9話「溢れる涙と言葉」
9話「溢れる涙と言葉」
最近の私は泣き虫になった。恋をすると、強くなると聞くけれど、翠は弱くなっているように感じた。
神崎からの助言を聞いて、逃げるように色から離れた夜は、長い帰り道を呆然と歩いた。
いつもは色が車で送ってくれており、彼の車の助手席に乗れるという特別感と、彼との他愛ない話をする時間がとても好きで、あっという間の帰り道だった。だが、今日は一人でトボトボと重い荷物を持って歩いているからか、家までがとても遠く感じた。
家に着く頃になって、色から初めてスマホに電話がかかってきた。きっと、目覚めて時間になっても部屋にいない私に気づいたのだろう。怒っているだろうな…と、思いながらも、翠はその電話に出なかった。
しばらくの間、どうしようかと悩んだが、心配を掛けてしまうのも困ると思い、メールで連絡だけする事にした。
『突然の用事が入り、挨拶だけして帰りました。すみません。』
それだけを送信し、スマホの電源を切った。
彼から連絡が来るのが怖かった。
今、どんな事をどんな顔で話せばいいのか。自分でも気持ちがわからなくなっていたのだ。
今日は何も考えずに眠りたい。それに、明日はちょうど仕事も家庭教師も休みだ。
電源を消したスマホをバックの中にしまい、ベッドに倒れ込み腫れた目をゆっくりと閉じた。
夢の中でも、色が出ないことを祈りながら。
その後も、「体調が悪い。」と言ったり「急な会議が入った。」などと理由をつけて色に会わない日が3日続いた。色の声を聞いてしまったら、我慢できなくなってしまいそうで、翠は全てをメールで済ませた。その後には、何回も色から着信が入っていたが、すべて無視をしていた。
それを見る度に、色の顔を思い出しては切ない気持ちになっていた。電話をしたくなったり、会いに行きたくなったりしたけれど、ぐっと我慢しては過ごしていた。
仕事終わりに急に時間が出来てしまった翠は、ただ呆然と過ごしていた。だが、すぐに思い出したかの様に、一人でギリシャ語を勉強していた。
頭の中では、もう彼に教えることはないと思っていても、「次はこれを教えたいな。」「彼ならこんな会話が必要かな。」と、考えてしまっていた。
無駄になるとわかっていても、それを止めることは翠は出来なかった。
次の日の朝に、色からメールが来ていた。
『今日は来るのか。』
ただ、それだけのメール。それだけでも、翠は嬉しかったが、同時に悩んでしまう。
行きます。と送れればどんなに嬉しいことだろうか。けれど、それは出来なくて、しばらくは返信出来ずにいた。
昼休み。心に決めて『今までごめんなさい。今日は行くのでお話しさせてください。』と送った。もう嘘をつくのが嫌になってしまった。彼には伝えなければいけない。
もう家庭教師が終わりになってしまったとしても、逃げ続けるのは止めなければいけないのだ。
色のためにも、自分のためにも。そう思ったのだ。
昼休み中に、色からの連絡はなかった。
仕事が終わる時間が近づくにつれて、翠はソワソワとしてしまい、業務に集中できずに岡崎に心配されてしまった。
仕事が終わったら、やっと彼に会える。けれど、今日で関係が終ってしまう。嬉しさと悲しさが混ざりあって、逃げたい気持ちが大きくなってしまう。
だけれど、それではダメだと自分に言い聞かせるうちに、あっという間に時間になってしまった。
1つ大きなため息をつきながら、料亭へ行く準備をした。大きなめなピンクや緑色の花柄に明るいグレーの生地のワンピースは、色が「1番似合っている」と褒めてくれたものだった。それを選んでしまうところが、自分はまだ彼の事が好きなのだと感じてしまう。
もうここを出なければいけないギリギリの時間になっていた。それでも足取りは重く、翠はゆっくりと挨拶をしてから店を出た。
店を出てすぐ、向かい側の道路に見慣れた車が止まっているのに気づいた。そこには、着物を着た男性が立っていた。それが誰かは見てすぐにわかった。
「冷泉様………。」
止めてあった色の車の前に、彼は電話をしながら立っていた。色は、翠が出てくるのを見ると、すぐにスマホ口に何かを伝えて電話を切っていた。
その間に、翠はゆっくりと色に近づいていた。気まずさから、彼の顔を見ることが出来なかったが、久しぶりに会うのが嬉しかった。ちらりと隠れ見た彼の顔はとても厳しくなっていた。
色が怒るのは仕方がない事だった。
休みが約5日続いたのだ。しかも、理由も曖昧だっだので、色には翠がどうしてこんな行動を取ったのかわからなかっただろう。
「冷さ………。」
「さっさと乗れ。話しはそれからだ。」
強い口調に冷たい言葉。
(あぁ、冷泉様に嫌われてしまった)と、翠は悲しくなった。だが、自分が招いた結果だ。自分が彼の事を本当の意味で考えてなかったのだから。
車の中では、お互いに何も会話はなかった。
色は、運転するだけで1度も翠の方を見ることもなく、そして話も掛けなかった。シーンと静まりかえった社内では、翠は激しく鼓動する自分の心臓の音だけが聞こえているように感じられた。
色が連れてきたのは、いつもの料亭だった。仲居さんが顔を出したが、「今日は何もいらない。人払いしとけ。」と、顔を見ずにそう言い捨てた。そして、翠の腕を乱暴に掴むと、強い力で引っ張り、そのまま足早に廊下を歩いた。それに、翠は必死について行った。
奥部屋に着くと、掴んでいた手は離された。
そして、いつもの場所に座るように、目で指示をされる。それを翠は素直に従いいつもの場所に座った。色も同じように隣に座る。だか、テーブル向きではなく体は翠の方を向いていた。
「で、何で急に休み始めた?」
前置きもなしに、色は唐突に厳しい口調で言った。好きな人の鋭い目線に、挫けそうになりながらも、その目を見つめ返した。
「忙しくなって、体調を崩しました。すみません。」
「…………それで、これからはちゃんと続けられるのか?」
「それは……。」
その問い掛けに、翠はたじろいだ。「辞めさせてください。」と言わなければいけない。そのつもりで、ここに来たのに、色を目の前にして翠は気持ちが揺らいでしまった。
冷泉様とこれからも会っていたい。好きでいたい。
そう望む気持ちが強くなってしまっていた。
「辞めたいのか?」
「…………。」
黙り込んでしまった翠を色が見つめる。
ため息が頭の上から聞こえた。呆れられたのかとも思ったが、そうではなかった。翠の頭に優しい感触が伝わってきたのだ。
色に撫でられている、とわかった時には翠の目にはうるうると涙が溜まっていた。必死に泣くのを堪えながら、先程とは違って優しい顔の彼の瞳を見つめ返した。
「何か理由があるんだろ?」
「ごめんなさい………。」
「………どうせ神崎が余計な事を言ったんだろ。」
「どうしてそれを?」
「やっぱり、そうなんだな。」
色に鎌をかけられたのがわかり、しまったという顔をしてしまうが、すでに遅かった。色に「話せ。」と促され、迷いながらも、神崎との話をゆっくりと話始めた。
「私が冷泉様の体調にも気付かず、配慮もしなかったのが悪いんです。本当にすみませんでした。」
「神崎(あいつ)が大袈裟すぎるんだ。現に俺は、体調なんか崩してないだろ。」
「でも、お疲れのご様子でしたし………。」
「あれは、取引先と遅くまで食事をしてたからだ。」
「でも………!!」
色は、翠が悪いわけではないと気を使ってくれているようだった。
だが、翠はどうしても自分の浅はかな了見が許せなかった。しかも、好きで大切な存在の人への事だ。このままでは、色が疲れが溜まり体を壊してしまうのは目に見えていた。
だから、家庭教師を止めるのが一番早い方法だった。
彼は多少ならばギリシャ語で会話出来るようになっている。取引の始めの会話ぐらいは、可能だと思っていた。
翠は、迷いながらも気持ちは決まりつつあったのだ。
色の言葉を聞くまでは。
「俺は何があってもおまえを途中で辞めさせるつもりはない。」
その宣言するような言葉を聞いてしまったら、翠は心が揺らいでしまう。
それでも、あの疲れて眠る彼の顔や、神崎の呆れた表情が、頭の中をよぎった。
色の優しさに、甘えてはダメだ。
彼のために自分の願いは諦めるのだと決めたはずだ。
堪えてたはずの、涙が左目からポロリと一粒流れた。それを見た色は、不思議そうにそれを眺めながら翠の言葉を、待っていた。
「辞めたい、です。」
その言葉を声にした時。
色はすぐに顔色を変えた。
迎えに来てくれた時と同じぐらいに真っ黒な表情に変わった。
自分の決めた事を伝えてきった、翠は「冷泉様、すみません。」と言い、その場から立ち上がって逃げようとした。
だが、その瞬間に翠の視界が変わった。
気づいた時には、肩や腰に多少の痛みが走り、視界いっぱいに色の顔があった。
それは、今までで1番の怒りの表情で、冷淡な瞳が翠に恐怖を感じさせていた。
押し倒された。そうわかったのは、しばらくかかってからだった。
「もう一度聞く。おまえは、辞めたいのか?」
それは、とても低く唸るような声で、色の怒りが強いことがわかるものだった。
翠は、泣きそうになるのを堪えながら、それでも色の瞳を見つめた。なるべく彼に負けないように、強い視線にしたかったが、どうしても出来なかった。
「……はい。」
涙はもう流れないが、声が震えてしまう。
それを隠すように、色を見上げる視線が鋭くなる。だが、それで怯むような彼ではもちろんなかった。
「俺と会うのが嫌になったか?」
「………え?」
「俺に教えるのが嫌になったのかって言ってんだよっ!」
「………ち、ちがいます!そんな事、絶対にないですっ!」
彼の問い掛けは、翠にとっては辛いものばかりだった。
色を嫌いになるはずなどない。教えるのが嫌になるはずがないのだ。その逆の気持ちなのだから。
彼の激しい口調に合わせるように、翠も自分でも驚くような大きな声で叫ぶように言ってしまったが、もう止まらなかった。
「冷泉様が心配なんです。私、神崎さんに言われるまで、冷泉様が疲れているの気づかなくて。お忙しいってわかってたのに、自分の事ばかり考えて、わからなかったのが悔しいんです。」
「だから、それは気にしなくていいって言ってるだろ!」
「私が気にするんです……!」
「おまえ、なんでそんなに………。」
不思議そうに、自分を見つめてくる色の顔を間近で見つめて、あぁ………この人の事がとても好きだと、実感してしまう。
ただのお店のスタッフだった自分にここまで優しくしてくれて、そして、感情をぶつけながらも、しっかりと話を聞いてくれる。
一つ一つに真面目で、俺様だけどしっかり見てくれる人、とてもマメだで、そして温かい人。
目の前の冷泉色という人が愛しくて仕方がなかった。
ずっとずっと隠していた気持ちが、我慢できなくやって溢れ出てきてしまうのに、翠自身が感じていた。
こんなにも好きな人が近くにいる。まだ、手を伸ばせば届く距離にいるのだから。
「冷泉様が好きです。」
「………おまえ………。」
「冷泉が好きだから、心配なんです!」
堪えてきれなくなった感情と涙を溢しながら、気づくとそう色に伝えていた。
彼の表情はボヤけて何も見えなかった。
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