第8話

 控え室を出ると、すぐ近くの柱にもたれかかっていた魁斗先輩が

「泪衣、皆中おめでとう。桜楼弓道部、全国出場だね」

 と柔らかく微笑んだ。

 瞳の奥に宿る光は、現役の頃と変わらないまま穏やかに俺に向けられている。

「有難うございます。でも...魁斗先輩みたいに、二立とも皆中を決められませんでした」

「...そんな、十分凄い事だよ。それに、僕が八射八中を決めたのは、県大会と全国決勝の二回だけ。...いくら全国二位だからって、結局は僕だって人間なんだから、そんな簡単に皆中を出す事なんて出来ない」

「......」

「...泪衣、本当に上手くなったね。今の泪衣なら、僕よりも上手く弓道部を引っ張って行けるよ。...改めて宜しくね。弓道部も、後輩達も...紫織の事も」

「...えっ」

「あの子、寂しがり屋だから。僕が受験勉強で構ってあげられない分、泪衣が一緒にいてあげてね」

 俺の肩にポン、と手を置くと、先輩は「じゃあ顧問の所行って来るから」と控え室へと消えて行く。

 ...相変わらず不思議な人だ。いつも静かに現れて、静かに去って行くのだから。

 出没自在ってあんな事を言うのかな、なんて呑気に考えていると、不意に背後から「あ、泪衣君お疲れ。皆中おめでとう」と澄んだ鈴の音が聞こえて来た。

「...紫織」

「これで桜楼は全国に行けるね。『泪衣君なら絶対にやってくれる』って、お兄ちゃんと信じてたよ。...そういえば、お兄ちゃんから『泪衣が呼んでるよ』って言われたんだけど、何か話でもあったの?」

 紫織は、教えて、とでも言うように、滑らかな瞳で俺を真っ直ぐに見つめる。

 ...いつか、零音からも同じ事をされたのを思い出す。でも、あの時はあの黒曜石のような瞳で冷たく射抜かれたようだった。

 俺が口ごもっていると、不意に紫織は

「あ、そうそう」と思い出したように手を叩く。

「泪衣君、さっき射場で何か言ってたよね。あれ、何て言ってたの?」

「えっ...と、それは...」

「?」

 首を傾げる紫織に、俺は「...あのさ」とおもむろに口を開いた。



 魁斗先輩に酷似した容姿に穢れのない性格、そして、かつて俺の世界を変えた、鈴のように澄んだ声。



 ほんと数ヶ月前まで何ともなかったのに...今、彼女を見ると、どうしようもない程の愛しさが募り出す。


 ...それくらい、俺は彼女に溺れているようで。

 こんな時なのに、自嘲するような笑みが零れた。






「...一回しか言わないからな。」





 その言葉と共に、俺は彼女の耳元に口を寄せる。


 今度は、もう掻き消えてしまわないように。






 澄んだ弦音。

 震える空気。

 安土に刺さる矢。

 そして...蝉の声よりも五月蝿い、俺の鼓動。






「紫織...」






「好きだ」








 顔を赤らめた紫織が、「...紫織もだよ」と囁いた事を、俺はまだ知らない。

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FaLL 槻坂凪桜 @CalmCherry

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