7話「白檀の香り」





   7話 「白檀の香り」




 以前、翠は色の香りがとても気になり、彼に教えて貰った。色はそっけなく「白檀だ。」と、言っただけだったが、翠は聞いたことがない香りの名前を必死に覚えて帰った。



 家に帰ってから調べてみると「爽やかで甘い芳香」と書いてあり納得しながら、白檀の説明を読み進めていった。お香やお線香の香りとしても有名で神聖な空間に焚かれる事が多いと書いてあったり、集中力を高めたりするともあった。

 控えめな香りは、料亭にも合っているような気がした。

 だが、その後も読んでみると「妖艶さも含まれる香りであり、性的興奮も高める香り」とあった。そこを読んだ時、翠は緊張し一人で顔を赤くしたのだった。


 長く続いたキスが終わり、色に抱き締められている時に、いつもより甘く香る白檀の香りを嗅ぎながら、白檀の妖艶さが出てしまったんだな、とボーっとした頭で、翠はそんなことを考えてしまった。



 その日は、ほとんど会話のないまま、色と翠は別れた。




 家に帰ってから、翠はすぐにベットに飛び込んだ。そして、ボロボロと泣くことしか出来なかった。


 自分が全部したことだとわかっている。

 色の売り言葉に乗ってしまったのだ。彼だって、本気ではなかったのに、本気にさせてしまった。言ってからでは誤魔化せないのが、大人なのかもしれない。色の苛立った様子を思い浮かべるだけで、「嫌われた。」と思ってしまう。



 「冷泉様が好きだってわかったのに。……軽い女だと思われちゃったな、きっと。」


 彼はちゃんとセーブをしてくれた。

 キスだけの関係へと変えてくれたのは、優しさだったのか、身体の関係を持ちたくなかったか。それは、彼だけにしかわからないことだった。

 


 「冷泉様、ごめんなさい。」



 色を好きだと、自覚した日の夜に彼と急接近した。けれど、それは契約のキスだとわかったけれど、翠には止めることが出来なかった。


 今止めてしまったら、もう彼とは会えなくなってしまう。翠は、それが一番辛かった。

 元々、3ヶ月だけの仕事の関係で、それが終わればお店のスタッフとお客様の関係に戻ってしまうのだ。それならば、もうすぐに切れてしまうよりは、彼と触れあっていたかった。その考えが浅はかだとわかっていても。


 本気で彼を好きになる前の、恋愛に興味がなかった頃の翠ならば全く考えられない行為かもしれない。好きな人とならば、恋人になれないならキスだけでも、一夜の恋だけでもいい、そんな考えは下らなくバカげた事だと、ずっと思っていた。

 それは普通の人ならば、避けなければいなけい事かもしれない。


 でも、翠は彼の熱を感じてしまい、それをもっと欲してしまったのだ。

 冷泉色という男を深く愛してしまっていた。



 それに気づいたのが遅かった。


 翠は枕に顔を押し付けて、涙をいくらか流し、微かに残る白檀の香りに包まれながら、夜を過ごした。








 次の日も、翠はいつもの料亭へと向かっていた。

いつもよりも、足取りは重く時間がかかってしまう。少し時間が遅れてしまったが、それでも、翠は料亭に来てしまうのだった。 


 (バカだな、私……。)


 いつものようにお洒落をした私は、いつか色が似合うと言ってくれたフレアのワンピースに、好きだと言ってくれた、ウェーブがかかった金色の長い髪は、おろしている。

 料亭のためのおしゃれが、今では彼のためになっていた。



 「……。遅いぞ。」

 「すみません。」


 いつもの奥部屋へと入ると、普段と同じように色はすでに来ており、座っていた。

 ドアを開けた瞬間。彼は驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの憮然な態度に戻っていた。


 翠は「すみません。」と謝罪してから、色の隣の座椅子に座る。

 彼は、黒近い灰色の着物を着ていた。温かくなってきたからか、羽織ものはしていなかった。むしろ、暑さを感じていたのか少しだけ首もとが空いており、それを見つけた瞬間、翠はドキリと胸が鳴り、すぐにそこから視線を逸らした。



 「冷泉様、あの………っ………..。」



 昨日の出来事からの、今日で、さすがに翠も緊張していた。やっとの事で、色の顔を見つめて話しをしようとした、瞬間。

 彼から熱が降ってきた。熱いけれど、少し切ない味のキスが。


 続きの言葉を止められるかのような、深いキスで、翠の声はすべて色の身体の中に入って消えてしまうようだった。



 「これでいいんだろ?」

 「………ん…。」


 「はい。」と、返事をしようとしたけれど、それさえも色に防がれてしまう。キスに翻弄され、頭がぼーっとしてしまう。返事が出来なかった事よりも、今は色との触れ合いを堪能したいと思ってしまう。溺れていく…息をしなければいけないけれども、彼に浸ってくのに夢中になるのを止める事が出来なかった。


 長い時間に感じられたが、ほんの数分だったのかもしれない。熱にあてられたのか、体がふにゃんっとなって自分では支えられなくなってしまい、色の胸に体を埋めてしまう。

 すると、色は笑いながら、頭を撫でてくれた。



 「明日から、キスは最後にした方がよさそうだな。」



 キスの後は、しばらく教えられないと思ったのだろう。現に体が上手く動いてくれない。

 「すみません。」と返事をしたが、それに返事はなく変わりにずっと頭を撫でられ続けたら。きっと、「気にするな。」という事らしい。


 この僅かな甘い時間を、翠はそっと目を閉じて幸せに浸っていた。








 契約の関係が続いたとしても、2人は変わらぬ雰囲気で接するようになっていた。

 キスをするときは、恋人同士のように甘くお互いが求め合うが、それ以外は今まで通りの関係だって。

 2人が慣れてしまったのか演技なのかは、よくわからなかったが、日々が過ぎていくゆくにつれ、それが普通になったのだった。






 「冷泉様は、スーツは着ないのですか?」

 「仕事の時は、ほとんどスーツだ。」

 「え………でも、、、。」

 

 家庭教師と、甘い時間の後。

 今日は、コース料理をいただいていた。いつものように贅沢をしてしまい、ダメだと思いつつも、あまりの美味しい誘惑に負けてしまう。

 そんな心もお腹も満たされた時間に、気になったことを彼に聞いてみた。


 翠が色に会う時は、いつも和装だった。もちろん、今日も淡い緑色の着物を身に付けていた。 

 お店で来店されるときも、担当ではなかったためか、頻繁には会うことはなかった。見かけた時は和装ばかりだったため、色の言葉に驚いてしまう。


 それに、社長としての仕事はほとんどが本社だと聞いたことがあったので、何故着物を来てここに着ているのか、不思議に思ったのだ。


 「自分の店に来る時は、雰囲気のためにもなるべく和装にしてるんだ。」

 「えらいですね!…あれ、じゃあ、わざわざ着替えてくれてるのですか?」

 「おまえが、家じゃ嫌だって言うからな。」


 色は不貞腐れた顔で、そう言いながらお茶を口にした。

 色がわざわざ家庭教師のために着物に着替えてここに着ていたのには驚き、申し訳ない気持ちになった。


 彼が忙しい仕事だと言うことは理解していたが、いつも翠よりも先にここに着いて、最後まで一緒にいてくれる事に感謝をしていた。食事は、取引先との食事や会合の前後のときは、食べなかったが、途中で帰ることはなかった。

 それにプラスして、着物にも着替えてくれていた。彼の仕事に対する考えにかっこいいと思い、そして、その手間に対して今まで何も言わなかった色の優しさに、翠はまた心がドキドキとしてしまった。



 「冷泉様、ありがとうございます。」

 「…俺が決めた事だ。」



 冷たく言い捨て、視線を中庭に逸らした。

 色が照れ隠しをする時は、こうやって視線を外すという事を翠は知っていたので、翠も隠れて嬉しく笑ったのだった。




 「色社長。よろしいでしょうか?」


 その時だった。

 ドアの外から、いつもの仲居さんとは違う女性の声が聞こえた。いつもは食事以外では誰からも声を掛けられないため、翠は驚き身を固めてしまった。

 それ気づいたのか、色は小声で「俺の秘書だ。」と翠に教えてくれたので、翠は少しだけ安心をして力を抜いた。



 「入れ。」

 「失礼致します。」



 ドアを開けて入ってきたのは、長い黒髪か特徴的なとてもスタイルが良い綺麗な女性だった。足が長いからか、パンツスーツを綺麗に着こなしており、「仕事が出来る女性」の見本のような人だった。

 くっきりとした目で翠をちらりと見た後、「お話し中失礼致します。」と挨拶をした。

 


 「用件は。」

 「それは…。」



 翠をもう一度見て、ここで話してもいいのか、という雰囲気を伝えようとしていた。彼女の視線で翠は、退席しようと腰をあげようとするが、翠の手を色が掴み、それを拒否した。



 「……冷泉様?」

 「いい話せ。」

 「かしこまりました。先ほどの取引の件で、御相手からさっそく連絡がありました。」

 「わかった。そして、神崎。これは急ぎの件ではない。」


 少し強い口調でそう言うと、それだけで色の言葉の意味を理解したのが、神崎と呼ばれた女性は、一瞬悔しそうな顔をした。それの瞬間を、翠は見てしまった。すぐに、「すみませんでした。失礼します。」と言って、部屋を出ていく。


 

 「悪かったな。」

 「いえ!私も話をしてしまったので。少し長くなりましたよね。もう、帰りましょうか。」

 「デザートの甘夏のゼリーはいいのか?」

 「あ、食べたいです!」



 そう言って、自分と色の分の2つのゼリーを堪能した頃には、先ほどの出来事を気にする事も忘れ、その日の2人の時間を終えたのだった。





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