第7話:孵化
花ヶ岡生たる者、清廉潔白にして温良貞淑なる大和撫子像を心奥に留め置くは最低限度の常識である。
然しながら近年はこの信念に背いて盤内外の手技手法を用い、打ち場を囲む友人を欺き騙し、穢れに塗れた欺瞞的勝利に酔い痴れる愚者が続出するという、開校以来の由々しき事態と相成っている。
愚者達に齧られた柱を放置したままでは、花ヶ岡は忌手の温床と成り果て、やがては轟音と共に崩れ去るのは明白である。
そこで花ヶ岡の伝統かつ守護すべき
悲しいかな、未だ忌手の完全排除へ至らない事実をここに謝罪したい。
忌手は魔薬である。
一度でもこの薬を服用せし者は、須く容易い勝利の味の虜となり、もう一度、もう一度と忌手の登場回数を増やしていく。歴史的大盗賊の石川五右衛門が詠んだ通り、悪人の種は尽きる事が無いのかもしれない。
故に、花ヶ岡生は本書を手に取り、魔薬への耐性を付けなくてはならない。知らぬ方が幸福に暮らし、欺かれようと「仕方無し」と笑む事が可能であろう。その笑みはやがて宿主を冒し、静かに殺め切るであろう。
今、本書を読む将来の撫子に告ぐ。
あえて劇薬を飲み干し、燃え滾る正義感によって浄化を試み、尽きる事の無い悪人への抗体として頂きたい。そして打ち場に向かい、神聖の場を穢す愚者が現れた際には、必ずや得た抗体を発動し、凜々しい勇気を以てそれを糾弾されたい。
可憐の花が咲く浄土に、忌まれる手の伸びぬ事を願う。
花ヶ岡高等学校姫天狗同盟一同。
《金花会》の前身、《姫天狗同盟》に入部した生徒全員に配布された冊子、《毒法千手詳細覚書》の序文である。
この覚書は、発行当時校内に蔓延していた
そして――この冊子は真逆の効果をもたらす事となる。
同盟の面々は皆が純情であり、全員が「これを読めば、誰しも忌手は悪だと分かってくれるだろう」と思い込んでいた。無論、彼女達の狙い通りに冊子を読み、種々の手練手管に戦慄しつつも、抗体を我が身に宿した生徒も大勢いた。
一方、「あぁ、こんなに簡単な方法があったんだ」と感動する生徒も……大量に存在した。当時も《花石》は校内で流通しており、購買部での利用に留まらず、課題プリントの買取、板書済みのノート販売、現在は厳しく禁止されている「貸付」を行う者が跋扈した。
花ヶ岡にて《花石》は絶対であり、これを大量に稼ぐ手っ取り早い手段が――打ち場での「大勝ち」であった。
運も絡む賀留多の技法において、その勝利を盤石にしてくれる忌手は、手段を選ばぬ者にとって救いだった。
やられるくらいなら私がやる――先手必勝に走った生徒が後を絶たず、発行から約半年で回収、絶版と相成った過去を持つこの冊子は、しかし強烈な好奇心を誘う魔薬には変わり無い。
結局……監視の目が行き届かない暗黒の下で複写され、今でも密かに流通しているのが現状である。所持者は大抵が《代打ち》、あるいは表の実力を充分に備え、我慢が効かずに裏を覗いた者だった。
尤も、たった今打ち場を囲む生徒――目代小百合がこの禁書を手に入れた理由は、全く邪心は無く「知識、自己防衛の為」であった。今は無き《姫天狗同盟》が描いた理想の使用例が彼女の場合であろう。
少なくとも、今までは。
うっ――?
摘祢は思わぬ出来事に直面し、無意識に息を吸い込んでしまった。ケホケホと咳き込む摘祢は、「まさかそんなはずは」と目代の右手、その内を刮目した。
よく見えなかった。手札は両手で扇状に開き、右手はすぼめられて影が生まれ、摘祢の探し物は認められなかったが……。
一瞬だけ、目代が右手を微かに開いた。
夏の野山を駆け巡る猪が、「有り得ぬ場所」で捕らわれていた。
貴女、何をやっているの!
そう叫ぼうとし、口を何度も開こうとした摘祢は、喉を震わせる工程が突破出来ずにいた。
時に驚嘆とは、その者のあらゆる行動を縛り付け、酸素の足りない金魚の如く……口を無益に開閉させてしまう。
何をやっているんだこの女は。間違った? 間違って二枚起こした? だったら目付役に言うべきだ、どんなに恥ずかしくとも、代打ちとしてのプライドが許せなくとも、「間違えました」と言うべきだ。
いいや、違う……手の内に釣り込んだ札をそのままに、ジッと場を見つめているんだもの。札の感触が分からないなんて言わせない、だとしたら――。
目代小百合は、自らの意志で
「……っ、お願い!」
齋見は場札の《菊に短冊》へカス札を合わせ、一度深呼吸をしてから山札へ手を掛けた。全員の視線が齋見の親指、人差し指、中指に集中する。ゆっくりと起こされる札から、ギギギッと金属音が響くようだった。
三秒後。
齋見は恐る恐る起き札を検めた。
札を持つ手が震えた。
俄に齋見の口角が歪に上がり、「あはっ」と吐息混じりに笑った。
摘祢はその時、離れた位置に座る怜未の表情を確認した。手の角度から……彼女の側なら「正体」が分かるからだった。
親友の顔を見やり――摘祢は冷水を被ったような悪寒を覚えた。
怜未の瞳は輝きを失っていた。乱暴に、絵の具で真っ黒に塗り潰されているようだった。
間を置かず、観客が奇声じみた歓声を上げ、齋見の周囲に殺到した。
おめでとう……凄いね齋見さん……最強って事じゃん……やっぱりあの子が悪いんだね……もうあの子、終わったね――。
「あは、アハハハハ! いやぁチョーウケんだけど! 馬鹿じゃないのこの女、カンニングしておいて《札問い》吹っ掛けてさぁ、挙げ句の果てに負けてんだよ、もう笑い止まんねぇって!」
齋見に報酬の花石を渡した敵は、硬直する怜未の前に立ち――ネクタイを掴んで無理矢理に立たせた。
「ごめんなさいは?」
「……私はやっていない、全部貴女が嵌めたんでしょう」
「聞こえないんだけど? いいから謝れよ。『馬鹿な垂野怜未が、貴女のテストをカンニングした上に、調子こいてごめんなさい』って」
取り巻きの生徒が「謝れ」と囃し立て、怜未の謝罪を何度も要求した。だが……怜未はキッと仇敵の女を睨め付けた。それを境に一層沸き立った敵は、彼女の胸ぐらを掴んで廊下に引っ張り出し、「皆、もっと面白い事しよう」と取り巻きに声を掛けた。
もう許せない。これ以上は放って置けない――!
摘祢は教室を飛び出すと、引き摺られるように歩く怜未の後を追った。野次馬は大声で怜未を嘲笑し、「もう学校来んなよ」と罵倒した。
ふと……怜未は彼女の接近に気付いたのか、振り返って摘祢を見つめた。
怜未はかぶりを振って「来ないで」と声は無く、唯口を動かして別れを告げた。
ガタン、と後方で音が鳴った。
摘祢は振り向き……同時に沸き立つような怒りを覚えた。
「……ま、待ちなさいよ目代小百合!」
摘祢の呼び止めに応じたのか、目代は振り向かずその場で静止した。
「貴女、札を釣り込んだわね!」
目代は答えない。摘祢は視界が赤らむような苛立ちと共に「答えなさい!」と怒鳴り付けた。
「貴女のせいで、私の親友が大変な事になっているのよ? 貴女のせいで、貴女が賀留多に弱いから! 貴女が一人の人生を狂わせたのよ!」
更に糾弾しようと息を吸い込んだ瞬間、窓の外で怜未らしき人物が取り囲まれ、ゲームのように突き飛ばされているのが見えた。教員を呼びに行こうとした摘祢から逃げる為か……目代は足早に立ち去ろうとした。
「っ、貴女逃げるつもり!? 最低ね、何処までも最低な女なのね! あぁ良いわ、もう貴女は殴ったり蹴ったりじゃ生温いわ! 憶えていなさい、いつの日か……貴女が――お前が一番嫌な方法で、一番辛い状態に貶めてあげる! 憶えていなさい、どんな事をしてでも、どんな方法を使ってでも!」
お前を必ず堕としてやるわ――。
目代が階段を上がって行くと同時に、摘祢は職員室へと走って行った。
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