第16話

「――あれ、兄貴何やってんの?」


 シャワーを浴びていた一華が、部屋着に着替えてリビングに現れた時。オレはソファーに背中を預けて虚空を眺めていた。

「……いや。まさか自分の部屋があんなに男くさいとは思わなくてな……」

「っぷ。なにそれうける」

 リビングから続いているキッチンに奥に置かれた冷蔵庫からジュースを取り出していた一華が、オレの呟きに小さく吹き出す。


「でもこれで分かったっしょ? 自分がいかに臭かったか」

「……やめてくれ。お兄ちゃんのメンタルはブレイク寸前よ……」

「もうブレイクしてんじゃん、その様子だと」

 一華はその後も冷蔵庫を漁ると、もう一本ペットボトルのジュースを取り出した。そうして自身のそれに口をつけながらリビングに戻ってくると、口をつけていない方をテーブルに置く。位置的にオレの目の前だ。


「ほい」

「……あ、あぁ。さんきゅ」

 ぼふっとL字のソファーのもう一辺のほうに座り込んだ一華をしり目に、オレは目の前に置かれたジュースへと手を伸ばした。中身は何の変哲もないオレンジの炭酸飲料。程よい酸味が身に染みわたる。

 嗚呼、オレンジの果汁よ。そのさっぱりとした味わいで、この鬱屈した気持ちも洗い流しておくれ。

 ……ちなみに、表記は無果汁だった。



「………………」

「…………なんだよ?」



 先ほどから一華の視線を感じる。

 オレはボトルから少し口を離して、ちらりと彼女の顔を窺った。オレと目が合うと、一華は膝に肘をおいて手のひらで顎を支え、まじまじとオレの全身を眺め始める。

「いや。ホントに女の子になったんだなと」

 言われてオレは自身の体を見下ろす。


 真っ先に目につくのは、ささやかながらも自己主張する二つのふくらみ。決して大きくはない。大きくはないが、オレ的にはこのくらいの大きさの方がグッとくるというか――

 それはさておき。普段だったら帰ればさっさと部屋着に着替えるのだが、今はまだ制服だ。そういえば、こんなにも至近距離で女子制服を眺めたのは初めてかもしれない。ましてや着るのなんてもってのほかだ。そんな機会があっても困るだけだったろうが。


「着替えないの?」

 オレが制服に思いをはせていると、そう一華が口を開いた。彼女の表情は、どこか咎めるような雰囲気を感じる。

「まさか、女子の制服が好きすぎて着替えたくない……とかじゃないよね」

「……んなわけあるかよ。変態かオレは」

 いつもなら間髪入れずにバシッと訂正するところなのだが……。覇気のないオレの様子に、一華はそれ以上の攻勢に出ることはなかった。気を遣ってのことか、はたまた思ったような返しが来なくて面白くなかっただけかはわからないが。


「――で。じゃあなんで着替えないの?」

 持ってきたドリンクに一度口をつけた彼女は、今度は理由を問う。正直大した理由はない。オレはぴらりとブラウスの裾をつまみつつ、小さく肩をすぼめた。

「まあ、オレも着替えたいのはやまやまなんだけどな。これしか服がないんだよ。サブさんも、服については特に触れることはなかったしな」


 ここ数日神三郎が気にかけていたのは、性転換できる時間の延長についてだ。女子を知るというのを目標に掲げていたはずだが、残念ながら現状そこを考えるまでに至っていない。もしかしたら、彼自身も思うように目標を達成できていないことに焦りを感じているのかもしれない。


 ……まあ、そもそもこんな有り得ないことを考えて、しかも実際にこなして見せているんだから、十分な気もするけどな。


 オレ自身は、別に変身時間などさして気にしていない。何故オレだけ時間が異常に長いのかという点について、気にならないといえばうそになるが、無理して解明したいとも思っていなかった。友人のよしみで、神三郎の研究に協力しているだけだ。……そんなことを言ったら、またツンデレだのなんだのと言われそうだが。


 そんなとりとめもないことを考えていると。「ふーん」といかにも興味なさそうな相槌を返してきた一華が、追加で言葉を重ねてきた。



「……何なら、私の服貸そうか?」



 ……聞き間違いだろうか。


「……なんだって?」


 オレは思わず聞き返した。が、それは別に聞こえなかったわけでも、聞き流してしまったからでもない。しっかりと耳にしたうえで、信じられなかったから聞き返したのだった。


 それに対し、オレが話半分に聞いていたと勘違いしたのだろう。一華は「だーかーらー」と煩わしそうに眉をひそめながらも、繰り返す。

「私の服貸そうかって言ってんの」


「…………え、マジでいいの?」

 二度口にされたところで、到底信じることができなかった。何せ普段の彼女の態度は、俺への敵愾心の塊みたいなもの。口を開けば近寄るなだのなんだのと、おおよそ円満とは程遠い関係だ。そりゃ、おずおずと窺うような物言いになってしまうのも仕方のないことだろう。


 まあ、兄として情けないといえば情けないんだけどな。


 そんなオレに対して、一華はひらひらと手を振るい、何でもないといった様子で答える。

「今のその格好なら、まあ許せるから。普段の兄貴だったら、死んでもごめんというか、死ねよって感じだけどね」

「……気軽に人を陥れるのやめましょう?」


 一華にとっては、いつもと違う兄……むしろ、兄(?)なのだろうが。オレにとっては性転換したといえど、自分自身には変わりない。体は自他ともに女の子であることは認めるが、中身については変わったつもりもない。


 つまり一華の言う『普段の兄貴』に対しての言葉は、そのまま今のオレには突き刺さるということ。

 悲しみがあふれる。


「ま、まあ……貸してくれるんだったら、すまん助かる。貸してくれ」

 オレが軽く一華に向き直って頭を下げると、彼女は「ほいお」と返事らしい何かを口にする。その後自分のペットボトルを引っ掴みぐいっと傾けると、蓋を閉めつつ立ち上がった。


「ほいじゃあ適当になんか持ってくるから、兄貴は待ってて」

「あ、ああ。ありがとう」


 ソファーにもたれるオレの後ろを通りリビングを後にする一華に、オレはそう声をかけた。そして階段を上がる音が鳴り少ししたところで、何気なしに手持ちのペットボトルに目を向ける。


「……何故だろう。一華が妙に優しい気がする」


 それ自体は何ら問題ない。むしろ今この状況だと非常にありがたいことなのだが……。


 どうにも、いつものあいつの態度に慣れてしまってるせいで、何か裏があるんじゃないかと勘ぐっちゃうんだよな。


 要因として考えられるのは……やはり神三郎に頼まれたから、だろうか。彼女の場合、神三郎に頼まれればそれこそ命だって差し出しかねない勢いがある。無論、神三郎がそんな危険な命令を出すなんて思ってはいないが、イメージとしてそんな感じだ。


「……まあ、妙に律儀なところもあるし。たぶんサブさんのおかげだろうな」

 結局オレはさして深く考えることなく、そう結論付けることにした。大穴で一華には百合属性があるのではと思ったりもしたが。その線については考えないことにする。

 童貞捨てる前に処女を捨ててたまるか。


 とか言いつつ自分が襲われる側の光景をちらりと思い浮かべてしまったオレは、ぶるりと身震いをした。

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