病気でいることの難しさ

「難病だけにね」

「そう。難病だけに、この状況ね」

 キッツは一人、頭の中で会話した。

 誰と誰が話しているのか。

 通りすがりのAとB。

 否、自分と誰か。

 否、自分と自分。

 ひとり、なのだ。

 配偶者とは別居中。子供なしの一人暮らし。加えて休職中。2LDKのマンションのリビングルームの真ん中に、ポツンと座っている。

 独り言をブツブツとつぶやく習慣だけはつけたくない。一人暮らしが長いと、独り言が増えるものだと思う。はたから見て、寂しい姿だ。むしろ哀れとも言える。だからキッツは独り言を習慣化させることだけはしたくなかった。心の声は頭の中で完結さするよう、自制心を持って取り組んでいる。

 そんな彼女は、ひとりだ。

 孤独という熟語は、孤も独も両方、ひとりであることを指す。孤は、親のいない状態のこと。独は子がいない状態のことを言う。

 キッツに両親はなく子もいないかというと、前半はNoであり、後半はYESである。だから根っからの孤独という立場ではなかったが、今この時点で孤独を感じていることには間違いなかった。

 皮膚筋炎という病気は難病で、原因は不明であり、治療経過も人それぞれ。事例数も少なく、ネット上に提供されている情報もわずかだ。これから一体自分はどうなってしまうのか。この根本的な疑問が常に頭の端にある。

 現在の医療レベルでは、ほぼ死ぬ病気ではない。合併症などで命を落とす場合もあるらしいが、皮膚筋炎が直接の原因となることはないようだ。この病気で死ぬことはないという、最低限のラインは保たれている。多くの患者が元の職場に戻り、社会復帰を果たしているようだ。 薬物療法、主にステロイド投薬で寛解に至るケースが多いという。 

 治療が進むと、病気の症状である顔や手先の湿疹、薬の副作用であるムーンフェイスも軽減していく。衰えた筋力も徐々に回復し、車いすや杖なしにも歩けるようになる。ということは、一見すると、健常者と変わらない状況になるのだ。

 それは喜ばしいことだが、同時に問題も引き起こす。

 病気に見えないため、他人から病人扱いされなくなるのだ。

 病人扱い、とは、常に気を遣ってケアをしてくれ、ということではない。歩行が可能になっても、10分以上は歩き続けられないとか、バスや電車で、車内が揺れる中立ち通しなのは筋肉が持たず、膝や太ももに痛みが出るなど小さなことが色々起こる。こんな体の状態だから、少し他人と接触しただけで倒れてしまう可能性もある。その場合、接触した人も不快に思ったり、罪悪感を持ったりするだろうし、倒れた本人も骨や筋力が弱っているため骨折などの怪我をする恐れがある。だから、常に温かい心をもって優先してくれということでは決してないのだが、優先席に座ることを認めて欲しいとか、過度な接触、ぶつかったり押しのけたりすることは出来るだけしないでほしい(これは病人に限ったことではないが)。

 と、一方的な願望を抱いたところで、一見健常者に見えてしまう難病患者に骨折して松葉杖をついている人への対処と同じものを求めるのは、図々しいようにも思う。そこでキッツの場合は、東京都が配布しているヘルプカードを持ち歩くようにしていた。

 PASMOなどのカードと同じくらいの大きさの真っ赤なカードには、白抜きでハートマークと十字マークが施されている。シリコン素材らしいカードは柔軟性があり、携帯しやすい。キッツは社員証などを下げるための紐を取り付け、首からぶら下げられるようにしている。

 公共交通機関に乗る時は、このヘルプカードを水戸黄門の印籠のように首から下げて乗り込む。そうやって周囲にアピールすることで、優先席にも自ら座ったり、乗客から席を譲られたりするようになる。キッツが一番喜ばしく思っているのは、“元気な老人“に罪悪感を持つことなく、優先席に座り続けられる免罪符を得た、ということだ。

 病気になる前には気付かなかったことだが、バスの利用者には老人がとても多い。それが平日の昼間となるとなおさらだ。そうした中で、優先席付近に集まるお年寄りをたくさん見た。もちろん優先席の対象者に老人は含まれているし、実際問題加齢により立っているよりも座っている方が楽なのであろう。加えて日本は年寄りを敬う文化がある。高齢者もこれらを自覚しているから、優先的に椅子に座ろうとする。この状況下で40歳のキッツが優先席に座ろうとしたり、座ったりしていると、真冬の冷凍庫のような冷たい視線が飛んでくるのだ。その眼差しの冷ややかなこと。個人の体力や健康状態というのは見た目ではわからない。それはキッツがこの病気になって思い知ったことである。だから本当のところはわからないのだが、それでも元気な老人、というのは確実にいると思う。少なくとも、難病を抱えた自分よりは元気な高齢者。そういう人達へ席を譲ることなく、自分が座っても良いのだと思えることは、キッツにとって大きなことだった。

 ヘルプカードの導入によって、他人から病人扱いされないことへの対処は可能になった。それは完璧なものではないし、状況によっては異なる対処が必要となってくるだろう。しかし問題に対して処置ができる、というのは難病患者にとって大いなる前進である。

 ここでキッツの抱える別の問題に着目したい。

 これこそが、皮膚筋炎を抱える患者にとって、本質的な問題であると思う。

 それは患者自身が自分自身を病人扱いできなくなる、ということだ。

 お岩さんのような顔の爛れも引いた。

 全身掻きむしったような擦過傷も消えた。

 寝返り一つ、箸一本持つことも出来なかった筋力は、皿洗いや洗濯物をこなすほどに回復した。

 治療として手術をしていない。

 骨折、捻挫、透析、代用胃。何もしていない。

 ステロイドは投薬中であり、副作用を軽減する薬も飲んでいる。けれどもそれは徐々に減っているし、朝晩水で流し込めば済むことだ。一分もかからない。

 こんな状況で、私は果たして本島に難病を抱えた病人なのだろうか。

 休職して、社会から確立して、治療に没頭しなければいけないほどの重病人なのだろうか。

 自分が病人であることへの疑い。

 仕事をしていないことへの罪悪感。

 世間と断絶していることへの孤独感。

 役立たずの独り者。

 そうは思いたくなくても、そう思ってしまう。一度頭を過った考えは、心にこびりついて剥がれない。自分で考えた言葉が、自分自身を打ちのめす。

 そうやって、ひとり、ソファーに座り悶々と頭の中で繰り返す。

 私はそんなに重度の病気なのか。

 もう仕事に戻れるのではないか。

 私は役立たずではない。

 独り立ちした立派な大人であるはず。

 だって、家事は出来るし、一人暮らしも出来ているし。

 そして近所のスーパーに買い物に行くだけで思い知らされるのだ。

 たった5分歩いただけで、動機がする。米もペットボトルのお茶も買えない。重くて家まで持って帰れないから。軽くて調理の手間がかからないものを最低限だけ買う。リュックに入る量しか買えないし、重くなるとマンションの階段を上がるのがとても難しいし、翌日まで膝の関節痛に苦しむことになる。料理は出来るが、握力が弱っているから包丁を使うのは危ないし、10分以上台所に立ちっぱなしでいるのは、下半身に負担がかかり、これも痛みが次の日まで続く。

 そもそも歩けると言っても、健常者のスピードの2倍以上かけてゆっくりと歩くことしかできない。少しペースを上げると、動機が激しくなり足が痛みだす。近所に買い物に歩いて出て帰ってくる一時間半の工程をこなすと、必ず翌日まで筋肉痛と関節痛が続く。外に出ている間は、日光と感染症に気を付けなくてはいけないため、冬でも日よけの帽子は必須だし、夏でも暑苦しいマスクは着用しなくてならない。

 そして主治医には、無理をすると症状が再発する、と常々言われている。

 再発、というと、この今の状況はまだ病状が収まっている方で、もれなく再発した際には、また寝返り一つ打てず、指一本動かせない状況に戻るということだろうか。目が開かないほど瞼が腫れ、頭皮は膿み枕は黄色く汚れ、両足が痒くて痒くて動かない腕を無理やり伸ばし、懸命に掻きむしっては筋肉疲労で全身脂汗をかいたあの状態に戻るということか。

 こんな状況で、私は病人ではありません、などと言えるだろうか。

 キッツは自問自答する。

 一見病人ではない私。

 けれども健常者ではないし、また重篤患者に戻る可能性のある私。

 普通に見えて普通じゃない。

 制限があり、小さな枠の中でしか生きられない私。

 こんな私は何なのだろう。

 役立たず?

 社会のお荷物?

 家族のお荷物?

 そうではないはず。

 生きていることだけでも意味があるはず。

 そもそも生きている意味って?

 生きていることに、意味は必要なの?


 キッツは蟻地獄に嵌る。

 自問自答の無限ループに捕らわれる。

 皮膚筋炎だけに限らず、その他の難病、難病だけに限らず様々な病を抱える人にとって共通する問題であると思う。

 自分への疑問。

 生への疑問。

 現時点でのキッツの回答はこうだ。

 生きていることに意味はないし、意味付けする必要はない、だ。

 

 

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