第5話

「おい泪衣、話があるんだけど」


 夏休みに入ったある日。部活後、いつも通り弓道場を出た俺を待っていたのは、明るい茶髪と右耳のリングピアスが特徴の男だった。部活終わりなのか、手に持ったバスケットボールを弄んでいたそいつは、

「...つか暑すぎ。よくこの炎天下で部活できんな、弓道部」

と、着ていた黒いTシャツの裾で額の汗を拭う。

「なら日陰行けよ。…それより、お前が話なんて珍しいな…碧」

「そんくらい大事な事なんだっつの。…ほら、行くぞ。零音が待ってるんだから」

「…リア充め」

「うるせ」

 いつもみたいな軽口を叩きながら、そいつはゆっくりとセミナーハウスの方へと歩き出す。

 桐崎きりさきあおい。男バスの新主将を務めるPGで、俺の親友。

「…それで?お前から切り出すくらい大事な話って?」

「ああ…泪衣さ、紫織の事知ってる?魁斗兄の妹の、一年の夜桜紫織」

「っ!?……知ってるけど、何でお前魁斗先輩の事『魁斗兄』って呼んでんだよ」

「従兄弟だからだよ。だからこそ話せる事だ」

 そう言ってこちらを見据える碧の目は、いつになく真剣に俺を捉えていた。

「泪衣さ…去年言ってたじゃん。覚えてるか?ほら、『射場で聞いた声』の事」

「ああ」

「あれってさ、よく考えてみると一人しか有り得なくね?だってよ、今の二、三年の弓道部の中で妹いるのって、男女含めても一人だけだぜ?」

「…は?…何が言いたいんだよ」

「…だからなあ…。お前はその『射場で聞いた声』を好きになったんだろ?…だとしたら、だよ。つまりは声の持ち主も好きって事だろ。…そして、その声の正体は…」



「魁斗兄を呼んだ、紫織しか有り得ねえんだよ」






 突如、碧から突きつけられた事実。俺は、動揺を悟られないように

「…ハッ」

と鼻で笑うしか出来なかった。

「そんな事かよ。それなら…俺だって薄々気付いてた。…それで?それを俺に伝えて、碧はどうしたいんだよ」

「…お前が好きになったのって、結局は紫織だろ。ていうかお前…薄々気付いてんなら何で行動しねえんだよ。…紫織はな、零音達と並んで『一年三大美人』って括られてるらしいぞ。当然、男からも人気あるみたいだけど、本人は全部断ってるって零音が言ってたけどな」

「…そんなに人気なら、わざわざ俺が告る必要もねーだろ。それに、仮に告っても…」

 さっきから、碧の言葉にはどこか苛立ったような棘があった。俺も負けじと言い返そうとしたけど、碧は

「あーもう!お前はなあ!」

と痺れを切らしたように声を上げる。

「お前じゃねーと駄目なんだよ!アイツには!紫織には!」

「何でだよ!?何で俺なんだよ!?」

「まだ気付かねーのかよ!?アイツは…紫織は…」




「自分にとっての『特別』には下の名前で呼ぶんだよ!」





「え……」


 碧の言葉で思い出されるのは、俺と紫織が初めて会ったはずの、魁斗先輩が引退した日。あの時、紫織は確か

『泪衣君、お兄ちゃん知らないかな…?弓道場にいるって、さっき桐崎君から聞いたんだけど…』

と言っていた。

『泪衣君』と『桐崎君』。確かに、俺は紫織から下の名前で呼ばれていた、けど…。

「従兄の俺だって苗字で呼ばれてんのに…!何でお前は紫織の気持ちに応えてやれねーんだよ!紫織が誰かにとられても良いのかよ!?…俺は嫌だ。ずっと見て来た従妹が、好きでもねえような男と一緒になんのは許せねえ。…泪衣、お前なら大丈夫だよ。俺も、零音も、魁斗兄も、何より紫織も、皆お前の事認めてるから」

 搾り出すように言葉を紡いだ親友は、俺が今まで見た事も無い、妹を想う兄の姿だった。

「…お前の気持ちはよく分かったよ、碧。…俺は…」

「あ、やっと来た!碧!」

突然の声にふと顔を上げると、目に入ってきたのは、生徒昇降口前でこちらに手を振る黒髪の少女の姿だった。でも、それは、あの長い癖毛ではなく、耳下で切り揃えられた艶やかなショートカット。

 あの黒曜石のような瞳には、過去に一度だけ会った事がある。一年ながらに女バスのエースを務める天才SFで、碧の彼女の御厨みくりや零音れねだ。

「お、零音どうした?」

「さっき先輩が探してたよ。碧が部室にバッシュ忘れてったからって」

「あ、ヤバ!」

 泪衣ゴメン!と手を合わせて、碧は校舎の中へと駆け込んで行った。零音は、そんな彼氏の姿を呆れたように一瞥すると、不意にツカツカとこちらへ歩いて来て

東条とうじょうさん」

と、その凛とした双眸で俺を見上げる。

 同じ黒い瞳のはずなのに、魁斗先輩や紫織とは違う、冷たく射るような視線。思わず怯んだ俺は、情けなくも

「…何か」

と返す事しか出来なかった。


「自分の気持ちは偽らないで下さい。いつまでも自分に嘘をついていると、やがて、本当に大切な人まで失ってしまいます。…私も、かつてはそうでした。ずっと自分の気持ちから逃げて来たせいで、折角再会した『彼』と一緒にいる事が出来なくなって…。碧の親友の東条さんだからこそ、こんな思いはしてもらいたくはありません。だから…どうか、紫織ちゃんを幸せにしてあげて下さい」


 ふと小さく息を吐くと、零音は、「碧にはこの話は内緒ですよ」と悪戯っぽく笑った。…でも、その黒曜石のような瞳の双眸には、凪いだ海のように深い悲しみが広がっているのが見えて。

 それは、碧が「零音、帰るぞ!」とバッシュ片手に走って来るまで、哀しげな光を灯していた。


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