涙のわけ
御役目
「それで、何をやらかせば温厚で知られる
「うるさいな。冷やかしなら帰れよ、爺さん」
「ハハ、お前さんの悪態も相変わらずのようだ。安心したよ、
枯れ木がヒトの姿を真似ているかのように骨張った老人、
「ここでの暮らしはどうだ?」
爺さんの第一声はそれだった。
「――退屈だ。修練所で習うことは教本の焼き直しでしかない。あんなもの、独学で充分に賄える。習わないと理解できない奴は、そもそも根っこから退魔師に向いてないんだ」
「修練所での学びがままごとに近しいものであることには儂も異議を唱えないが、そこに価値を見いだすことができないことと、周りを貶すことは感心できんな」
爺さんはひどくまじめくさった口調で俺を窘め、懐から煙管を取り出した。
「おい、ここ道場だぞ」
「堅いことを言うな。儂は道場で煙草を吸ってみたかったから、ここまで出世したのだ」
動機が不純すぎるだろう。俺に退魔師の矜持を説いていた過去は何だったのか。
俺の制止は聞かず、爺さんは本当に火を点けた。深く息を吸い込み、口を窄めて細く煙を吐き出す。揺蕩う紫煙の向こう側から俺を見つめ、爺さんは咳払いとともに切り出した。
「姫神の悲劇を憶えているか」
「――……忘却の彼方に置いてくるほど、俺は薄情でも不孝者でもない」
かつてヒトと妖の境界線が曖昧だったころ、現世は妖の祟りで溢れていた。疫病、飢饉、変死、失踪――挙句の果てには狂気に落ちた人間同士での殺戮。大地は血と屍で埋め尽くされ、人間の数はおよそ半分にまで減少した。そのような世界に於いて妖退治を生業とする人種が現れた。彼等は生まれ持った霊力で妖を祓い、ヒトの霊を清め、退魔師と呼ばれるようになる。
血で血を洗う戦い、終わりを知ることのない報復の連鎖。ヒトと妖の抗争は苛烈を極める。
それから時が流れ、ヒトと妖は理性の下で共存できることを謳った《人妖協定》が締結され、抗争は終結したかのように見えた。来たる運命の分岐点、姫神の悲劇が起こるまでは――
あらゆる退魔師の本家が置かれ、退魔師の殷盛を裏打ちする集落、姫神村が妖に襲われたのだ。人妖協定の事実的な破却に繋がったこの惨劇は《姫神の悲劇》と呼ばれ、人々の記憶に深い悲しみと絶望、何よりも拭うことなど決してできない妖への不信感を根付かせた。
「姫神村の住人は一人残らず惨殺され、俺達は再び対立の道に踏み込んだ」
「うむ、概ねその通りだ」
「概ね?」
「これは土御門の頭首である儂や、五大家の頭首、査問会を始めとした上層部の人間しか知らないことだが、姫神の悲劇には語られない続きがある」
「続きだと? まさか、生き残りがいるとか言わないよな」
軽い冗談のつもりで返した言葉を爺さんが一笑に付すことはなく、真摯に首肯される。
「察しがよいな。その通り、生き残りがいる。そのうえ、我々にとって望ましくないことに、奴は姫神の悲劇を引き起こした張本人、妖の帝王
「――……神楽はいまどうしている」
「封印され、かつての姫神の地に幽閉されておる。現時点では妖力を練ることもできず、かつて己が殺戮を重ねてきた非力な存在である人間と同じ姿をしているが。とはいえ、いつ封印が解かれ、帝王としての神楽が目覚めるともしれない」
「それなら今のうちに殺してしまえばいいじゃないか」
「話はそれほど簡単ではないのだ。そもそも、神楽が妖の帝王である所以はその生命力の高さ、不死であることに起因しておる。むやみやたらに殺したところで奴は死なんよ」
爺さんは苦々しげに唇の端を結び、煙管を灰捨てに打ち付けた。苛立ちのためか、禿頭には青筋が浮かんでいる。不死身の妖、神楽。手の届くところに脆弱な姿で親兄弟の仇がいるというのに手の出しようがないというのは、爺さんにとってどれほど歯痒いことなのだろう。
「神楽を殺す手段は、僅かたりともないのか」
「可能性があるとすれば《凪の満月》だろう。その日がいつ訪れるともしれないが……」
「爺さん。そろそろ、俺にこんな話を聞かせた理由を教えてくれないか」
「言われずともそのつもりだ」
爺さんは煙管を置き、目を眇めて俺を見つめ、懐から一通の書簡を取り出した。
「凪の満月が訪れるときまで神楽を幽閉しておくこと、それが土御門に命じられた御役目だ。行ってこい、志郎。お前さんもそろそろ適任の頃合いだ」
書簡に恐々と手を伸ばし、一度目は指を滑らせ、二度目でようやく受け取る。したためられているものが何であれ、それはただの紙だ。それなのに、どうしてかひどく重い。
「浮かない顔だな。不安か?」
「……俺なんかが、土御門家の大事な御役目を頂いてもいいのか」
「確かに修練所でのお前さんの素行は決して褒められたものではない。だが、それは稀有な才能に恵まれたからこそだ。志郎、儂はお前さんが退魔師として己を研鑽する姿を誰よりも見てきた。積み上げられてきた努力に嘘偽りなどなく、養子であることを恥じ入る必要もない。誰に何と言われようと、お前さんは儂の息子だ」
胸に込み上げてきた熱い感情を呑み込み、爺さんに頭を下げる。
「行ってくる」
「精進したまえ、志郎」
バシリと肩を叩かれた。年甲斐もない爺さんの力強さに苦笑し、鈍痛の残滓を噛み砕きながら立ち上がる。道場を出る際に振り返れば、爺さんは変わらず紫煙をたなびかせていた。
その背中が一瞬だけ揺らぎ、懐かしい父の姿に似通う。
感傷を振り払うために頬を叩き、前を睨む。
座禅から帰ってくるなり荷支度を始めた俺に対し、周りの奴等はとうとう追い出されるのかと騒ぎ立てた。気持ちは分からなくもなかったが、気に障ったので一発ずつ拳骨を見舞っておく。幼少の砌から同じ釜の飯を食らってきた仲間との別れとしては、相応しくはなかった。
修練所を後にして駅に向かう。
「ド田舎め……」
運行表を前に悪態を吐いた。
心は急いていた。神楽との対面を前に、ゆったりと列車を待つだけの余裕は持てない。
霊符を取り出し、脚にあてがう。どちらにせよ、こちらの方が速い。
「
術の名を呼ぶ。霊符は幻覚の熱とともに消滅し、脚には朱線から成る紋様が浮かび上がる。何度か膝を屈伸させ、前を睨み付けると踏み出した。親指の付け根にまで凝縮された膂力は一気呵成に解き放たれ、景色を二百メートルほど切り取る。
前傾姿勢になり、次の足を繰り出す。呪装によって強化された疾走は、大地の上を駆けるというよりは大地すれすれを翔んでいると表現する方が適切だ。
韋駄天を身に宿し、姫神村までの道のりを疾駆する。
親兄弟の仇を討つために、俺は一流れの矢と化した。
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