献身と犠牲の末路
神楽が幽閉されている寺院は、村の最北端の山中にある。麓には紅漆の門が構え、山をぐるりと囲うように土塀が続く。門と塀の至るところには、霊符が貼り付けられていた。
結界だろうか。だが、妖の王を閉じ込めておくためだとすればあまりにも貧弱で、どちらかといえば外からの侵入を防ぐためのように思えた。或いはこの程度の結界で効果があるほど、神楽は衰弱しているのか。
考えを詰めすぎるのは悪い癖だ。見れば、否応なく理解するのだから。
門を開き、足を踏み入れる。金木犀に似た香りが掠めた。この山だけでなく、村の至るところに植えられた狂い咲きの柊。今はちょうど花期を迎えているが、この村の柊はいつでも小ぶりな花を咲かせている。白く、雪玉のような花びら。柊鰯――或いは
けれど、それが妄信でしかなかったことは悲劇の夜に証明された。
細く続く石段を、山ひとつ分は登り切ったところでようやく寺院の屋根が見えた。
道中から気にはなっていたことだが、監視役を務めるにあたり、宗二は寺の手入れには無頓着だったようだ。自由気ままに雑草が根を下ろす惨状を遠い目で眺める。庭だけではない。どの建物も長らく掃除されていないためか、壁はくすみ、窓は曇っている。
眉根を押さえながら、逆に思う。
こうなったところで何のお咎めもないほどに、誰も寄り付かないのだろうかと。
「それより、神楽はどこにいるんだ?」
肝心の神楽の幽閉場所さえも聞かされていないことに気付き、嘆息をこぼす。
仕方なしに寺院を散策する。寺と言えど、仏像が納められているだけで構造としては村の屋敷と近い。敷地の中央奥に仏堂、左手に鐘楼と講堂、右手に居住のための屋敷がある。
仏堂にも講堂にも神楽の姿は認められなかった。
屋敷の戸を開き、中を覗き込む。電灯は消され、鎧戸も締め切られた屋敷の中は昼時だというのに薄暗く、同時に耳が痛むほどの静寂で満たされていた。草履を脱ぎ、足音を忍ばせながらヒトの気配を探す。屋敷の手前から奥へと、いくつもの部屋を順繰りに検めながら神楽を探す。そうして、最奥の部屋に行きつく。
鳳凰の描かれた豪奢な襖を隔てて、その向こうからは細やかな人間の気配が感じられた。
霊符を指に挟ませ、僅かに襖を開く。その途端、噎せ返るような濃厚な生き物の臭いが鼻を穿つ。人間の生活の匂いとは違う。排泄物を煮詰めたかのような腐臭だ。喉の奥から込み上げてくる胃酸を飲み下し、舌先にこびりついた尖った酸味を洗い流すように口内を唾液で湿らせる。あの臭いを嗅ぎながら、咄嗟に吐き出さなかったことが不思議だった。
着物の袖で鼻を覆い、中を睨み付ける。記憶が確かなら、ここは大広間だったはずだ。明かり窓もあったはずだが、目張りがされているのだろう。室内を照らす光は、僅かに開けられた襖の隙間から射し込むものだけだ。これでは中の様子を窺うこともできない。
荒く息を吐き出し、意を決すると襖を開け放す。木枠が打ち合わされた音が響き、光がなだれ込む。それでも充分とはいえない光によって浮かび上がったものは牢だった。
座敷牢だろうか、詳細を確かめるためにはもっと光が必要だ。
人型の霊符を何枚か取り出して放り投げる。人型は空中でくるりとひるがえると四方に散らばっていき、その直後、手前の明かり窓が開かれた。それを契機に明かり窓は次から次へと開け放されていき、子供が駆け回るような騒々しさとともに、広間は全貌を現す。
地獄絵図だと、俺は戦慄する。全身の肌が粟立ち、体が芯から震えてくる。悍ましさに悍ましさを重ね、凄惨であることを義務付けられたかのような《生きる地獄》が広がっていた。
座敷牢の中は清潔とはほど遠い。畳の藺草は赤黒く変色し、辺りに散らばるものは糞尿と吐瀉物。それまで堪えていたのも徒労に終わり、俺は胃の中身をひっくり返した。咳き込み、噎せ返り、ゼェゼェと背中を震わせ、朦朧とした頭で考える。
これは何だ。この地獄は何だ。
逃げ出したくなる足に拳を叩き付け、座敷牢の入口へ這い寄る。《閉門》の霊符を剥ぎ取り、中へ。一歩目を踏み出し、足を置いた場所がぐにゃりと潰れた。悪寒とともに下を向く。糞でも踏み付けたのかと思い、けれど違う。それは腐敗して柔らかくなった人間の腕だった。
思わず悲鳴を上げて飛び退く。震える手で己の腕を擦り、先ほど踏み付けた腕を見つめる。
人間の腕だ。弾力があり、強度があって然るべき肉の塊だ。
それが、どうして腐りかけのバナナのようになっている。
荒ぶる鼓動を必死に抑え付け、座敷牢の奥に進む。そうだ、神楽はどこにいるのか。この地獄は神楽が作り上げたものなのか。そうあって欲しいと胸は騒ぐ。
広間の中央で足を止める。もはや原型を見て取れない汚物の山にまみれて、人間が横たわっていた。凄惨な地獄には似合わない小さな人影、全裸の少女が臥していた。唇は割れ、痩けた頬は血の気を失い蒼白となり、肋骨の形がはっきりと判るほどに痩せ細った少女が。
死んでいるのか、生きているのか。それさえも分からないほど、少女に挙動はない。胸は微かにも上下せず、目は閉じられたまま開く気配を見せない。生気が僅かたりとも感じられない。
汚れることを厭う余裕などなかった。少女に駆け寄り、その薄い胸に耳を押し付け、ひとまず安堵の息を吐いた。――生きている。今にも消え入りそうではあるが、拍動が耳を打つ。
治癒を施そうと霊符を取り出し、少女の胸の辺りに痣のようなものがあることに気付いた。痣は胸から足首にかけて流れるように続いている。訝しみ、少女の肌にこびりついた汚れを手で拭っていき、それが痣ではなく呪印であることを認識した。
そして、疑問は晴れ、理解する。
神楽が幽閉されているはずの座敷牢にいること、神楽は人間の姿に封じられた事実。
少女こそが神楽なのだ。百四十センチにも満たない小柄な体躯、成熟とはほど遠い肢体。無力の象徴として形作られたような彼女こそが、妖の王の成れの果てなのだ。
妖の王、これが神楽。これが父さんと母さんを殺した妖。
――……それならば、放っておいてもいいんじゃないか。
ぬらりと嫌な感情が浮かび上がる。俺は眉目を歪ませ、自分の頬を平手で打った。
「迷ってるんじゃねえぞ、近衛志郎! お前はそんな下衆だったのか!」
迷う心を叱責で駆り立て、霊符を構える。
「清廉浄化」
術の名とともに霊符は燃え上がり、後には翠光が残る。神楽の上半身を掻き抱き、その胸に光をあてがう。人間のための術が妖に効くかは分からず、神楽の様子を窺い続ける。
体感で五分以上が経過しただろうか、ふいに、神楽の胸が大きく上下した。
神楽は掠れた咳とともに肺を膨らませ、手足の先を弱々しく痙攣させる。ほのかに紅潮を取り戻した頬を見つめ、なぜか、俺の胸には安堵が湧き上がっていた。
妖を助けて喜ぶなど、退魔師としては逸脱しているのかもしれない。
けれど、この感情を抑えることなどできなかった。
頭を振り、すっかり麻痺してしまった鼻で息を吸う。脳を腐臭にあてられながら、神楽を抱えて立ち上がる。軽すぎたことにかえってよろめき、神楽とともに牢を出る。
呼吸は安定したものの、依然として目を覚ます様子は見られない。
「なあ、お前――本当に妖の王だよな」
疑念がいつまでも頭を離れないほど、神楽は人間の少女にしか見えない。
唇を引き結び、足を速める。悩み、考えに耽ることは後回しにしよう。
風呂場に直行する。着物は脱がず、そのままの格好で神楽を連れ込んだ。神楽は壁に寄りかからせ、石鹸とシャンプーを探し出して持ってくる。蛇口を捻って湯を出し、温度を確かめてから神楽にかける。血と糞尿で固まった髪を濡らし、シャンプーを垂らす。
後ろから膝で挟み込むようにして神楽を支え、空いた両手を髪に沈ませた。頭皮を撫でるようにシャンプーを泡立たせようとするけれど、あまりの汚れに泡立たない。湯で流し、シャンプーを垂らし、泡立たせる。それを延々と繰り返し、ようやく神楽の髪は艶やかさを見せた。
「なんだ、綺麗な髪をしているじゃないか」
黒だとばかり思っていた神楽の髪は、透けるようなヒナゲシの赤だった。
「次は――からだ」
スポンジに石鹸を染み込ませ、今にも張り裂けそうな肌にあてがう。指先から始めて腕を洗い、鎖骨まできたところでふと手を止める。順当に洗っていけばというより、このまま下に向かっていくと神楽の胸に触れることになる。未成熟ながらも僅かにふくらんだ、少女の胸に。
それどころか、さらにその先には少女の股が待ち受けている。
緊張が和らいだためか、思春期の脳みそは厄介な暴走を始めていた。一度意識したことは脳髄の根幹にまで染みつき、一片たりとも離れようとしない。
馬鹿なことを考えるな。これは妖だ、人間じゃないと言い聞かせる一方で、今は人間の少女でしかないことを知っている。眠ったまま微動だにしない少女、すなわち抵抗できない少女を前に、後ろめたいことを考えてしまう自分に嫌気がさす。同時に、少女の肌に触れることを、あられもない姿を記憶に残すことを洗ってやるためだと正当化しようとする自分に腹が立つ。
「……すまない」
何のための謝罪だろうか。自分にも分からない。この行為が少女のためであるかどうかなど関係なかった。ただ、俺なんかに触れられたくはないだろうと思わずにはいられない。
スポンジを掴む手を強張らせ、一息に滑らせた。
それにしても、人間の姿に封じたとはいえよくできている。肌の触り心地、熱の在り処、外見の整合性。どれを取っても、本物の人間と比べても遜色ない出来栄えだ。不自然なほどに、度を過ぎるほどに作り込まれている。封印だけを考えるならば、容れ物は人形でも足りただろう。それなのに、どうしてここまで似せる必要があったのか。
姫神の悲劇についてこれまで知っていた事柄はほんの表層のものでしかなく、真実には至らない。爺さんに知らされたこともそうだ。意図的に隠されたのかは分からないが、俺の知らない事実は確かに残っている。あの夜、あの悲劇で何があったのか。
神楽との邂逅により、意識したこともなかった疑念は駆り立てられ、心から離れない。
「真実とやらは、どうなっているんだ」
吐き捨てた言葉は、シャワーの音に掻き消された。
小一時間かけて、ようやく神楽を洗い終える。神楽は一度たりとも目覚める様子を見せなかった。それほどまでに衰弱しているというのか。
汚れの落とされた肌は極度に痩せ細っているというのに瑞々しく、照明を浴びて輝くように見える。無機質に思えるほどの白皙の素肌。その様子からは生命の糸が編み込まれているようにはいささかも思えず、精緻なビスクドールを前にしているような錯覚を抱く。
タオルで水滴を拭き取り、俺の私物である服を着せた。下着も含めて神楽の服がどこにあるのか、そもそも初めから与えられているのかさえも分からない。
あの地獄に神楽を戻す気にはなれなかった。客間と思しき部屋に布団を敷き、神楽を寝かせる。念のため部屋の四隅に霊符を貼り付け、結界を張る。
「…………臭うな」
風呂場へと引き返して体を洗う。シャワーを頭から浴びせ、視界を落ちていく水流を見つめながら考える。神楽のことを、あの地獄のことを、妖とは思えない少女のことを、考える。
爺さんの言葉。宗絃の言葉。宗二の言葉。
聞かされたこと。見たこと。触れたこと。
客間に戻ってもまだ神楽は目覚めていなかった。疲労に足をすくわれ、部屋の隅で頽れるように座り込む。前髪を掻き上げ、膝の間に顔を埋めながら考え続ける。胸中に渦巻く猜疑心は留まるところを知らず、何を信じればいいのか、何が正しいのか分からない。
誰か、この状況を説明してくれ。あいつは本当に神楽なのか。庇護欲と情愛を駆り立ててやまない脆弱な少女は、本当に妖の帝王、殺さなければならない悪の枢軸なのか。
あの部屋のことを思い出す。地獄と称されるに相応しい部屋がどのようにして作られたのか、あそこで何が行われていたのか、想像は難くなかったがしたくなかった。それをしてしまえば、爺さんをはじめとした土御門家の人間に嫌悪と侮蔑を向けざるを得なくなる。
けれど、あいつが確かに妖の帝王であったなら、父さんと母さんを、罪のない多くの人間の命を奪ってきた虐殺の王であるなら――……その身を辱められたとしても当然ではないか。
そんな風に思ってしまう自分自身が、何よりも嫌だった。
膝頭に目をぐしぐしと擦り付け、静かに顔を上げる。窓の外に広がった空は僅かにかげりのある紅紫色に染め上げられ、水平線の彼方からはうっすらと夜が忍び寄っている。
「なぁ、お前、飯は食うのか?」
眠り続ける神楽から返事などあるはずもなく、穏やかな寝息だけが聞こえる。
人間の姿をしているからには腹だって減るだろう。俺は台所へと向かう。
あそこまで痩せ衰えているのだ。神楽は久しく食事を摂っていないのだろう。
「それなら、重たいものはだめだな」
胃に優しいと思われる料理と、実際的な問題として初めて包丁を握るような俺でも作れるだろう料理を照らし合わせ、無難に粥を作ることにした。
「…………大量の水で、米を炊けばいいんだよな?」
前途多難だが、裏打ちされた自信はあった。
米を砥ぎ、大量の水で炊く。炊くというよりは煮ている感じだったが。炊きあがった米を土鍋に移して火にかける。味を調えるといってもどうすればいいのかなどさっぱり分からず、戸棚や冷蔵庫にあったそれらしい調味料を流し入れ、卵を割り入れる。
四苦八苦の末に完成した粥を眺めて悦に入る。我ながらうまくできたと思う。いまいち理想と異なるのは、卵を溶かずに入れたからだろうか。けれど、食べられなくはないだろう。
土鍋と木椀、レンゲを盆にのせて神楽を寝かせた部屋まで持っていく。
襖を開き、灯りが入っていないにもかかわらず部屋がほのかに明るい様子を見て、今夜は月が出ているのだと気付く。そして、畳の上に人影がぽつりと伸びていることにも。
弾かれるように顔を上げ、眼差しの全ては布団へと注がれた。
緊張からか、それとも愁眉が開かれたためか、息を呑む。月影を遮るように身を起こし、神楽は双眸を窓の向こうへと注いでいた。ヒナゲシの髪はやわらかな光を浴びて透き通り、髪と揃いの瞳は揺らめきながら何かを見つめている。
俺の息遣いを感じ取ったためか、神楽はゆったりとこちらに振り向いた。薄く、小さな体に紅の髪、紅瞳、ハクモクレンの花よりも磨きのかかった白皙の肌。今にも消え入りそうな希薄な生命の揺らぎ――……神楽の全てに魅せられ、思わず言葉を失くす。
それは困惑か、身上に似合わない委縮のためか、神楽は瞳を震わせながら俺を見る。視線が重なる。神楽の瞳に俺の姿が映り、俺の瞳には神楽の姿が映っているのだろう。かけるべき言葉は見つからず、かけられる言葉もなく、俺達は静寂の中で見つめ合う。
何を臆しているのだろうか。残虐な妖の王、お前はそんな柄ではないはずだ。
「あんたが神楽か」
そんなつもりはなかったが、冷たく突き放すような口調になった。神楽は怯えるように瞳を泳がせ、躊躇いとともに首肯した。その拍子に前髪がさらりと流れ、彼女の貌を隠す。
「入るぞ」
少女はまた静かに頷く。拒否する権利など持ち合わせていないと、言外にほのめかす。
後ろ手に襖を閉め、盆を神楽の前に置く。少女の眼差しは不思議そうに盆上を行き来する。凝視に堪えるほどの出来栄えでは決してないため、背筋がこそばゆい。
粥を土鍋から木椀によそい、レンゲを添えて神楽に突き出す。
「食べろ」
もう少し愛想よくできないのかと、自分の言動に辟易する。
神楽はなおさら不思議そうに椀の中身と俺の貌を交互に見つめ、おずおずと両手で受け取った。けれど食べ始めようとする様子は一向に見られず、むしろ警戒心を強めたかのように椀の中身を睨んでいた。食べたい気持ちに嘘はないのだろうが、何かが邪魔をしている。
そして、そういうことかと理解する。疑っているのだ、毒でも入れられてはいないかと。善意が注がれるはずなどないと、悪意という名の腫瘍が彼女の心を鎖している。
少しだけ考え込み、神楽の持つ椀の中から粥をすくい、口に入れる。問題なく食べられることを示そうとしたのに、表情が歪む。壊滅的な、それこそ毒そのものの味がした。
「やっぱダメだ! 人間の食い物じゃない! それ返せ!」
取り返そうと伸ばした手から逃れるように椀を抱え込み、神楽はふるふると首を振った。意図をはかりかねる俺の前で、神楽はそれこそ決死の表情とともに粥を頬張った。
電気にでも痺れたかのように驚いた顔をして体を弾かせ、椀の中身をしげしげと見つめると二口目を頬張る。苦悶に堪えているのか、歓喜に喘いでいるのかは分からないが、少なくともそれは食事に伴う表情ではなかった。それでも拙い手付きで次から次へと口へ運んでいく。
「美味いのか?」
首は横に振られる。
「不味いのか?」
またもや横に振られる。
「どっちなんだ」
神楽からの返事はなく、呆れ果てて天井を仰いだとき、引きちぎれるような嗚咽が響いた。眉を顰めながら神楽の様子を窺う。そして、理解できず、思考が搔き乱される。
「うう、うぁあああ――――」
声を上げて泣いていた。冷酷で残忍な妖の王が、稚児のように涙を流していた。
閉じられた瞼を押し開けるほどの勢いで、大粒の揺らめきが次から次へと零れ落ちる。
妖が泣くなどあり得ない。王としては似合わない。そんな風に彼女の涙を否定することはできなかった。なぜなら神楽はとても人間らしく、ただの少女のように心を崩していたから。
揺らぐ。彼女が妖の帝王であるという認識が、父さんと母さんを殺めた仇であるという認識が崩れていく。粉々に霧散した後に残されるものは、彼女がちっぽけな少女であるという意識だけだ。恨むことも、辱めることも、蔑むことも許されない人間であるという思いだけだ。
彼女が妖の王であることへの疑念は、ここに至って殊更に膨らんでいく。
そして、どうしてか。神楽の泣き声を懐かしむ心が芽生えていく。
聞いたことがある。触れたことがある。この感情に。この心に。
耳から耳へと駆け抜けていく神楽の噎び泣きに貫かれながら、彼女との距離を詰める。
こいつが妖であるという意識はとうに砕け散っていた。
あの部屋のことを考える。
嫌悪を抱きたくなくて目を逸らした、あの地獄で行われていたことについて考える。
痩せ衰えた神楽の躰。陽の閉ざされ、昼も夜もない監獄。腐った人間の一部だったもの。
神楽が不死身の妖である事実。決して死なず、何度でも生き返る事実。
明白だった。あの地獄は虐待と凌辱によって構築されたのだ。少女の姿であるにもかかわらず、いや、脆弱な少女だからこそ、あの部屋は人間の陰惨を煮詰めるための毒壺と化した。
言葉はなく、俺は神楽を抱き締めた。
小さくて薄い体は驚いたように強張り、次の瞬間には弛緩して俺の胸を掴んだ。
ますます大きくなっていく泣き声と、留まるところを知らずに溢れ出す大粒の揺らめき。俺の胸は少しずつ濡れていき、神楽の温度に染まっていく。妖への嫌悪は消えてなどなく、少女への殺意は色褪せることなく燃えている。けれど、その手を払い除けることはできなかった。
たとえ命でもって償わなければならないほどの罪を犯したのだとしても、だからといって、尊厳を踏み躙るような蛮行を許容することは正しいとは思えない。そう信じるからこその言葉。善人を気取っていると見做されてもおかしくはない言葉が口を突く。
「辛かったんだな……気が晴れるまで、泣けばいい」
神楽の背中を擦りながら語りかける。泣くことくらい、妖にも許されるはずだから。
少女はその通りに泣き続け、ようやく涙が止まったときには泣き疲れたのか寝息を立てていた。布団に寝かしつけ、部屋を出る。冬の夜風に吹かれながら月夜を見上げる。
そろそろ日を跨ぐ。妖の王を擁しているとは思えないほどの静寂。山下では土御門家の退魔師が妖と死闘を繰り広げているのかもしれないが、ここは静かなものだった。
耳を澄ます中で、ふとその音を聞き分ける。庭へと降り、楡木の大樹を見上げる。
「誰か、そこにいるな?」
「さすがは近衛の忘れ形見といったところか、いい耳をしておる」
間髪入れず、葉叢の暗がりを掻い潜って返事があった。霊符を指に挟み、体の重心を落とす。隠形の術でもかけているのか感知しづらくはあるが、大樹から漂ってくるのは妖力の片鱗だった。妖の襲来。たとえあの地獄を是とするほどに性根が腐り切ったとしても土御門家の実力は疑いようがない。修練所の門下生ならばいざ知らず、御役目を託されるほどの熟練者の目を掻い潜って来ようとは。何より、俺を見て《近衛の忘れ形見》と言った。
どこか、普通ではない。烏合の衆ではない。
「姿を現せ!」
恫喝に呼応するように枝葉が騒めき、大樹から人影が降り立つ。
月下に晒されたのは銀髪の麗人だった。鋭く磨かれ、凍て付くような露人の顔立ち。薄い唇と、怜悧とも峻厳とも取れる眼差し。おおよそ人間と見紛う外見だが、頭頂部に生えたやわらかな毛で覆われた耳と、腰から広がる九つの尾が妖であることを暗に示していた。
「妖狐が何の用だ。神楽を連れ戻しに来たのか、それとも王の座を奪いに来たのか」
九尾の銀狐は扇子で口元を隠し、無言で俺を眇める。細められた瞳の向こうで何を考えているのかは分からずとも、そこに敵対する思惟が見られないことは明らかだった。やがて、膠着が続く中でもったいぶるように銀狐は言葉を発する。
「小僧はうつけか? 殺せぬのが神楽ではないか。王の座など如何様にして奪うというのだ」
「……開口一番がうつけ呼ばわりとは、そんなに祓われたいか」
「うつけでなければ阿呆じゃ。小僧を筆頭とした退魔師の面々が何に苦心して神楽を幽閉しておるのか、脆弱な器に閉じ込められておきながら、みすみす指を咥えるに甘んじているのはなぜか、それさえも分からぬわけではなかろう。ちっとは己の頭を働かせよ」
銀狐の言葉に、なるほど、誤りはない。
だが、それを妖から指摘されるというのはどうにもよい気がしない。
押し黙った俺を見遣り、口の端に微笑を滲ませ、銀狐は着物の袖をたくし上げた。現れた手首から二の腕に至るまでには、それこそ心身を縛り付けるような呪印が刻まれていた。
「
「封印術――いや、契約印か」
「御明察。妾の名は葛白、かつての姫条家と契約を結んでいたヒトに飼われる
矜持を詳らかにするように名乗り上げ、葛白は胸元から腰へと指を滑らせた。
「呪印はこちらにも刻まれておるが、確かめるか?」
着物の前合わせを僅かに広げ、血色のよい素肌をちらつかせながら彼女は言う。ゆるく締められた帯に、尻尾を出すために膝上まで捲れ上がった裾。ただでさえだらしなく着崩しているのだから、そんなことをしては胸がこぼれたとしてもおかしくない。
「安っぽい煽情はよせよ、女狐」
「つれないのう。昔はこうやって胸でもひけらかしてやれば、
「千年も生きて思想がぶれない方が、気持ち悪いからな」
嘆息とともに霊符をしまう。
少なくとも、飼われる前は妖として純粋に生きていたのだ。人間を貶めることくらいするだろう。害を及ぼすこと、人間にとっての天敵であること、それが妖の本質なのだから。
飼い馴らされたところで、過去は消えない。
「クヒヒ、話の通じる小僧で助かったわ」
葛白は愉快そうに喉を震わせ、一足飛びで俺へと近付く。
「小僧、妾は茶とだんごを所望する。淹れておくれ」
「狐なら、稲荷じゃないのか」
「稲荷はうどん、茶にはだんごじゃ」
そして、俺の背を押しながら続け様に言う。
「茶を淹れてくれたなら、肴に昔話を聞かせてやろう」
「昔話?」
「知りたいのじゃろう? 神楽に纏わる、隠された真実とやらを」
試すような口振りで、それでいて俺が拒否するとは欠片にも思っていない。
「……不味くても文句は言うなよ」
事実、その通りなのだ。背に腹は代えられない。土御門の人間に不信感を抱いてしまった以上、本来は人間の敵であるはずの葛白の言葉だけが、神楽を識る唯一の手掛かりなのだから。
急き立てられるまま台所へと連れていかれる。茶はともかくとしてだんごがあるかは分からなかったが、葛白は勝手知ったる所作で戸棚から取り出してきた。どうやら、この家屋のことについては精通しているらしい。
やかんで湯を沸かし、茶葉と湯を急須に入れる。
月を見ながら飲みたいと葛白はそこでも我儘に振る舞い、彼女を見つけた庭まで戻る。縁側に腰を落ち着け、嬉々として湯呑を受け取った妖狐は一口啜るや渋面を形作った。
「むう。渋いな。小僧は茶葉の扱い方に関して心得がなさすぎる」
「言ったはずだ、味は保証しないと」
「まぁ、これはこれでだんごの甘みが際立つから悪くはないがな」
だんごと茶を交互に貪りながら、葛白は九つの尾を上機嫌そうに揺らしていた。
「姫条家と契約を交わしていたと言ったな。契約主は八年前の悲劇で滅びたんだ。もはや呪印は意味をなさない。それなのに、姫条家との盟約を律義に語るのはなぜだ」
「その答えは……簡単はむっ……じゃ」
「だんごを喰うのをやめろ」
「嫌じゃ」
幼童のように舌を突き出し、葛白はだんごを頬張る。幸せそうに表情を蕩けさせながらゆっくりと咀嚼し、やがて嚥下すると、餡子のくっついた指を舐めながら言う。
「まだ滅びておらんからな」
そして背後を振り返り、神楽の眠る客間へと指を伸ばした。
「そこで眠っている少女こそが姫条家の生き残り、妾が仕えるべき主である姫条律華だ」
驚愕か、狼狽か。唇が戦慄き、葛白の指が示す先を見つめ、俺は叫んだ。
「あいつは神楽じゃないのか⁉」
「神楽であり、そうではない。確かに神楽は封印されておる。姫条律華という人間を容れ物としてな――。小僧ら退魔師は神楽を不死身の妖と呼ぶが、後天的とはいえ不死身の半妖と呼ぶのが正しい。あれは人間を容れ物とした妖――人間と妖の混血児だ」
「憑かれたということか?」
「そうではない。妖が憑くというのは人間の上辺のみに憑依することを指すが、あれは姫条律華を構成する霊魂そのものが神楽と混じり合い、融合しておる。憑き物であれば妖さえ祓えば済むが、根源で混ざったからには二度と切り離すことなどできない」
「なぜだ。封印するだけならばまだ理解できる。けれど、霊魂まで穢されたなら人間の姿を保っていられるはずもない。とっくに生成りに見舞われているはずだ」
「生成り――生きながらにして鬼に成る、か。それを説明するには、まず姫条家が異端の退魔師と呼ばれた所以から話す必要があるだろう」
「確か、妖力を操ったと」
「用いるものが霊力であるか妖力であるかに固執するなど、人間も愚かということだが、それは別の話だ。そもそも、人間が如何様にして妖力を操ることができるのだ?」
言葉にして訊ねられ、ようやく矛盾に気付く。霊力しか持ち合わせていない人間は、たとえ妖力を操ることを願ったところで、持ち合わせていないものに指をかけることなどできない。人間と妖では核となるものが違うのだから、それこそ霊魂に妖を混じらわせない限りは、干渉することなど――弾かれるように顔を上げる。交錯した葛白の瞳は悲しそうに揺れていた。
「察しの通りだ、小僧。妖を己の根源にまで混じらせることが姫条家の秘術であり、他家の退魔師より蔑視と迫害を受けてきた理由だ。神楽なんぞに掠め盗られる結果となったが、妾は本来律華と交わるはずじゃった。律華の魂は、妾のものになるはずじゃった」
心の底から悔やむように声を絞り出し、葛白は眦を細める。
あの夜――と妖狐は呟く。その瞳は虚ろな影に蝕まれていた。
「姫神を襲った悲劇の夜に、最後まで生き残ったのは律華だった。妾は逃げるように説いた。神楽には敵わぬと、背を向けよと訴えた。あの子はまだ九つだった。逃げたところで、使命に殉じなかったところで誰が責められたものか。生きてさえいればよいのだと……あの地獄で生き残りさえすれば再起を図れるだろうと。けれど、あの子は首を振り、こう言った」
暁闇を舐めるように火炎が舞い上がり、脳髄を犯し尽くす死の息吹が吹き荒れる地獄――俺がまだ対峙したことのない戦場に於いて、僅か九つの少女は吐露する。
『まだ……神楽はたおせない。だけど、そのときが訪れるまで、私の体は役に立つ』
己の未来と幸福を天秤から全て投げ捨て、神楽の苗床となることを決意した。
されど、献身と犠牲の末路はあの部屋でしかなかった。あの地獄でしかなかった。
「主張はしなかったのか?」
「皮肉にも、全てが裏目に出た。姫条家は異端とされたために他家と関わりを持たず、討伐に赴く際も貌を隠した。考えてみろ、小僧。その腹の中には確かに神楽が収められており、その少女は誰にとっても初めて視る顔であり、少女が姫条家の生き残りであると主張するのは妖である妾だけだ。神楽を擁護するため、嘘を振り撒いているとしか思われんだろう?」
葛白の声に湿り気が混じる。彼女の瞳は今にも決壊しそうだった。
救いようもなく、皮肉な話だ。胸を焦がす、醜悪な過去だ。被害者と加害者は入れ替わり、人類の未来のために己を賭した英雄は悲劇を画策した巨悪へと貶められた。
腸が煮えくり返る。
姫条律華の胸中を想像することなどできない。己の境遇を嘆き、己をヒトとして扱わない退魔師を恨み、それこそ羅刹へと堕ちてもおかしくないほどの怨嗟に駆られながら、死にたい、終わりたい、楽になりたいと願ったところで叶わない。
彼女は決して死なない、不死身の半妖へと成り果てたのだから。
「何度――……」
葛白の言葉は、すでに消え入りかけていた。
「律華を辱める輩を殺してやろうといきり立ったか分からない。けどな、あの子は首を振るのじゃ。血まみれになりながら、人間としての最低限の矜持とカタチさえも失いながら、もう楽になりたい、終わりたいと妾に何度も縋り付きながら、それでも! 自分を犯す人間を殺してくれなどとは、言わんのじゃ……」
過ぎた清廉、過ぎた高潔は身を亡ぼす。
されど、それでも姫条律華は心までは滅ぼされなかったのか。
それともとっくに壊れていたのか。
「なぁ、どうして俺に打ち明けたんだ。俺が信じるとも限らないのに」
「小僧が初めてだったのじゃ。律華を神楽だと思いながら、人間のように接したのは」
そんなことでかと勘繰る片隅で、ふと理解できたような気がした。
神楽に抱き続けた妖らしくないという違和感の正体。それと、彼女の流した涙のわけを。
「…………俺が信じると思うか?」
「疑う人間に、そのような目はできんよ」
どんな顔をしているのか、俺は分からない。
けれど、そうだ。疑いは持てそうにない。
俺の心は、とっくに彼女へと傾いていた。
何を望むのかと、問いかける。俺に何をさせるつもりかと、この世界は打算でできていると思っている俺は愚かにも問いかける。
「何も。ただ、終わりを迎えるそのときまで、あの子の心を癒して欲しい」
せめて最後くらいは笑顔で逝って欲しいのだと、この世界に未練を焼き付かせるだけに終わって欲しくないのだと、葛白は切実に告げた。
おくりびと。それが、俺に与えられた使命だった。
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