第85話 紅い果実(大)

 その果実は、アダムとイブが食べて楽園を追放されるきっかけになったと言われている。

 その果実は、万有引力の法則を発見するきっかけになったと言われている。

 その果実は、知恵の実や禁断の果実と呼ばれ、人類に知恵と不幸ともたらしてきた。


 人類の歴史に深く関わるその果実は、ときにその姿を変化させることもある。


 白い身体と、赤い耳。

 ちょこんと座った丸みをおびた身体。

 植物を動物に変化させる奇跡。

 その姿は愛らしく、その魅力に抗うことはできない。


 まさに、楽園の果実にふさわしい。


「すみません。熱が出たので今日は休ませてください」


☆★☆★☆★☆★☆★


 冒険者(サラリーマン)たるもの、体調管理は必須技能だ。

 たとえ、強敵(インフルエンザウイルス)がひしめいていたとしても、絶対防御(マスク)を駆使して攻撃をしのぎきり、クエスト(お仕事)を遂行する。

 なのだが、稀に、それほどでもない敵(病原菌)に敗北をきっしてしまうことがある。

 いや、現代医学においても、特効薬がないことを考えると、手強さは上かも知れない。


「はい。昨日、病院に行って検査してもらったら、インフルエンザではありませんでした。ただの風邪です」


 油断した。

 いや、油断したつもりはないのだが、どこからか敵(病原菌)の侵入を許してしまったらしい。

 数年に一度、こういうことがある。


「それでは、よろしくお願いします」


 ぴっ。


 課長に電話して、許可はもらった。

 後は、できるだけ早く、侵入した敵(病原菌)を撃退して、戦線復帰することが重要だ。


 ぐーっ・・・


 空腹は感じていないのだが、身体が栄養補給を訴えてくる。

 クリームパンを手に取る。


 ・・・・・


 普段、朝食に食べているものなのだが、どうも甘ったるいものを口に入れる気になれない。

 ならばと、普段、朝食に飲んでいる牛乳に目を向ける。


 ・・・・・


 ダメだ。

 どうも、こってりしたものが喉を通りそうもない。

 身体が怠いが仕方がない。

 買い出しだ。


☆★☆★☆★☆★☆★


 近所のスーパーにやってきた。


 さて、ここは慎重に選択しなければならない。

 敵(病原菌)に侵された身体の熱が上がってきた気がする。

 二度目の買い出しは不可能かも知れない。

 何とか一度で必要なものを手に入れなければならない。


 ガラガラガラ


 カートを引きずりながら通路を進む。


 ぼんぼんぼん。


 まず、これは必要だろう。

 スポーツ飲料。

 水分補給は大事だ。

 少し多めにカゴに放り込む。


 よし、次は食糧だ。

 敵(病原菌)に侵された身体でも受け付けることができるものを選ぶ必要がある。


 肉・・・ダメだ。脂を想像しただけで拒否反応が出る。

 魚・・・ダメだ。肉よりはマシだが同じ理由で拒否反応が出る。

 野菜・・・いけそうだが、料理をする気がおきない。とりあえず、そのまま齧れるキュウリだけ確保する。

 ご飯・・・ダメだ。普段なら好ましいモチモチした食感が今はつらい。

 パン・・・ダメだ。こちらも小麦の香りが今はにくい。


 いかん。

 ほとんどの食糧を身体が受け付けそうにない。

 だが、焦ってはいない。

 本命は次だ。


 果物。


 さて、何にするか。

 しばし、見回す。

 やはり、これだろう。


 リンゴ。


 医者いらずとも言われ、現代医学でも特効薬がない風邪を予防することさえ可能な、神秘の果物だ。


 ごろごろごろ。


 迷わず大量にカゴに入れる。


☆★☆★☆★☆★☆★


「・・・食べ物がキュウリとリンゴしかない」


 自宅に帰って購入した品物を見て愕然とした。

 熱に侵された頭では、どうも正常な思考ではなかったようだ。


「せめて、レトルトのおかゆとか・・・」


 しかし、もう一度買い出しに行くのは無理だ。

 仕方がないので、キュウリだけ齧って横になった。


☆★☆★☆★☆★☆★


 ぴんぽーん。


 呼び鈴の音に目を覚ます。

 時刻は19:30。

 定時で仕事を終わったら帰宅するくらいの時間だ。


 ぴんぽーん。


 怠い身体を起こして玄関に向かう。


 がちゃ。


「先輩、大丈夫ですか~?」


 後輩がそこにいた。


「お見舞いにきました~」


 そう言えば、近所だった。


 ・・・・・


「さあ、召し上がれ~」

「いただきます。・・・・・おいしい」


 後輩が作ってくれたのは雑炊だ。

 それも、粘りが出たもったりしたものではなく、さらさらタイプだ。

 のどごしがよく、食欲がないときは嬉しい。

 これなら、食べられる。


「ごちそうさま」

「おそまつさまです~」


 食欲がなかったはずだが、あっという間に食べてしまった。


「デザートもありますよ~」


 ウサギ型に切ったリンゴを差し出してきた。


「はい、先輩、あ~ん」

「あの、置いといてくれれば、自分で食べられるけど」

「む~、この前は食べてたのに~」

「・・・・・」


 ぱくっ・・・シャリシャリ。


 果物の果汁がほてった身体に染み込んでいく。


 ・・・・・


「それじゃあ、お大事に~」

「ああ、ありがとう」


 後輩が帰っていった。

 さて、後輩のおかげで栄養補給ができた。

 これで、敵(病原菌)とも戦えそうだ。

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