第15話
「ただいまー」
がちゃりと玄関のドアを開けながら、オレはぽつりとそう口にする。まあ、時間的に誰も帰っていないのは分かっているのだが。習慣である。
「あー、しんど」
オレがのそのそとドアをくぐると、間髪入れずに一華が入ってきた。彼女は気だるげにぼやくと、オレの横をするっと抜けて先に家に上がり込む。
「……お前なぁ」
オレが玄関に立ったまま呆れ気味にため息をつくと、彼女はぴたと立ち止まった。そしてくるりとこちらを振り返る。その表情はどこか恨めし気だ。
彼女はおもむろに胸元まで右腕を上げると、その手でこちらを指さす。
「……大部分は兄貴のせいだから。こんなくそ田舎に金髪碧眼の外国人なんて、目立つにきまってるじゃん。それにやたら可愛いし、耳隠しか知らないけどこんな時期にニット帽なんて被ってさ。帰りめっちゃじろじろ見られて超居心地悪かったんですけど」
「……その節はご迷惑をおかけしました」
オレは何の反論も思い浮かばず、ただただ謝罪を口にするしかできない。
一華の言う通り、帰り道でのオレたちは、まさにすべての視線を一身に受けるような状態であった。やはり外国人そのものが珍しい地域であるからして、金髪碧眼の見るからに異邦人はどうしても目立ってしまう。そんなのが横にいたら、自然彼女も衆目の的になろうものだ。
「……まあいいわ。取り敢えず私はシャワー浴びるから」
そう言い残し、一華はそそくさと階段を上り始めた。風呂場は一階にあるのだが、その前に自室に立ち寄るつもりなのだろう。
一人取り残されたオレは、何気なしにその後姿を眺めていたが。やがて小さくため息をつくと、いそいそと靴を脱ぎ始める。
「……あいつ、揃えるくらいしろよ」
自分の分も含め、乱雑に脱ぎ散らかされていた一華の靴も揃えると、かがめていた腰を上げてあたりを見回した。
生まれてからこの方、ずっと見てきた玄関スペース。オレが生まれる前に建てたということで、そろそろ要所要所に古さが垣間見え始めている。備え付けの靴箱の上のちょっとしたスペースには、鍵や靴用のスプレーのほか、どこの土産品なのかもわからない、何とも形容しがたい置物が鎮座している。天井の照明もそろそろ黄ばみが目立ち始めたか。この中で一番新しいのは、土間から玄関小ホールへと続く空間に敷かれた、竹製のマットであろうか。そろそろ暑くなり始めたとかで、先週母親がホームセンターで買ってきた代物だ。置いた当初は割と目が行っていたのだが、一週間も経つと慣れてしまった。
「……まあ、目下一番新しいのはオレかもしれんが」
何せこの格好は生まれてからまだ一週間も経っていない。しかもずっとこの姿だったわけではないから、通算でもまだ十時間程度ではないだろうか。新鮮そのもの。ぴっちぴち(死語)のJKである。
いやまあ、それは置いておくにしても。
オレはあたりを見回した時に、少しだけ違和感を覚えた。目につくものは普段と何も変わらないはずなのだが、どこか違う印象が拭いきれない。はて、一体何に引っかかっているのだろうと考えたところで、オレはふと思い当たる。
「……そうか、背が縮んだから変に見えるのか」
男の時と比べて、十センチ以上は変化のある視界の高さ。その程度でそんなに見える風景が変わるものなのかと内心侮っていたが。やはり見慣れたもので比較するとその差は大きいように思えた。
「……まあいいや。オレも上がるか」
けれどそれ以上の感慨は浮かぶことはなく。というか、そもそもが女子になるなどという超現実に圧倒されたせいで、その程度のことが些事にしか見えない。今なら大抵のことが納得できそうな気がする。
肩に担いだ鞄の位置を直すと、オレは玄関ホールを階段へ向けて一歩進――
「――の前に、ちょっとトイレ」
もうとして、その先をリビングの方へと向けた。テレビの前に置かれたソファーの上にぼすんと鞄を置き、ついでに被っていたニット帽も脱ぐと、そそくさと廊下を出てトイレへと向かう。
そしてトイレの前に立ったところで、オレははたと立ち止まる。
「……大丈夫だ。一回ためしで行ったことがあるだろ」
実は数日前、検証の一つとして学校のトイレで用を足したことがあった。どうせ象さんが引っ込んだだけだろ的な軽い気持ちで臨んだ検証だったが、まさかあんなに違うとは……(自主規制)。そして、この年になって排泄のあれこれを報告する羽目になるとも思わなかった。真顔なのか下種顔なのかよくわからない表情で野郎どもから根掘り葉掘り聞かれる……。
男子からセクハラを受ける女子の気持ちがわかる体験でした。
「……何やってんの」
「……何でもありません」
少しの間葛藤していると、いつの間にか階下に降りてきていた一華が背後から声をかけてきた。その声色は気持ちの悪いものを見た時のようなものだった。
「キモイ兄貴がど変態まで備え付けたら、手に負えないから勘弁してよね」
「ど変態とか言うなよ! ちょ、ちょっと体の変化に戸惑ってただけだもんね!」
「……キモ」
オレの言葉に一華はそれだけ言い残すと、脱衣所の方へと消えていった。
「………………」
オレは無言でトイレの扉を開き、無心で用を足したのだった。
「はぁー……」
トイレから出た後洗面所で手を洗っている間に、オレは小さくため息を吐いた。
「自分の体だとはいえ、全然落ち着かないわ」
トイレ一つとっても、なんだかイケナイことをしているような気がして気が気じゃない。まさか自分に対して遠慮を働かせることが起きようとは。
「ほんとに、サブさんたちはえらいもの作ったよなぁ」
オレは顔を上げて鏡越しに自身を眺める。
相変わらず、目が覚めるような美少女だ。野暮ったい日本人ではまず作りえない顔のつくりと艶やかな金髪。ぱっちりとした目は見るものを引き込みそうな魅力がある。着ているうちの高校の制服が、辛うじて現実感を出していているが、どこか浮世離れした雰囲気があった。……そもそも、エルフなどという現実世界にはいない存在であるからして、浮世離れ以前の問題かもしれないが。
「………………美少女だなぁ」
オレはまじまじと鏡を眺めながらそうつぶやくと、不意にはっと我に返る。
「やべえ、これじゃただのナルシストだ」
ぶんぶんと頭を振って思考を散らすと、オレはタオルで手をぬぐいリビングへと戻る。その後ソファーの上に置いた鞄とニット帽をひっつかむと、リビングを出て階段を上り始めた。
「……そういえば、一緒に制服も変わったけど、これ別の服着て戻ったらどうなるんだろうな」
もし今の姿にフィットした服を着て男の姿に戻ったら服は変わりませんでした、とかなったら地獄を見るな……。などと他愛もない(?)ことを考えつつ、オレはいつものように自室へと赴く。オレの部屋は、階段を上がって右手に見える二部屋の奥の方だ。ちなみに、階段からすぐの手前の部屋は一華のものである。
一華の部屋を通り過ぎ、オレはいつものようにドアノブに手をかけて、自室の扉を開ける。さて、ようやっと一息つけるわーと内心思いながら一歩自室に踏み入ったところで。
「――っ」
オレは急制動をかけた。
「え、なにこれ……」
オレはあたりを見回した。
部屋の中には、ベッドのほかに勉強机やモニターが置かれている。モニターからは何本か配線が伸びており、そのすべてがその下のラックに置いてあるゲーム機へとつながっていた。そのほかベットの脇には本棚が置いてあり、その中には漫画とライトノベルが半々といった感じで収められている。そのラインナップと、本棚の上にはくじ引きで当てたアニメキャラのフィギュアがぽつんと飾られているあたり、若干オタクのはいった人の本棚といった装いだ。ほっといてくれ。
寝間着がベッドの上に脱ぎ散らかされているあたり、若干散らかっている印象も受けなくはないが、ごく一般的な男子生徒の部屋といったところだろうか。
そしてこの光景は、オレが朝家を出る時から何も変わっていない。何も変わっていないはずなのだが。
オレはわなわなと、信じられない現実に直面して震えあがった。
何が問題かって。
「……………くっさ!?」
そう、とても臭うのだった。
「え、なにマジで!? オレの部屋こんなに臭かったの!?」
それはおそらく、汗のにおいや体臭などがブレンドしたものなのだろう。何とも形容しがたいすえた臭いが、オレの鼻孔をくすぐりお前の部屋臭いぞと訴えかけてくる。
オレは顔をしかめながら早歩きでベッドの向こうにある窓へと向かう。そしてベッドの上で膝を立てると、いそいそと窓を開けた。
「おぉお……ベッドもすごい臭いだわ」
体重をかけたことによってベッドのスプリングが沈み、ふわっと臭いがあたりに広がる。オレは慌ててその場を離れ、出入り口まで退避した。
「…………」
オレは直面した現実に対して、悲壮感漂う表情を浮かべた。
「……オレ、こんな中で一日中過ごしてたの?」
まあ確かに、特ににおいに気を遣っていない男子生徒であるからして、少なくともいい匂いはしないだろうと思ってはいたが。まさかこんなにも近寄りがたい悪臭の中生活していた……しかもそれに全く気が付かなかったというのは、オレにとって非常に衝撃の強い事実だった。やはり自身の体臭というのは気づきにくいものなのだろう。それが性転換をしたことで如実に認識できるようになったということか。
「…………一華が臭いから近寄るなと言うわけだぜ。はは……」
オレは思わずその場でぺたんとしりもちをついた。その端正な顔には、小さく笑みが浮かんでいたが、目元からは涙がこぼれていた。
……誤解のないように言っておくけど、別にこれはオレの部屋が特別臭いわけではないから。ごく一般的な男の部屋のにおいだから。そこは勘違いなきよう。
男なんて、女性から見たらどうせ誰も彼も臭いんです。……たぶん。
そうじゃないと、オレの心が死んじゃいます――
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