 暗い汚泥の海で、ひとり横たわっていた。

 意識は辛うじて肉体と繋がっていたけれど、動かす気にはなれなかった。汚れ切った人形、神楽を内包するだけの形骸。それが私だった。

 向けられるべき感情は怨嗟、加えられるべき行為は迫害。

 新しく部屋に入って来た青年もその通りに振る舞うのだろうと希薄な目で眺めながら、されど、彼が危害を加えることはなかった。忌むべき妖の帝王を癒し、地獄から連れ出した。

「その質問は狡いな。俺を聖人にでも祀り上げるみたいだ」

「さて、どうでしょう?」

 袢纏のポケットに手を突っ込ませ、悴んだ指先をもみほぐす。

「志郎さんは、何歳いくつですか」

「十八だ。それがどうかしたか?」

「神楽を取り込んだために人間としての成長は止まりました。私の体は過去に取り残されたまま、九つのときから八年間、私の外見は何ひとつ変わっていません」

「その見た目で十七か……そいつは少し――……」

 残酷だな、と続けようとしたのかもしれない。口を噤んだ志郎の横顔を見上げる。四十センチの差は少しだけ冷刻だ。私が過去で停滞していることを、殊更に意識させられる。

「信じたんですね。あんな夢みたいな話を」

「葛白と組んで騙そうとしていたなら、アンタを祓うだけだからな」

「不死身の妖を殺す自信があると?」

「人間としてどうかは知らないが、退魔師としてはそれなりに才能があると自覚している」

「才能なんかじゃ、どうにもならない現実だってあります」

 卑屈に呟いた言葉に対して、志郎は返事をしなかった。

「でも、そうですね。志郎さんに、お願いがあります。私が身も心も姫条律華でなくなったら――……神楽に呑み込まれたら、そのときは志郎さんが私を殺してください」

「なぜ、俺なんだ」

「志郎さんなら、優しく殺してくれそうだから」

 優しく終わらせてくれそうだから、私は志郎に殺されたい。どうせ八年前に姫条律華は死んでいる。ここにあるのはただの脱け殻。終わり損ねた魂だけ。今さら未練なんてない。

 神楽もろとも死に絶えることに、今さら異議を唱えたりしない。

 けれど、終わり方くらいは私の望みに添って欲しかった。

律華アンタが死んだら神楽を殺す。迷いは抱かないと誓う」

 残酷なことを頼んだ自覚はしていた。だからこそ、志郎がやけに素直に頷いたことに戸惑う。疑いの目を向けてみてもその場しのぎの言葉を口にしているようには見えず、律華わたしが消えた暁には、躊躇うことなく神楽へと殺意を向けてくれそうだった。

「ありがとうございます」

「そこで礼を言うのはおかしいだろう、律華」

 僅かながらに目を瞠る。もう二度と呼ばれることはないだろうと思っていた名前が呼ばれたことは途方もなく嬉しく、そして、途方もなく胸中に暗雲を募らせる。

「そんな風に呼んでると……殺しづらくなりますよ」

「アンタへの餞だ。終わりたくなかったと嘆きながら終わるようにしてやるよ」

「酷いヒト――……」

 私が唇を尖らせると、志郎はカラカラと喉を震わせた。私も微笑を浮かべ、それに応える。

 志郎は狡い人だ。

 終わりたくなかったと嘆きながら終わる。もっと生きたかったと呪詛を撒き散らし、果てない明日を夢見ながら堕ちる。そんなのは、終わりこそが唯一の希望であったあの地獄とは真逆の状況だ。私をまっとうな人間に戻すことと言い換えてもいい。

 半妖に成り果て、その身と心に神楽という名の烙印を捺された。人間の醜悪な部分を嫌というほど見せられ、人生の末路こそを至高の救いとしてしまった私を、生にしがみつかせるということだ。そんなことはできるはずもないと思うのに、たった一夜で絆され、彼へと傾いてしまった心を思うと、きっとそうなってしまうのだろうと感じた。

――ざまあみろ。

 彼にそうやって意地悪を言われながら終わるのも、悪くはないような気がした。

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