8話「忠告」





  8話「忠告」




 昼休み。

 今日は翠の担当のお客様がお昼過ぎに来店され、昼食を食べる時間がなく、遅めのランチになってしまった。手作りのサンドイッチと紅茶を飲みながら、休憩室で一人で過ごしていた。

 最近、毎日持ち歩いているものがある。それは、色からもらったギリシャの写真集だった。


 色から貰った大切な物で、手放したくないのだ。それに、憧れのギリシャの写真を見ると、元気が出てきて頑張ろう!と思える。休憩中にギリシャへの思いを馳せて、幸せに浸るのが日課になっていた。



 それに、今日はそれだけではなかった。

 色は、ギリシャ語の覚えがとても早く、本人も「早く会話をしたい。」とも言われているので、今日の授業から会話をメインにしようと思っていた。ギリシャの話題を出していけば、勉強しながらギリシャの事も、覚えられると考えたのだ。

 なので、休憩中に何を話そうかと、ギリシャの写真集を見て決めようと思っていた。



 「冷泉様はギリシャのどこにお店をつくる予定なんのかなぁ?」



 翠は、独り呟きながらそんな事を考えていた。

 初めてのギリシャ出店だから、やはり人が多い街中なのだろうか?それとも、観光名所なのか、それとも自然が多いところなのか。

 それを考えるだけでも、とてもワクワクした。


 そして、ギリシャの神秘的な雰囲気の中を着物姿の彼が歩いたら、どんなに素敵なのだろうか。着物でなく私服だとしても、目立つ容姿をしているから注目を浴びてしまうのではないか。

 


 「そういえば、冷泉様はどんな私服なのかな。それに、スーツ姿も絶対にかっこいいわ。」



 いつの間にか、色の事ばかり考えてしまっていたが、それに気付いたのは休憩時間が終わる間際で、結局彼のことばかりを想像して休憩は終わってしまったのだった。


 



 その日、仕事が終わり急いでいつもの料亭に向かうと、誰かが店先に立っていた。そして、翠を見つけると丁寧に頭を下げたのだ。よく見ると、翠が知っている人物だった。

 色の秘書、神崎と呼ばれていた綺麗な女性だった。



 「突然、失礼致します。私、色社長の秘書をしております、神崎綾音と申します。この間は、挨拶出来ずにすみませんでした。」

 「一葉翠です。こちらこそ、大切な話の邪魔してしまって、すみません。」



 そう言うと、「いえ。」と一言言った後に、ちらりと翠を一見した。そして、続けて神崎が話を始めた。


 「家庭教師を付けてるとおっしゃったので、もっと年配の方を想像していたので、昨日もですが驚いてしまいまして。」

 「そうですよね……私も驚いています。」

  


 そういうと、神崎は小さくため息をついた。何か失礼なことを言ったのかと思ってしまった。



 「あの……。」

 「一葉さんに、お願いがあります。家庭教師をやめていただけませんか?」


 鋭い口調で言われた言葉に、その場はピンとした空気に包まれた。翠は、「家庭教師をやめる」という言葉を頭で理解するのに、いつもより時間がかかったように感じた。それぐらい衝撃が強かったのだ。


 「………それは、どういう事ですか?」

 「言葉の通りです。色社長とこうやって会うのをやめてもらいたいのです。」



 強い言葉と視線で、翠に向かってきっぱりとそう言った彼女の視線はまっすぐと翠に向いていた。

 神崎の言葉に動揺しながらも、翠は「わかりました。やめます。」とは、もちろん頷けない。


 翠は色との契約の関係だとしても、毎日会いたくて仕方がなかったし、彼との時間が特別だった。しかも、この関係は期間が決まっており、少しずつ終わりへと近づいているのだ。そんな状態の関係を彼女に止めてほしくはなかった。


 それに、これは色からの提案で決まった、家庭教師という関係だった。神崎の上司である色の考えを違えたいと思うのは、どうしてなのかが翠は気になった。



 「この家庭教師という関係は冷泉様が決めて、私を誘ってくれました。それに私は応えましたし、今の時間がとても楽しみなんです。だから、私はやめたくありません。」

 「…………やめていただきたいのは、色社長のためであってもですか?」

 「………その理由を教えてください。」



 神崎の言葉を聞いて、翠はハッとした。色に何か迷惑を掛けていたのか、と心配になったのだ。冷静になり、謝罪をしてから神崎の話しを聞こうとした。



 「色社長は普段とてもお忙しい方なんです。家庭教師の件は、どうしてもということでその時間は空けるようにしていますが、休んだ分の仕事は溜まっていきます。そのため、この時間が終わった後も会社に戻り、遅くまで仕事をされております。」

 「ぇ…………。」

 「最近では、疲れがピークのようで顔色も悪く心配しておりました。一葉さんはお気づきになりませんでしたか?」

 「それは、、、。」



 神崎の話しに驚きながらも、自分の愚かな考えに、後悔をしていた。

 よく考えればわかる事だ。彼は大手企業の社長だ。忙しいのも、知っていたつもりだった。


 そんな彼が週5も時間を作っているのは、大変なのに気づけなかった。自分が彼に会いたい、側にいたい、そんな自分だけの気持ちを優先してしまったのに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 大好きな人の体調を心配しないなんて………。と、自分に対して苛立ってしまう。


 神崎は、再度ため息をついて、「わかっていただけたようですね。」と小さな声で呟いたのが聞こえた。 

 秘書として、社長の事を心配するのは仕事かもしれない。けれど、神崎は気づいて自分が気づかなかった事に、翠は悲しくなってしまった。



 「色社長のためにも、今後の家庭教師を考えていいただきたいです。お願いします。」

 「すみません、でした……。」



 泣きそうになるのを堪えながら、神崎に頭を下げた。

 でも、1番に謝りたいのは彼にだ。

 それでも、頭の中では「やめたくない。」「彼に会えなくなるのはイヤだ。」という事ばかりで、そんな自分が更に嫌いになっていた。



 




 神崎と話をしていたため、約束の時間に遅れてしまった。

 また「遅い。」と言われてしまうかな、と普段だったらそれさえも嬉しく思ってしまう。が、今日は会うのが怖かった。


 彼にどう話そう。体調は大丈夫なのかも心配だったし、気づかなかった事を謝りたかった。

 そして、「終わりにしてください。」と言わなければならないのか、と迷った。翠はやめたくないけれど、色のためを考えるとやめた方がいいのだと思う。けれども………と、自分の気持ちをどうしても優先してしまいそうになる。



 彼はどんな反応をするだろうか?怒ってしまうだろうか?それとも、仕方がないというか、予想がつかなかった。



 いつもの奥部屋の前に立ってどれぐらいの時間悩んでいただろうか。

 手を伸ばしてドアをノックし、「冷泉様、失礼します。」と、震えてしまった声でそう言い、恐る恐るドアを開けた。



 「遅れてしまって………あれ?」



 ドアを開けて部屋を見ると、いつものように色は先に来て座っていた。だが、いつもと様子が違っていた。遅れてきた翠に対して何も言葉はなかったし、それに机に顔をつけていた。



 「冷泉様?」



 近づきながら、彼の名前を呼ぶが何の反応もなかった。静かに顔を覗き込むと、色は静かな寝息を立てて寝ていた。起きてる時には想像が出来ないぐらいの、幼い顔に翠はドキリとした。初めて見る彼の寝顔はとても幼く、そして、疲れて見えた。



 テーブルには、ギリシャ語の本と翠が上げた緑色のノートとウサギのペンが置いてあった。

 普段は開かない、終わりのページの方から使っているようで、そこには沢山の単語が書いてあった。

 翠はそれを見つけると、ハッとし、その後涙が止まらなかった。


 「冷泉………さま…………。」



 色は、忙しい仕事を夜中まで働く事でまわしてきた彼は、それだけではなくギリシャ語の勉強もしていたのだ。ギリシャ語の上達が早かったのも、翠との勉強だけではなく、他の時間も考えてくれていたからだった。彼は本気で覚えようとしてくれていたのだ。


 嗚咽が出そうになるのを我慢しながら、熟睡している色の顔を見つめた。

 (私、冷泉様の事、何も見てなかった。自分の事だけ考えてい、無理をさせていた。こんなの家庭教師をやる資格なんてないよ……。)


 他の人に言われるまで気づかなかったのだ。これで3ヶ月続けていたら、どうなっただろうか?

 彼も大人だから体調管理はしていそうだが、それでも無理してしまうのは、今回の事でよくわかった。




 大好きな色を見つめた。

 自分には彼に会う資格がないのだ。会えなくなるのは辛いけれど、どうせあと一ヶ月半後には、この関係もなくなってしまう。少し早まったと思えばいい。

 そう自分で自分を納得させていく。

 こうやって、独り占めすることも近くに居られることも、もうないかもしれない。

 そう考えると切なくなってくる。



 翠は、ゆっくりと色に近づき、艶のある綺麗な髪にゆっくりとキスをした。



 「冷静様、大好きです。…………そして、ごめんなさい。」



 消えてしまいそうな声で、そう伝え、彼の白檀の香りから逃げるように体を離した。

 その香りに包まれるだけで、また涙が出てしまうからだ。



 

 翠が出ていった後は、また微かに寝息だけが聞こえる、静かな部屋へと戻ったのだった。



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